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その存在は、戦争さえも中断させた――ペレという名の伝説

2022.04.14

この記事は『プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド』の提供でお届けします。

「サッカーの王様」。こう聞いたサッカーファンの脳裏には、この男の名前が浮かぶことだろう――ペレ。現役を退いてからすでに45年の時が経った今なお、彼がピッチ上で刻んだ鮮烈な記録と記憶が色褪せることはない。20世紀の偉大なサッカー選手第1位に輝いた男は、母国であるサッカー王国ブラジルではどのような存在として人々の中に生き続けているのか。ベテランのスポーツジャーナリスト、ホージェル・ガルシア氏に綴ってもらった。

 ブラジルにおいて「ペレ」とは、人々の意識の中に無条件に息づく、歴史上の人物の一人である。誰にとっても、彼の名前やそのプレーを思い出さない日は少ないだろう。なにしろ、様々なメディアを通してそれを目にしない日の方が少ないのだから。

 今年11月21日に開幕するワールドカップイヤーともなると、このサッカーの王様に関する言及が飛躍的に増える。サッカーの記憶をたどるたびに、彼が崇拝されるのだ。彼がピッチの上で成したことすべてによって。彼はW杯で3度の優勝を達成した、地球上で唯一の選手でもある。

 ブラジル人にとって、彼は一つの伝説となった。世界においても最も有名な人物の一人だろう。

不変のスポーツ遺産

 1980年、彼はフランスの『レキップ』紙により「20世紀のアスリート」に選出された。この投票で2位に入ったのは、アメリカの陸上競技選手だったジェシー・オーウェンス。100m走、200m走と走り幅跳びのスペシャリストだった。

 1999年には、IOC(国際オリンピック委員会)から同様の栄誉が授与されている。サッカー選手としてだけではなく、史上最高のアスリートとして称えられたのだ。一人の人間でありながら、不変のスポーツ遺産として定義づけられた瞬間だった。

1999年、「WORLD SPORTS AWARD OF THE CENTURY」授与式でのモハメド・アリとペレ

 その名声は国境を越え、海を越え、彼は各国の大統領や国王、女王、芸術家に会い、世界中で称号や勲章を授与されている。その最も注目すべきものの一つは、エリザベス2世女王の手から受け取った大英帝国勲章の名誉騎士団司令官だ。また、ブラジルでは1970年、北東部アラゴアス州マセイオー市に「キング・ペレ・スタジアム」が落成した。

 ペレの存在は戦争を止めることさえ可能にした。1969年、ペレの所属するサントスが、ナイジェリアでの親善試合の招待を受け入れた時のことだ。ペレとチームがベニンシティ・スタジアムへと安全に到着できるよう、地方政府はいわゆるビアフラ戦争の一時停戦を決定したのだ。サントスは2-1で勝利、ナイジェリアの人々はペレのプレーを見た後に、戦争を再開したのだった。

 1969年には、国際的な反響を呼ぶもう1つの偉業も記録された。そのキャリアにおける1000ゴール目を決めたのだ。マラカナンでのサントス対バスコ・ダ・ガマ戦、アルゼンチン人GKアンドラーダを前に、ゴール左隅に蹴り込んだPKだった。それから彼は、大勢のリポーター、フォトグラファー、テレビカメラマンたちに囲まれながら、ピッチでウイニングランをし、観衆から喝采を受けた。その直後のインタビューで、ペレは「神よ、お願いだから、この国の貧しい子供たちをお助けください」と、願いを込めて祈りを捧げた。

1000ゴールを達成し歓声に応えるペレ

“ゴウ・ジ・プラッカ”

 私は光栄なことに、ジャーナリストのホベルト・アサッフィと共同で「Grandes Jogos do Maracanã」(マラカナンの偉大な試合の数々)という本を執筆する機会があったのだが、“世界最大”として知られるこのスタジアムは、キング・ペレのお気に入りの舞台の一つだった。

 彼は1957年に初めて、ブラジル代表としてマラカナンのピッチを踏んだ。試合こそ1-2でアルゼンチンに敗れたものの、16歳の彼は1ゴールを決めている。

 1961年には、居並ぶフルミネンセ守備陣を前に、後に“ゴウ・ジ・プラッカ”と呼ばれるゴールを決めた(訳註:“ゴウ・ジ・プラッカ”とは、このペレのゴールのあまりの美しさを表現するために生まれた言葉。転じて、歴史に残るような最高級のビューティフルゴールをこう呼ぶようになった)。

