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対談:レナート・バルディ×片野道郎「サッカーおたく」が世界を変える

2020.07.12

7/29(水)発売『モダンサッカーの教科書II』刊行記念公開

7月29日(水)に発売される『モダンサッカーの教科書II』。その刊行を記念して、大好評の前作『モダンサッカーの教科書』に収録された対談を特別公開。共著者の1人であり現在ボローニャで冨安健洋を指導するレナート・バルディは、10部からプロ指導者への道を切り開いた「新世代コーチ」として知られている。その軌跡をたどり、新たな教科書の発売に備えて予習をしておこう。

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プロ選手経験が重視されるイタリアの監督・コーチ業界において、一介のアマチュアコーチがセリエAまで出世するのはレアケース。しかし、情報テクノロジーの進歩を背景に最先端のサッカーをボーダーレスに研究する“サッカーおたく”が、その道を究めることでトップレベルに羽ばたくケースは、欧州全体で急速に増えている。そのトレンドの一端を担うバルディに、取材時点(2018年4月)までのユニークな指導者キャリアの歩みを振り返ってもらった。

グアルディオラに魅せられて

片野「南イタリア、サレルノに近いカーバ・デ・ティレーニで生まれ育ったんですよね」

バルディ「ええ。出生地は生まれた病院がある隣町のノチェーラですが、生まれてから今までずっとカーバに住んでいます。カーバとノチェーラは犬猿の仲なので、私がノチェリーノ(ノチェーラ人)だなんてことになったらカベーゼ(カーバ人)から袋叩きにされますよ(笑)」

片野「プロフィールを直しておきますね(笑)。まず、サッカーとの出会いから聞かせてください」

バルディ「サッカーは生まれた時からずっと私の周りにありました。家には1歳の時にボールを抱えていた写真が残っています。家族や親戚、友人たちもみんなサッカーが好きで、家の中でも外でもボールを追いかけながら育ったようなものです。 5歳の時にはもう地元のサッカースクールに入っていました」

片野「最近はイタリアでもストリートサッカーをする環境はなくなってしまいましたが、レナートの子供時代はまだありましたか?」

バルディ「ええ。私はストリートで育った世代ですよ。サッカースクールには週3回通っていましたが、それ以外の日も学校から帰ってきたら、暗くなるまでストリートやアパートの中庭でボールを蹴っていました」

片野「どんな子供でしたか?」

バルディ「ボールに触っているのが好きで好きで、いつもドリブルばかりしている子供でした。小さくて痩せていましたが足が速くてすばしっこかった。ポジションはずっとFWでした。近所の子供の中ではうまい方で、12歳から17歳まではセリエCで戦っていた地元のプロクラブ・カベーゼの育成部門でプレーしました。でも当時はレベルがすごく高くてレギュラーにはなれなかったし、自分がプロになれると思ったことは一度もありませんでしたね。周りよりちょっとうまいけどそれ以上ではなかったので」

片野「指導者に転身しようと思ったきっかけは?」

バルディ「17歳の時に慢性の恥骨結合炎になって、 2年近くプレーから遠ざからなければなりませんでした。それで競技レベルでのプレーは諦めざるを得なくなった。故障が治った後は、友人たちとチームを作って、大学に通いながら地元のアマチュアリーグで趣味としてプレーを続けました。サッカースクールで一緒だったエミリオ・デ・レオに誘われて、その同じサッカースクールで子供たちのコーチをしたのが22歳の時でした」

片野 「エミリオとはサッカースクール時代からの繋がりなんですね」

バルディ「5歳の時に同じサッカースクールに入って以来の仲です。中学、高校は別でしたし、サレルノ大学でも私は経営学、彼は法学と別々の専攻でしたが、友達付き合いはずっと続いていました。彼は早くから指導者の道を歩み始めていましたが、私はプレーする方が好きだったので、スクールのコーチは1年で止めて、その後も30歳までアマチュアのマイナーカテゴリーでボールを蹴っていまし
た。大学を卒業した後は、税理士の国家試験に合格して、父が経営する税理士事務所で仕事をしていたんですよ」

