安定を辞して飛び込んだプロの世界、バルセロナ留学で感じたサッカーの本質、アルビレックスとの幸せな5年間。清水エスパルス・反町康治GMインタビュー中編

日本サッカー界の中でも、ここまで稀有なキャリアを歩んだ人もそうはいまい。サッカーの街・清水で育ち、サラリーマンJリーガーとしても名を馳せ、指導者に転身後は五輪代表監督や各Jクラブの監督を歴任。現在は清水エスパルスのGMとして辣腕を振るう反町康治は、数奇な出会いに導かれながら、今もサッカーと生きる日々を過ごしている。インタビュー中編は全日空から横浜フリューゲルス、ベルマーレ平塚と変遷したプロキャリア、指導者を志して敢行したバルセロナ留学、5年間にわたって指揮を執ったアルビレックス新潟での監督時代について伺っている。
『東京乗員室乗員業務部乗務管理課』で任されたパイロットの管理業務
――全日空に入社された時の“名刺の肩書き”はどういうものだったんですか?
「東京乗員室乗員業務部乗務管理課です。パイロットの管理業務ですね。管理にも2つあって、1つはスケジューラーといって1か月のスケジュールを作る人です。当時の自分がやっていたのは、『ワイエスのコーパイ』と『エルテンのコーパイ』……。わからないか(笑)」
――全然わかりません(笑)。
「『ワイエス』は『YS-11』という日本のプロペラ機で、『コーパイ』は『Co-Pilot』=副操縦士です。だから、YS-11に乗る副操縦士の1か月のスケジュールを作るということですね。それがある程度できたら、次は『エルテン』のスケジューラーをやりました。エルテンとはロッキード社の『L-1011トライスター』という飛行機の総称で、その『Co-Pilot』=副操縦士のスケジュールを作っていました。そのスケジュールを専用のパソコンに入力して、出力したものを配るという仕事でしたね。
それともう1つは当日の運用です。たとえば天候が悪くてフライトが変更したりとか、機種が変わったりとか、あとはパイロットが欠勤した時にスタンバイしているパイロットを割り振るとか、そういうこともやっていました」
――それはかなり大変な仕事じゃないですか?
「大変ですよ。朝番の日は4時に起きてやりましたし、当時はパイロットが違う組合なので、ストライキも何回かありましたからね。だから、午前中に仕事をして、午後のサッカークラブの練習を終えて、汗をかいてビチョビチョの練習着をバッグの中に持っているのに、また会社に戻らないといけないこともよくあったんです。それで団体交渉に関わっていると夜中までかかるので、羽田空港近くのホテルでそのまま寝るんですよ。そうすると家に帰れないから、次の日もビニール袋の中に入れていたビチョビチョの練習着を着て練習するしかないんです。そんなことをやっていました」
――ああ、羽田空港が職場だったんですね。
「そうです。サッカーも真剣にやっていましたけど、入社1年目はまだチームが日本リーグの2部だったんです。あくまでも全日空に入社したからサッカークラブに入ったわけであって、丸紅に入っていたらサッカーはやっていないので、そうなっていたら今みたいにサッカーの仕事はしていないですよね」
――入った会社にたまたまサッカークラブがあって、そのサッカークラブがたまたまJSLの2部にいたということですね。
「そうですね。石末(龍治)と堀(直人)が全日空の同期なんですけど、その2人はサッカー枠で入社したので、社業は“0.5稼働”という扱いなんです。でも、オレは普通に入社しているので、社業は“1稼働”なんですよ。だから、そこには意地があって、練習が終わってからも会社の仕事をやっていたわけです」
――周りからはどうしても「サッカーをやっているから、仕事は手を抜いているんだろ」と思われる可能性もありますからね。
「そうそう。自分から『仕事をやらせてくれ』と言って、スケジューラーも自分からやっていましたよ。仕事は楽しかったです。仲の良かったパイロットがフロンターレファンなんですけど、昨日も連絡が来ましたよ。『次はいつ等々力に来るんだ?ちゃんと挨拶に来いよ』って。そのパイロットはオレがJFAにいた時に高井(幸大)を代表に呼んだら、『おい!高井を持っていくなよ』と連絡してきましたから(笑)」
加茂周とベルデニック。全日空サッカークラブに訪れた変化
――全日空サッカークラブとしては、反町さんの加入1年目で2部優勝して、2年目から1部ですよね。そのことでサッカークラブを取り巻く環境も変わりました?
