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“21歳の大学生ルーキー”が携える覚悟と使命。名古屋グランパス・加藤玄は自分の信じた道をいく

2025.02.20

2月15日。2025シーズンのJ1開幕戦。名古屋グランパスの“大学生ルーキー”として注目を集めている加藤玄はスタメンに指名され、プロデビューとなる川崎フロンターレ戦のピッチに解き放たれた。本来は今年も4年生としてプレーするはずだった筑波大蹴球部を退部し、1年前倒しでアカデミー時代を過ごした古巣へと帰還した21歳の覚悟と背負っている使命を、本人の言葉を交えて書き記す。

 取材エリアに現れたそのルーキーは試合の感想を問われると、少し早口で一気に想いを吐き出していく。

 「もう何もできなかったし、たくさんボールに触りかったし、ちょうど交代するタイミングの手前ぐらいから、こっちにゲームが傾くかなと思っていて、『ここからがオレの見せ所だ』と思っていたタイミングでの交代だったので、メッチャ悔しかったし、もっとやれた想いもあるけど、そうも言っていられないので。来週また試合があるので、立ち止まっている暇はないし、ちゃんと試合を見て何が良くなかったのか分析して、また次に進みたいと思います」

 2月15日。Uvanceとどろきスタジアム by Fujitsu。2025シーズンのJ1リーグ開幕戦。アウェイで川崎フロンターレに0-4と完敗を喫した名古屋グランパスの“大学生ルーキー”。加藤玄がピッチに立ったJリーグデビュー戦のほとんどすべては、自ら発した言葉の中に過不足なく詰まっていた。

中学生で意識した筑波大蹴球部。目標から逆算した高校選び

 覚悟の“復帰”だった。開幕戦からさかのぼること、2か月前。昨年12月12日に名古屋グランパスから1つのリリースが発表された。『加藤玄選手、2025シーズン加入内定のお知らせ』。まだ大学3年生の加藤は卒業を待つことなく、プロの道へと足を踏み入れる決断を下したのだ。

 「今でも自分らしくないなって思いますよ」。筑波大蹴球部へと入部した際に掲げた目標は、『キャプテンになって、チームを日本一に導く』というもの。本人も「一番筑波への愛を持って、一番長く大きな帰属意識を醸成してきた自分がこの決断をするなんて、客観的に見ても変だなと思います」と首をかしげる。

 加藤が最初に『筑波大学』という名前を意識したのは、グランパスのU-15に所属していた中学校3年生のころ。史上初のJ2降格を味わったトップチームの監督に就任し、1年でJ1復帰を成し遂げた指揮官・風間八宏が、かつて同大学を率いていたことを知ると、急速に興味が湧いていく。

 「両親から『大学に進学してほしい』とはずっと言われていたので、『大学に行くなら筑波に行きたい』と思って、サッカー推薦で筑波に行けなかったとしても、一般で進学できるように3年間準備しようと考えて、高校を選びました」

 一般受験で合格して門を叩いたのは、愛知県内でも進学校として知られる公立の刈谷北高校。昇格を果たしたU-18での活動と並行して、国立大学受験に必要な学業にも全力で取り組んでいく。

 そんな経緯もあって、同期から豊田晃大(エリース豊島FC)、吉田温紀(愛媛FC)、甲田英將(愛媛FC)の3人がトップ昇格を勝ち獲った一方で、自身の昇格は見送られたことに対しても、加藤は「そのメンバーに負けたことに対する後悔は正直なかったですし、自分が行きたいと思っていた筑波大に進学が決まったので、メチャメチャ悔しいという想いもなかったです」と当時を振り返っている。

名古屋U-18時代の加藤(Photo: Masashi Tsuchiya)

芽生えた新たな感情。プロに進んだ同期へ感じた悔しさ

 だが、筑波大に入学すると、1年時から公式戦の出場機会を得るなど、上々のルーキーイヤーを送りながらも、少しずつ新しい感情が芽生えてくる。……

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Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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