片野「じゃあ20代は学業と仕事の傍ら、純粋なアマチュアプレーヤーとして過ごしたんですね。その頃は監督・コーチという仕事に特別な興味を持ってはいなかった?」

バルディ「もちろん1人のサッカーファンとしてたくさんの試合をTVで見てきましたが、どちらかと言えばプレーヤー目線で、戦術やトレーニングといった監督目線、コーチ目線で見ていたわけではありませんでした。サッカースクールでのコーチ経験も、それはそれで楽しいものでしたが、これを続けたいと当時は思わなかった。それが変わったきっかけは、2008年にグアルディオラのバルセロナに出会ったことです。あのチームの戦いぶりを見て、このサッカーはどういう仕組みで成り立っているのだろうという興味が突然湧いてきたんです。それで、バルセロナのすべての試合を何度も何度も見返して分析メモを作ったり、関連の記事や本を漁ったりして、自分自身のために研究を始めました。それを重ねるうちに、分析メモはかなりの量になっていきました。カベーゼの育成コーチになっていたエミリオにそれを見せたのがきっかけで、一緒にバルセロナをはじめとする様々なチームの戦術を研究するようになったんです」

バルディが指導者を志すきっかけとなったペップ・バルサ

片野「そこから戦術の沼にずぶずぶとはまっていったわけですね(笑)」

バルディ「そういうことですね。バルセロナに旅行して戦術やトレーニングについての本を買い漁ったりもしました。ポジショナルプレー、ロンド、戦術的ピリオダイゼーションといった、当時スペインやポルトガルで広まり始めた最新のトピックについての本ですね。それがイタリアでも広まるのはもう少し後になってからのことです。その翌シーズン(09-10)には、ノチェリーナのアッリエーヴィ(U-17)監督になっていたエミリオを外部からサポートして、毎週のトレーニング計画などを一緒に立てるようになりました。同時に、UEFAベースのコーチライセンスを取って、地元の育成クラブでエソルディエンティ(U-11)の指導も始めました。税理士の仕事の傍らでしたが、そうやって深入りしていくうちに、この仕事を本格的に突き詰めたいという気持ちが強くなってきました」

10部リーグから始まった小さな革命

片野「そうは言っても、税理士という安定している上に社会的地位が高い仕事を捨てて、サッカーの世界に飛び込むというのは簡単な決断じゃありませんよね。

バルディ「まあね。でも私にとっては自然な選択でした。きっかけは、 2011年の夏にカベーゼが破産・消滅して、地元の2つのアマチュアクラブがその権利を継承しようと動いたことでした。その一方、アクイロット・カベーゼは、いったんアマチュアの一番下のカテゴリーであるテルツァ・カテゴリア(10部リーグ)からスタートし、翌年カベーゼの権利を買い取ってセリエDに参加するという構想を持っており、監督にエミリオを指名したんです。当然エミリオは私に声をかけてくる。でもそのプロジェクトに乗るためには、フルタイムでコーチの仕事に専念する必要があったんです。その時に、今もビデオアナリストとして一緒に仕事をしているダビデ・ランベルティを誘って、3人のチームができ上がりました。ダビデがチームの練習と試合を毎日ビデオに録り、エミリオと私がそれを分析してトレーニングや戦術を計画し、それに基づいてダビデがビデオを切り出しチームに見せるクリップを作るという仕事の流れは、この時にでき上がったものです。現在の私たちのメソッドは、すべてこの時に構築したものがベースです」

