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相思相愛のセビージャと祖国へ凱旋!ラキティッチに残るクロアチア代表への未練

2022.02.27

イバン・ラキティッチがクロアチアへの帰還を果たした。2020年9月に赤と白で彩られる市松模様のシャツを脱いだ“バトレニ”(クロアチア代表の愛称)の功労者は、セビージャの一員として24日のEL決勝ラウンドプレーオフ第2戦に臨み、祖国の名門ディナモ・ザグレブと敵地で激突。2戦合計3-2で突破を決める中、代表デビューを飾った思い出の場所マクシミール・スタジアムで受けた愛情と、第1戦で先制点を挙げながらも示した忠誠を、未練が残るクロアチア代表への想いとともに読み解いてみよう。

 13分、セビージャのPKキッカーとしてボールを手にしたMFイバン・ラキティッチは、ディナモ・ザグレブのGKドミニク・リバコビッチと対面した途端に奇妙な思いに駆られ、つい笑みがこぼれてしまった。両者はロシアW杯のクロアチア代表でもチームメイトの間柄。決勝トーナメントでデンマークとロシアを制したPKではゴール左下隅を狙ったが、今回はゴール右下隅へ容赦なく蹴り込んだ。

 「リバコビッチは僕の蹴り方をよく知っているけど、ゴールを決めることに疑いは持ってなかった。僕は自信に満ちあふれていたんだ」

 3-1でセビージャの勝利に終わったEL決勝トーナメントのプレーオフ第1戦を終え、スペインメディアには事実をシンプルに明かしたラキティッチだが、PKを決めた直後の振る舞いは複雑そのものだった。サンチェス・ピスフアンに集まったディナモのサポーター「バッド・ブルー・ボーイズ」に向かって両手を前方へと差し出し、掌を合わせながら許しを請うジェスチャーを見せたのだ。

 古巣相手にゴールを決めた場合に祝わないことはサッカー界で慣習化しているが、ディナモはラキティッチの古巣ではない。スイス生まれのクロアチア移民2世である彼は、そもそもクロアチアリーグでプレーした経験がない。数日が経過してから、クロアチアメディア『net.hr』の独占インタビューにおいてジェスチャーの理由をこう説明した。

 「敬意を払うという意味合いをはっきりさせたかったんだ。同胞に対して、そしてクロアチア全土に対して愛情を感じているだけにね。スタンドにこれほどのディナモサポーターを目にするのは嬉しかったし、“僕の街“セビージャに来てくれたすべての人に感謝をしたかった。国家としてのクロアチア、そしてクロアチア代表が僕や家族のために施してくれたすべてに感謝している。今夜は僕にとって美しすぎるほどの夜だった」

 試合後にリバコビッチとユニフォーム交換すると、ディナモの選手たちと同じく約1700人のバッド・ブルー・ボーイズのもとへ挨拶に訪れ、大きな拍手を浴びたラキティッチ。実はディナモが少年時代の彼に「クロアチア人」のアイデンティティを深めさせたクラブだったことは、あまり知られていないエピソードだ。

ゴールの喜びを露にしなかったラキティッチ。PKを決めた後にはディナモサポーターに向かって謝罪していた

 クロアチアがユーゴスラビア連邦を構成する一共和国だった時代、ルカ・ラキティッチはクロアチア東部のシキレブチ村で生まれ育った。守備的MFとしてボスニアの中堅クラブ「ツェリク・ゼニツァ」でプレー経験もあったが、ボスニア生まれのクロアチア人の妻カタと3歳の長男デヤンを養っていくため、1986年にはスイスのバーゼル近郊の町、メーリンへと移住。建設業に携わりながら生活の基盤を固め、3年後には同郷の友人たちとサッカークラブ「NKパイデ・メーリン」を創設した。その間の1988年に生まれた次男がイバンだ。

 父親の指導の下、4歳からサッカーを始めたイバンはすぐに頭角を現した。その頃のクロアチアは1991年の独立宣言に続く「祖国戦争」の真っ最中だったが、遠い国の戦況はよく理解できずにいた。そんなイバン少年が小包で送られてきたクロアチアのユニフォームを目にした瞬間、祖国愛に目覚めたというエピソードは、拙稿「『新たなラキティッチ』を探して――クロアチア代表に再び『ディアスポラ=移民』の波」でも詳しく触れている。

