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サッカーファンの応援空間を脅かす「なりすまし」。悪質行為に抗う「サッカー的連帯」の必要性を考える

2021.07.31

Jリーグのクラブや選手のSNS投稿に対する誹謗中傷や差別的表現が今、社会問題となりつつある。その発信者は一見すると本物のアカウントだが、実在するサポーターのユーザーネームやプロフィール写真で偽装した「なりすまし」で、サッカーファンまでもが被害者として巻き込まれる事態が多発している。巧妙な手口にJクラブはガイドラインや声明、サポーターは情報共有を通じて注意を呼びかけているが、被害は止む気配がない。それでもなぜ、私たちは力を合わせて立ち向かわなくてはならないのか。文化的視点からサッカーを追いかける邨田直人氏に綴ってもらった。

サッカーファンが「なりすまし」の標的に

 TwitterやYouTubeなどのSNSを中心に、ある人が別の人を詐称してシステムを利用したり、第三者とコミュニケーションしたりする「なりすまし」行為が、いわゆる「サッカーファン」のアカウントを中心に発生している。選手やクラブ、実名アカウントではなく、主に匿名のハンドルネームを使用している「ファン」を狙いうちにして、なりすましが行われているのが現状だ。

 そこには何重にも悪質な行為の実態がある。フェイクアカウントは主にクラブの公式アカウントなどにリプライを飛ばし、チームを中傷する。あるいは、そこに所属する選手に人種差別的な言動や画像をぶつけ、敵意をむき出しにした投稿を残す。なりすまされた本人は、言われのない名誉毀損の罪を疑われ、その誤解を解いて信頼を回復することに労力を割かなければいけなくなる。

 攻撃的な投稿をぶつけられたクラブや選手は、それがなりすましアカウントの仕業であるかどうかにかかわらず心を痛め、被害の詳細を確認せざるを得ない。事態を知らない第三者のファンは、投稿を通して不必要なクラブ間の対立を感じたり、それがさらなる誹謗中傷的な反応を生んでしまったりしている。より不快な言動を突きつけてやろうとする明確な悪意によって、これらの被害が意図的に引き起こされている。

Jリーグが制作したSNS誹謗中傷防止啓発映像。試合会場でも放映され、注意喚起を続けている

 特になりすまされた当事者は、尊厳を取り戻すためにその事実を周知しなければならない。さらに通報などの手続きを取ると同時にそれを周囲に呼びかけ、より実行的な方法として警察などに報告、捜査の協力などをしたりしなければならなくなる。脅威を与える側は自在に、まるでワンクリックでアカウントを削除するかのようにその行為をなかったことにできる。しかし、被害者はその克服に時間を費やさなければならず、実際の生活が脅かされてしまう。その大きな非対称性は、まさに以前指摘した人種差別被害のような社会問題が問題である所以と類似の深刻な特徴を抱えている。

スタジアムでもSNSでも変わらない応援の実践

 こうした現状を前に、被害を受けてしまった人と同じ、広い意味での「サッカーファン」として、人はどのように手を取り合うことができるだろうか。他の大部分で価値観が違っても、この問題では協力することや、それを可能にする言葉遣いを見つけることはできないだろうか。問題を周知し、通報に協力し、被害者の不安や恐怖を少しでも和らげるような輪を、少しでも大きくするための「サッカー的連帯」の糸口はどこにあるだろうか。

 サッカーの応援空間に、ある時から一つの不思議さを感じていた。

 どうして隣にいる人のことを何も知らないのに、同じタイミングで同じ応援をしているんだろう。息を合わせるように拍手し、ブーイングしているのだろう。知っているのは選手と監督とクラブ。そして、そこになんとなくある応援の作法だけ。ピッチで選手たちが躍動する90分間、スタジアムは、あるいはSNSのタイムラインは同じひとつの生き物のように躍動する。

 知らない人同士がスタジアムに集まり90分だけ同じ行為をして、離れていく。試合の時間だけSNSで同じ感情を共有して、それ以外の時間ではまた、思い思いの発信に戻っていく。「サッカーファン」と呼ばれるものの集積を紐解けば、その瞬間的なエネルギーの大きさが意外に思えるほど、何もかも違う人たちによって構成されていることは感覚的にであっても理解できるだろう。特定のクラブやサッカーシーンそのものをサポートする行為は、その後何かの共通点を持ったコミュニティを形成するきっかけになっていたりもする。そうやって90分以外の生活でも、同じ楽しみを見出していくことがあるかもしれない。そんな経験がある人も多いだろう。応援という実践の核は、この「離れている手を、この時だけ繋ぐ」ような振る舞いにあるようだ。