片野「10部リーグでそんな仕事をしていたチームは他にはなかったでしょうね」

バルディ「もちろんありませんでした。でも私たちは翌年セリエDで戦うことを前提にしていたので、できることはすべて全力でやりました。選手も、エミリオがカベーゼとノチェリーナの育成部門で監督をしていた当時の教え子を集めて、アマチュアとしてはかなりのレベルにありましたし。実際、そのシーズンは24試合で24勝、124得点6失点という圧倒的な成績でリーグ優勝しましたよ。ただ、残念ながらアクイロットはカベーゼの権利を継承することができず、最終的には継承したもう1つのクラブに吸収される形で消滅して、プロジェクトはそこで終わってしまったんです。とはいえ、エミリオはその頃すでに、当時マンチェスター・シティの監督だったマンチーニと外部スタッフとしてコラボレーションを始めていたので、その縁で次のシーズン(12-13)、セルビア代表監督になったミハイロビッチの助監督を務めることになりました。私は私で、人を介して知り合ったカルミネ・ガウティエーリ(当時セリエBのランチャーノを率いていた)のスタッフとして、対戦相手分析の仕事を始めたんです」

片野 「それがプロの世界への入り口になったわけですね」

バルディ「ええ。以前カベーゼの育成部門でコーチをしていた知り合いがガウティエーリの助監督になり、その縁で声をかけてくれたんです。最初はプレシーズンキャンプを訪れて、トレーニングや練習試合の内容について意見をかわしたんですが、そこで気に入ってもらえたのか、シーズンが始まってから対戦相手分析を頼まれるようになりました。何試合かを分析してレポートを書き、ダビデに手伝ってもらってビデオクリップを作って一緒に送るという形で、リモートワークをしていました。ランチャーノはその年セリエB残留という目標を達成したのですが、ガウティエーリは契約を更新せずフリーになったので、次のシーズン(13-14)は、以前から付き合いがあったマルコ・ズニーノの誘いを受けて、彼が責任者を務めていたナポリのスカウティング部門を手伝うことになりました。ベニテス監督、ビゴンSDの時代です。ナポリが獲得リストに挙げている選手のプレーを評価する仕事でした。この時、当時マルセイユでプレーしていたヌクルもチェックしました。いいDFだということはわかっていたので、昨夏トリノがリストアップした時にはすぐに獲得を進言しましたよ」

右からバルディ、デ・レオ、ランベルティ。3人の幼なじみが今、カルチョのトップレベルでともに戦っている

片野「そのシーズンの途中、バレーゼ(セリエB)の監督になったガウティエーリに合流し、続く14-15シーズンからミハイロビッチのスタッフに加わったんですね」

バルディ「13-14シーズン途中にサンプドリアの監督になったミステル(ミハイロビッチ)が、次のシーズンに向けてスタッフを増員することを決めた時、エミリオが私を推薦してくれたんです。ちょうどその頃、サンプのオーナーがガッローネ家から今のフェレーロ会長に替わって、ガッローネ前会長との間で合意していた増員計画が帳消しになりかけました。その時、ミステルはフェレーロが持ってきた契約書を破り捨てて、増員を受け入れないのなら監督を辞任する、と強く迫ったんです。まだ私のことをほとんど知らなかったにもかかわらずですよ。スタッフに加わって本格的に仕事を始める前から、私をリスペクトし信頼してくれていた。それだけで、ミステルがどんな人物かわかりますよね」

片野「コベルチャーノ(FIGCのテクニカルセンター)で教えるようになったのもその頃からですか」

バルディ「その翌年、ミランに移ったシーズンからです。サンプで仕事を始めてからも、ズニーノとは連絡を取り合い、選手やチームについてしばしば意見を交換していました。彼はイタリアで最も優秀なスカウトの1人で、世界中のプレーヤーについての膨大な情報と知見を持っています。ナポリで仕事をしている時に、彼が使っているプレーヤーの評価・分析のフレームワークを共有し、それがその後も非常に役立ったこともあって、私の方から同じようなやり方でチーム分析のフレームワークを確立し共有できるようにしないか、という提案をしたんです。彼は当時からコベルチャーノのスポーツディレクター講座でスカウティングについて教えていたので、SDがスタンドから試合を見て気がついたことを監督やテクニカルスタッフに伝えるというような状況を想定した時に、現場と同じフレームワークを共有するメリットと重要性をすぐに理解してくれました。それで一緒にフレームワークを完成させ、それが講座に組み込まれることになったんです。ちょうど同じ年(2015年)からFIGCでスカウトの資格認定講座も始まり、そこにも組み込まれました。その両方で私が講師を務めるようになったというわけです。自分の仕事がFIGCに認められ、イタリアにおけるチーム分析のスタンダードとして取り入れられたわけですから、とても誇らしく思っています」