 翌年には、インターコンチネンタルカップでのベンフィカ(ポルトガル)との第1レグで才能を発揮しサントスの優勝に貢献した。

 ブラジル代表引退の舞台もマラカナンだった。1971年、ユーゴスラビアとの親善試合のこと。サポーターはスタンドで「辞めないで、ペレ!」と叫んだものだった。

 個人的には、ペレが唯一フラメンゴの背番号10のユニフォームを着た時のことが、記憶に深く刻まれている。マラカナンで開催された、アトレチコ・ミネイロとのチャリティーマッチでのことだ。その収益は、1979年に起こったミナスジェライス州の集中豪雨の被災者に寄付された。ペレは前半だけだったが、ジーコと一緒にプレー。その際、PKを蹴ろうとせず、クラブの英雄であるジーコにキッカーを譲ったのが印象的だった。フラメンゴは5-1で大勝し、ブラジル最大のサポーター数を誇るフラメンギスタは名誉に思ったものだ。

作品としてのペレ

 ペレを描く様々な映画作品が制作されている。1974年『Isto é Pelé』(これがペレだ)、2004年『Pelé Eterno』(永遠のペレ)といったドキュメンタリー作品を見れば、彼の試合を知らない人もそのゴールやプレーに感嘆するしかない。サポーターでさえ、唖然としてしまうだろう。

 ヘディングでのゴール、左足での、そして右足でのゴール、相手GKを欺くためにフェイントを入れて蹴るFKやPK。相手DFを次々にかわしてのゴール。サントスのコウチーニョとのワンツーから生まれたゴール――これらのプレーの数々は、ペレの並外れたスキルや安定性、思考の素早さ、類を見ない天才ぶりを見せつけるものだ。

 映像の世界はまた、俳優としてのペレをも記録した。1981年に人気を博した映画は、ジョン・ヒューストン監督による『勝利への脱出』。第二次世界大戦下を舞台に、サッカーでドイツ代表を破った連合軍捕虜チームの中で、GK役のシルベスター・スタローンと共演している。

 ブラジル国産映画においては、数々の作品の中でも、主演した1985年のドラマ『Pedro Mico』(ペドロ・ミコ)、1986年のコメディー『Os Trapalhões e o Rei do Futebol』(トラッパリョエンスとサッカーの王様)が有名だ。

「ペレ」誕生秘話

 ペレは1940年10月23日、ミナスジェライス州トレス・コラソエンス市で父ドンジーニョと母セレステの息子として生まれ、エジソン・アランテス・ド・ナシメントと名付けられた。その名前は、電球を発明したトーマス・エジソンにちなんだものだ。

 少年時代、一家はサンパウロ州内陸のバウル市に引っ越した。その当時、彼の父がプレーした街のサッカーチームでGKビレーと出会ったのだが、エジソンは「ビレー」という名前を正しく発音できず「ピレー」と呼んでいた。それを面白がった友達により、エジソンにはあっという間に「ペレ」というニックネームがついた。

 11歳の時、元選手のバウデマール・ブリットに見出され、バウル・アトレチコクラブでプレーするようになる。そして1956年、バウデマールはわずか15歳の彼をサントスに連れて行ったのだ。

 それからのペレの軌跡は流星のごとくだ。1958年W杯スウェーデン大会に17歳で出場し頭角を現す。決勝ではブラジルが開催国を5-2で下し、彼は世界タイトルを獲得した最年少の選手となった。

1958年W杯決勝で、驚異的な跳躍力を見せるペレ(右)

 対照的に4年後、ブラジルが2度目のタイトルを獲得したW杯チリ大会では、ペレは2試合目のチェコスロバキア戦でそけい部を負傷して退場。その後、大会中に復帰することはできなかった。ここではマネー・ガヒンシャと、ペレに代わって出場したアマリウドがタイトルの主役となった。

 1966年W杯イングランド大会でのブラジルは、ペレが相手のラフプレーまがいの守備に苦しんだポルトガル戦で敗れ、大会を去ることになった。

1966年W杯ポルトガル戦で負傷しピッチを後にするペレ

ゴール以外にも残る鮮烈なシーンの数々

 ペレにとって4度目の、そして最後のW杯となった1970年メキシコ大会は、彼の全盛期のすべてが捧げられることとなった。そのゴール、アシスト、完璧なプレーの数々によって。

1970年W杯時のブラジル代表の主要メンバー。前列中央がペレ

 そのうちの一つは、チェコスロバキア戦でのこと。ピッチの中央、センターライン付近から放たれた超ロングシュートが、もう少しで決まるところだった。ただし、ボールはポストをかすめてしまった。

 ウルグアイ戦では、相手GKマズルケビッチに“ボディフェント”を仕掛けた(訳註:ボールに触らずに、体の動きだけで相手を欺くもの。ペレはこの試合で、トスタンからのパスに反応してゴール前に走り込んだものの、飛び出してきたGKを見てあえてボールに触らずスルー。意表を突かれたGKの左側をそのまま走り抜けると、GKの右側へ転がったボールをダイレクトで蹴り込んだ)。ただ、このフィニッシュは枠を数cm外れ、またしても幻のゴールとなってしまったのだが。