父親が創設したNKパイデ・メーリンでプレーしていた頃のラキティッチ。当時のエンブレムにはディナモのものと極めて似通っている

「クロアチアのためにプレーする」決意を生んだ父親の祖国愛

 学校では「スイス人」として育てられ、8歳で名門バーゼルのユースに引き抜かれたイバンが、初めてクロアチアサッカーと生身で接触したのが1997年9月30日、UEFAカップ1回戦の「グラスホッパー対ディナモ・ザグレブ」。その夏にMFロベルト・プロシネチュキがセビージャからディナモに電撃復帰し、魔術的なボールテクニックで祖国のファンを唸らせていた頃だ。かねてからディナモの大ファンだった父親ルカは、息子2人をチューリヒのスタジアムに引き連れ、両肩に抱えながら現地観戦をした。ディナモはFWイゴール・ツビタノビッチ(のちに清水エスパルスに在籍)の3得点とプロシネチュキの2得点でグラスホッパーを5-0で粉砕。イバンが今でもアイドルとして「プロシネチュキ」の名前を挙げるのは、9歳の時に観た鮮烈な試合がきっかけだ。

 当時のディナモは初代大統領フラニョ・トゥジマンによって「クロアチア・ザグレブ」と改名されていたように、ユーゴ時代からクロアチア民族を代表するクラブとして崇められていた。のちにNKパイデ・メーリンを「ディナモ」と改名したほど祖国愛とクラブ愛に満ちた父親ルカは、あの試合をこのように回想する。

 「クロアチアの代表戦が行われる日は、我が家の前にクロアチア国旗とディナモの旗を吊り下げていたものさ。グラスホッパーと戦うディナモを観ながら、イバンはクロアチアの民族性を感じていたんだ」

セビージャのユニフォームを手土産に、ディナモの陣中見舞いに訪れた父親のルカ・ラキティッチ(左)。息子からは「どんな結果になっても父親が勝者だ」と試合前に言われていた

 ラキティッチは16歳でバーゼルのトップチームでデビューを果たすと、バルセロナやミランに加えてディナモからオファーが届いたものの、いずれも拒否してスイスに留まった。バーゼルや飛び級のスイスU-21代表で目覚ましい活躍を見せ、オットマー・ヒッツフェルト監督はA代表抜擢を検討したほど。しかしながら、シャルケへと移籍した2007年、クロアチア代表監督のスラベン・ビリッチから熱烈なラブコールを受けたことで代表変更を決意。「僕はクロアチアのためにプレーする」と息子から聞かされた父親は感涙したという。

 ところが、しばらくはスイスの実家に袋いっぱいの脅迫状が届き、「ユーゴスラビアに帰れ!」なんて嫌がらせ電話に家族は苦しめられてしまう。さらに右翼政党からの圧力で父親の市民権申請が却下されたことで、建設会社が税制面で優遇を受けられなかった。ラキティッチはクロアチア代表のユニフォームを着てピッチに入るたび、父親に代表変更を告げた際のやり取りを思い出しては、祖国の代表として戦う喜びを父親に代わって噛みしめた。

 それから13年間、ラキティッチはクロアチア代表の中核メンバーとして106試合に出場。浮き沈みはあったとはいえ、2018年にはロシアW杯準優勝にも大きく貢献した。ところが、その後の彼を悩ませたのは、クロアチア代表にどうやって別れを告げるかだった。代表転向に2カ月間は熟慮したと伝えられる一方、代表引退の噂が最初に報じられてから実際に発表するまで実に2年間を要している。その背景に何があったのか、時系列に読み解いてみよう。

W杯決勝を戦い終えたラキティッチは、ゴールデンボール(大会最優秀選手)を授賞したモドリッチに賛辞を贈り、「クロアチア人であること以上に美しいことはない」とInstagramに書き記した

バルセロナでの酷使と冷遇、クロアチアでの論争と同情

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Profile

長束 恭行

1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。