片野「サンプドリアと比べてミランは歴史と伝統においても、施設や設備の充実度という点でも大きく異なるビッグクラブですよね。仕事の仕方が変わった部分はあったのでしょうか」

バルディ「仕事の環境という点では間違いなく最高レベルです。ベルルスコーニ体制の終わりで、財政的にも厳しい状況にありましたが、我われが現場レベルでそれを感じたことはまったくなかった。ミラネッロには最高の仕事をするために必要な環境がすべて整っていましたね」

直面したカルチョの現実

片野「我われのこのコラボレーションがスタートしたのもミラン時代でした。アレグリが去って以来迷走していたチームを軌道に乗せて、1つの明確なアイデンティティを確立しつつあるように見えただけに、シーズン終盤の一時的な失速で途中解任という結末に終わったのは残念でした」

バルディ「セリエAではEL圏内を確保し、コッパ・イタリアでも決勝に勝ち進んでいましたし、チームとしてもやっと基盤が固まって、2年目に向けて成長の道筋がはっきりと見えてきた段階だっただけに、残念な解任でした。私たちはそれまでとは違うプレーコンセプト、トレーニングメソッドを持ち込んでいましたし、それがチームに浸透し目に見える形で結果に繋がるまでにはある程度の時間が必要でした。ドンナルンマ、カラブリア、ロカテッリといった生え抜きの若手をトップチームに引き上げて積極的に起用するなど、目先の結果だけにとらわれないプロジェクトを進めていた。選手たちからも手応えを感じさせる反応が返ってきていましたし、あのまま続けられれば2年目にはずっといい結果が出ていたはずです」

片野「ベルルスコーニ会長が周囲の反対を振り切って解任を決めたのを憶えています」

バルディ「実際、ガッリアーニ副会長は常に私たちを支持し守ってくれましたし、クラブオフィスからミラネッロまで、一緒に仕事をしてきた人たちは誰もが私たちの仕事を評価し支えてくれていました。ただミランは会長の一存ですべてが決まる組織でしたから、彼らにもできることは何もありませんでした」

当時ミランで信頼関係を築いていたというミハイロビッチ監督とガッリアーニ副会長

片野「続く16-17シーズンはトリノが仕事場になりました」

バルディ「トリノはミランと比べると財政規模がずっと小さい分、チームや施設に対する投資にも限界はありました。しかしその枠の中で、私たちがいい仕事ができる環境をできる限り整えてくれました。ピッチ上の結果に対しては賛否両論あると思います。でも、少なくとも確かなのは、サンプドリアでもミランでもトリノでも、シーズンが始まる時点と終わった時点で、チームが抱えるプレーヤーの市場評価額は大きなプラスになっているということです。つまり私たちは、チームの資産であるプレーヤーの価値を高めることを通して、クラブに大きな貢献を果たしてきた。それを2年目、3年目に結果を追求するために生かすのか、売却して利益を挙げるために使うのかは、クラブの経営方針次第です」

片野「会長とのトラブル、というか意見の不一致による解任は、ミランに続いてトリノでの2年目にもう一度繰り返されることになりました。ミハイロビッチはクラブにとっては扱いにくい監督だという側面もあるのでしょうか」

バルディ「ミハイロビッチを招へいして契約する時点で、クラブの側はどういう人物と仕事をするのかについて、明確なアイディアを持っているはずです。彼は自分の仕事に関しては全責任を負うかわり、外からの干渉を受け付けませんし妥協もしません。たとえそれが会長であろうと、それを要求した時点で摩擦が生じるのは避けがたいことです。ミランでもトリノでも、立場の違い、意見の違いが表面化して、監督がトップの干渉を受け入れる意思を示さなかった時点で、仕事を続けていくための前提が崩れてしまったということです」