 さらに、イングランド戦でのヘディングもある。ピッチに叩きつけた素晴らしいシュートだったが、相手GKのゴードン・バンクスの信じられないセーブによって弾き出されてしまった。

 タイトルは、キング・ペレのさらなる好プレーの祭典とともに、決勝イタリア戦を制して導き出された。ブラジルはペレのゴールを皮切りに、ジェルソン、ジャイルジーニョ、カルロス・アウベルト・トーレスが決め4-1と大勝したのだ。

「その威厳が失われることはない」

 1974年にサントスで現役生活を終えたものの、ペレはピッチに復帰した。アメリカのサッカーを発展させるという新たな挑戦を引き受け、1975年から1977年の間ニューヨーク・コスモスでプレーしたのだ。

 生涯通算ゴール数は1284。これは比類なき記録である。

 その後、フェルナンド・エンヒケ・カルドーソ元大統領政権時代である1995年から1998年にかけて、このクラッキはスポーツ省大臣を引き受け、サッカーの近代化とプロスポーツ選手の労働者としての権利の保証を目的としたペレ法を制定した。

 現在81歳のペレは、腸から始まったがんと闘っている。その健康上の問題にもかかわらず、SNS上での活動は続け、時にはクリスティアーノ・ロナウド、メッシ、ムバッペといったサッカーのスターたちを称賛し、時には彼の治療に関する情報を公表するという状況だ。

2019年、イベントに出席しムバッペとガッチリ握手を交わすペレ

 その間、彼を“王様”と崇める我われは、彼がこの闘いに勝利し、完全に回復することを応援し祈るばかりだ。

 有名な言葉をここに記そう。古いことわざだが、今も、そしてこれからも永遠に彼にふさわしいものだ。

 「王たるもの、決してその尊厳を失うことはない」

2020年、ペレの生誕80年を記念して描かれた壁画。サンパウロ市内のあちこちにこうした壁画が描かれるとともに、記念展示も行われた

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ボールを持てば他を寄せつけないドリブル突破でゴールへの道筋を切り拓き、ゴール前に入れば圧巻の跳躍力で空中戦を制しネットを揺らす。一騎当千の活躍で1000を超えるゴールを生み出した王様ペレが、大人気スポーツ育成シミュレーションゲーム「プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド」(サカつくRTW)に登場!

  4周年記念となる今回は、登場する顔ぶれも豪華絢爛。やはりブラジルを代表するレジェンドであるロナウジーニョに加え、ネイマール、ルーカス・パケタ、アレックス・サンドロ、ダニエウ・アウべス、マルキーニョス、チアゴ・シウバ、アリソン・ベッカーら現役のスーパースターたちが得意戦術「ポゼッション」の新★5選手として“4th Anniversary LEGEND SCOUT”に見参! さらに、 合計3,000GB(無償)などが獲得できる“サカつく4周年記念ログインボーナス”をはじめ大盤振る舞いの“サカつく4周年記念キャンペーン”も開催中だ。

 しかも、ペレとロナウジーニョなど “4th Anniversary LEGEND SCOUT”にラインナップされた選手の★4バージョンが期間中1日ログインするごとに1名ずつ、合計7名獲得できる4th Anniversaryスペシャルログインボーナスも行われている。すでにゲームをプレイ中の方はもちろん、「サカつく」未経験の方もこの機会にぜひゲームにトライしてみよう!

<商品情報>

商品名 :プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド
ジャンル:スポーツ育成シミュレーションゲーム
配信機種:iOS / Android
価 格 :基本無料(一部アイテム課金あり)
メーカー:セガ

さらに詳しい情報を知りたい方は公式HPへアクセス!
http://sakatsuku-rtw.sega.com/

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Translation: Kiyomi Fujiwara
Photos: Getty Images

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サカつくRTWブラジル代表ペレ

Profile

ホージェル ガルシア

通信社『スポーツプレス』、『ジョルナウ・ド・ブラジル』紙、『オ・ジーア』紙に記者として勤務した後、スポーツ紙『ジアーリオ・ランスィ』副編集長、サイト『ガウボン・ブエノ』編集長を務める。12年間の『SporTV』プロデューサー時代にはアトランタとリオでの五輪、南アフリカとブラジルでのW杯で取材体制の陣頭指揮を執った。ジャーナリストのホベルト・アサッフィとの共著に『Zico, 50 Anos de Futebol』(ジーコ、サッカーでの50年)、『Grandes Jogos do Maracanã』(マラカナンの偉大な試合の数々)『Grandes Jogos do Flamengo』(フラメンゴの偉大な試合の数々)。現在はフラメンゴ製作の映像作品『Lendas Rubro-Negras』(赤と黒の伝説)を手がけている。

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