「いや、あまり変わらなかったですよ。自分は会社員という立場なので。でも、会社としても『もう社員選手は獲らない』という方向だったので、岩井(厚裕)や田口、上野(展裕)は社員で入ってきましたけど、山口素弘とか大嶽直人とかプロとして入ってくる選手は増えていきましたね。モト(山口素弘)は社員で入りたかったんですよ。ただ、もうそういう入社の仕方がなかったから、しょうがなくプロで入ったんです。そういう時代です」
――そういうプロ選手たちが入ってきて、戦うカテゴリーも上がった中でも、反町さんの社業とサッカーに掛ける比率は変わらなかったんですか?
「全然変わらなかったです。会社の先輩には凄く良くしてもらいました。社風が良かったですね。だから、Jリーグができた時に『何でプロにならないの?』とよく聞かれた時には、『全日空の社風がいいから』と答えていました。『これだけ良くしてもらっているのに、裏切るわけにはいかないな』という気持ちもありましたよ。あとは年齢もありましたね。Jリーグができた時には、もう29歳でしたから」
――1991年に全日空は加茂(周)さんが監督になって、ベルデニックがコーチになるじゃないですか。ここからのチームは大きく変わりましたか?
「変わりましたね。オレはその前の塩澤(敏彦)監督の自由を尊重するやり方も嫌いじゃなかったですけど、やっぱり少し『クラブチームとしてはどうなんだ?』と思っていた時に、加茂さんが来たことは大きかったです。ちょうどWOWOWでイタリアのセリエAが放送されて、みんな八塚(浩)さんの実況を聞いていたころですよ」
――ACミラン、アリーゴ・サッキ、ゾーンプレスの時代ですね。
「その時のインパクトが凄くあるので、『ミランはこうやっているんだ』と言われたら、みんな食い付きましたよね。ベルデニックとは当時いろいろと話をしてもらって、とても勉強になりました。ちなみに2008年のオリンピックが終わった後に『TSG(テー・エス・ゲー)』を見に行ったんですけど……ああ、オレはカッコつけてホッフェンハイムのことを『TSG』と呼んでるんだけど(笑)、そこで偶然ベルデニックと再会しているんですよ」
――TSG?それはだいぶカッコつけてますね(笑)。
「地元の人はみんなTSGと呼んでいましたね。当時はイバセビッチやデンバ・バがいて……」
――ウェリントンもいましたね。
「いました。それで気に入って、その繋がりでウェリントンは湘南に来ましたから。彼が来た時にオレはいなかったですけど、その後に何度も対戦しているので、挨拶しに来てくれますよ。当時はまだラングニック監督が若くて、バイエルンと優勝争いをしている時に1か月ぐらい現地にいたんですけど、そこに不意にベルデニックが練習を見に来ていたんです。『オイ!ソリ!』と。『どうしたの?』と聞いたら、『勉強しに来ているんだよ』と。スロベニアから車で来ていましたね。そこで2、3日一緒に練習を見ましたよ。
そもそも何でオレがホッフェンハイムに行ったかと言うと、浦和レッズにいたマリッチがコーチでいたからです。それこそモラス(雅輝)とマリッチが仲良かったので、モラスに聞いてもらって、マリッチの携帯番号だけを頼りに現地に行って、お願いしてラングニックにOKしてもらったんです。それで1か月間向こうにいる時に、大倉(智)からホテルへFAXが届いたんです。そこに湘南の監督の条件が書いてあったんですよ」
弘兼憲史から“サラリーマンJリーガー”へ届いた手紙
――その話はもう少し後にとっておきましょう(笑)。加茂さんやベルデニックが全日空に来たころは、まさに日本サッカー界が大きく変わろうとしていた時期ですよね。その中で反町康治というサッカー選手としては、どういう立ち位置を取ろうと思っていたんですか?……



Profile
土屋 雅史
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!