片野「会長が目先の結果に過度に振り回されて、長期的な視点に立った忍耐力に欠けるところは、ミランやトリノに限らずイタリアサッカー界全体の大きな問題だと思います」

バルディ「目先の結果が出ないとすぐに監督の首をすげ替えるのは、そうすれば結果が良くなるかもしれないと信じているからでしょう。ただ、実際にはそれも単なるギャンブルにしか過ぎません。良くなる時もありますがそうでない時も同じかそれ以上にある。いずれにしても監督の仕事は、目先 の結果だけでなくその仕事がクラブ、チーム、選手に何をもたらし、どのような成果が期待できるかによって、多角的、総合的に判断されるべきだと思います」

準備する力、そして向上する力

片野「こうしてレナートのキャリアを振り返ってみると、プロサッカーの世界では非常に珍しいケースであると同時に、たとえ選手としてエリートキャリアを持っていなくとも、能力、情熱、そして継続する意志を持ち、質の高い仕事を積み重ねていけば、トップレベルまで到達することは可能だという、新しい希望を与えてくれるケースでもありますよね。

 ミハイロビッチ監督の解任に伴って、今はフリーの状態にあるわけですが、今後のプロジェクトについても聞かせてください」

バルディ「一番重要なプロジェクトは、向上し続けるということです。重要なのは何をするかではなく、どのようにするかということの方です。私にとって問題なのは、セリエAで仕事をしていること自体ではなく、セリエAでどのように仕事をしているか、それが納得でき満足をもたらしてくれるようなものであるかどうかの方です。レベルが上がれば上がるほど、使える道具、施設や設備や機能は多くなりますし、得られる注目や賞賛も大きくなります。しかし違いを作り出すのはそれらではなく、どのように仕事に取り組むか、それがどのようなアウトプットをもたらすかの方です。今は、ミステルが次のチームを見つけてそこに私も呼んでくれることを期待しています。しかしその確証があるわけではない。ですから今は何よりも、自分を向上させること、毎日チームで仕事をしている時には不可能な様々なアップデートに努めています。私は長期的なプロジェクトに取り組むよりも、日々の積み重ねを続けながら少しずつ前に進んでいくアプローチを好むタイプです。ミハイロビッチと仕事を続けられるならそれが一番ですが、そうでなければ違う道を探すことになるでしょう」

片野「監督として独り立ちしようと考えたことは?」

バルディ「ないと言ったら嘘になります。しかし実現するとしてもまだ先のことでしょう。今はまだその準備はできていないし、すぐにやりたいと思っているわけでもありません。監督としても人間 としてもまだ積み重ねの途中です。準備ができたと思えるようになって、そこにチャンスがやって来 た時には飛びつくでしょう。ただ今はまだ経験と学習が必要です。まずはミハイロビッチと一緒に、何か素晴らしい結果を勝ち取るような仕事ができればいいですね」

Renato BALDI
レナート・バルディ

1978.7.24(41歳)ITALY

イタリア・カンパーニア州カーバ・デ・ティレーニ出身。地元のアマチュアクラブで育成コーチとしてキャリアをスタートし、セリエBのランチャーノ、バレーゼでカルミネ・ガウティエーリ監督のスタッフとして戦術分析を担当。ミハイロビッチがサンプドリア監督に就任した際にスタッフに加わり、ミラン、トリノ、そしてボローニャにも帯同。チームのパフォーマンスと対戦相手の分析を担う。2018年に『 モダンサッカーの教科書 』(小社刊)を上梓。


Photos: Michio Katano, Getty Images

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レナート・バルディ戦術指導

Profile

片野 道郎

1962年仙台市生まれ。95年から北イタリア・アレッサンドリア在住。ジャーナリスト・翻訳家として、ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を広げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。主な著書に『チャンピオンズリーグ・クロニクル』、『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』『モウリーニョの流儀』。共著に『モダンサッカーの教科書』などがある。