「なりすまし」から声援を守るために今、できること

 ここで筆者から提案がある。

 「なりすまし」を告発する投稿を見かけたら、あるいは妙に疑わしい、攻撃的な投稿をクラブ公式アカウントのリプライ欄などに見かけたら、それを拡散し、通報し、できれば被害を受けた方を励ますような振る舞いによって、「この時だけ手を繋いで」ほしい。「サッカーファン」が被害に対しその都度声を上げ続けることが、サッカー的連帯の一歩目になるからだ。

 この行為はサッカーを応援することに似ている。スタジアムでの応援は少し考えてみると、それはそのまま、「なりすまし」被害に抗うために必要な「他の大部分で価値観が違ってもこの問題では協力する」実践に他ならないように思える。確かに応援の協力関係が成り立つのは、サッカーの試合という一大スペクタクルがあり、ピッチ上でしのぎを削る選手たちがいるからに他ならない。ただその営みを通じて何かのコミュニティや帰属意識を獲得した「サッカーファン」として、応援行為に少しだけ自覚的になることによって、その力の大きさを想像できないだろうか。

 知らない人同士ではあっても、チャントは高らかに響き、拍手はスタジアムを包んだ。知らない人同士ではあっても、その時はまるで知り合いだったかのように感じられた。その想像力を持って「サッカーファン」の中で起きている解決の難しい出来事を知り、まるで試合中のように協力的な態度をとることはできないだろうか。90分の外ではあるけれど、「離れている手を、この時だけ繋ぐ」ような行動が取れないだろうか。

 何も知らない観客同士、フォロワー同士ではあるけれど、そこにいるのは確実に「人」だった。人がそこにいなければ、応援も、うねりも起こらなかった。それは試合の75分に発表される、「観客:○人」という数の話ではない。Twitterに表示される、「○件のツイート」「トレンド○位」という話でもない。後で客観的に見ればその数字しか残らないとしても、数字には力の大きさに近い意味が含まれているとしても、その瞬間には確かに客席の上下左右に、もしくはタイムラインの前後に人がいた。そして、このなりすまし行為を介して傷つけられているのも、何か匿名の1アカウントではなく、同様に人であるということだ。

 人が攻撃され、尊厳を踏みにじられ、結果としてその声が失われたり閉じたりしてしまう。それはそのまま、サッカーの周りにあったかもしれない可能性が、文化としての深さが、かけがえのない声援が失われることに直結する。声のないスタジアムのつらさを、コロナ禍という違う形ではあるが、もう嫌というほど痛感させられているはずだ。なりすまし行為も、フェイクアカウントを介した誹謗中傷や差別表現も、そんな声のなくなった応援空間を人の悪意によって引き起こしてしまうような行為であり、そこにも抗うには十分な理由があるのではないか。

 なりすまし被害に抗うサッカー的連帯は、「離れている手を、この時だけ繋ぐ」ような実践の中にある。まるで試合を見て応援するかのような連係をすることが、何かを変えるきっかけになる。その声援が大きくなればなるほど、被害を受けた人にとっての励ましになるかもしれない。リーグやSNSを動かすきっかけになるかもしれない。何か被害を容認してしまうような歪んだ構造が変わる布石になるかもしれない。

 サッカーを通して獲得された集団が、何か別の可能性へと踏み出す道を開く瞬間こそ、サッカーの社会性が発揮される場面だ。危機の場面だからこそ、周りにいる「サッカーファン」がその可能性を自覚し、数少ない希望の道を現実のものにするために連帯への道を繋ぎたい。


Photos: Getty Images

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なりすまし文化

Profile

邨田 直人

1994年生まれ。サンケイスポーツで2019年よりサッカー担当。取材領域は主にJリーグ(関西中心)、日本代表。人や組織がサッカーに求める「何か」について考えるため、移動、儀礼、記憶や人種的思考について学習・発信しています。ジャック・ウィルシャーはアイドル。好きなクラブチームはアーセナル、好きな選手はジャック・ウィルシャー。Twitter: @sanspo_wsftbl