「ゲームモデル」は対応力の敵なのか(後編):中間レイヤーがない組織構造が「対応力=レジリエンス」を生む

「対応力」とは何か#5
サッカー戦術の高度化に伴い、攻守の可変システム、ビルドアップvsハイプレスの攻防など駆け引きの複雑性が増しており、ピッチ上の選手の「対応力」がより問われる状況になってきている。そもそも「対応力」とは何なのか? ピッチ上でチームの意思を統一するには何が必要なのか? そして「対応力」のある選手を育てるにはどうすれば良いのか? 様々な角度から考えてみたい。
第4&5回は、「自分たちが実際に行うプレーの仕方を示す意思決定基準」であるゲームモデルと対応力の関係について考察してみたい。ゲームモデルをめぐる「指向性vs普遍性」論争の捉え方、中間レイヤーがない「ゲームモデル」の新たな形、カオスをコントロールするためのプレー原則の在り方など、「対応力=レジリエンス」を有する組織マネジメントについて掘り下げる。
前編では、対応力をレジリエンスとして定義づけし、ゲームモデルについても「自由度のコントロール」が今後の争点になるかもしれないというトピックを挙げてきた。少々理論的な説明が多くなったが、後編では前編で説明した要素を背景にしながら、より現場に即した具体的な試行錯誤やフットボールにおける今後の展望について考えていきたい。
「反ゲームモデル主義」に指向性は存在しないのか?
ここまで、ゲームモデルの存在を前提としてフットボールの対応力はどうあるべきかを見てきたが、他方ではゲームモデルのような明確な指向性を前提としない考え方も注目されている。エコロジカル・アプローチやファンダメンタルはこのような考え方の代表的なものと言える。
エコロジカル・アプローチは、生態学の観点から「選手⇔環境」の相互作用を起点に、選手の知覚-運動カップリングへと刺激を加えて運動学習を促進する手法だ。簡単に言えば、指導者がガミガミとコーチングしたり過度な制約を与えたりするよりも、選手の学習が促進するような“環境”を整えることで、自ずと選手が学び、上達していくことを目指すトレーニング理論になる。
また、ファンダメンタルはフットボールにおける“基本”であり、どのようなゲームモデルやスタイルにおいても必要とされるものであるという。特に育成年代において、ゲームモデルや特定のスタイルに傾倒することによって、スキルや経験に過度な偏りが生まれ、将来的な選手としての可能性が制限されるという懸念が発端となって、提唱されるようになってきた印象がある。
これらの考え方は、ゲームモデルや戦術的ピリオダイゼーション理論への過度な傾倒、すなわち“指向性”至上主義に対するアンチテーゼ的に語られ、すなわち指向性に対するフットボールにおける“普遍性”を重視するような態度と言える。実際、エコロジカル・アプローチやファンダメンタルなどを提唱する時、ゲームモデルは運動学習の幅や選手の成長の方向性を狭める過度な制約として批判的な文脈で話題に挙げられがちだ。
しかしながら、これらの考え方がピュアに“普遍性”へと向かっていく概念なのかと言われると疑問符がつく。エコロジカル・アプローチは基本的に運動学習、すなわちスキルを獲得して上手くなる方法論であり、エコロジカル・アプローチの文献でも何度もスキルが“改善”するとか、“獲得”するとか、“より良い”パフォーマンスになるとかいう表現が出てくる。しかし、何が“改善”と呼べるのか、何が“より良い”パフォーマンスになるのかは、果たして議論の余地のない普遍的なものだろうか。
与えられた守備のシチュエーションに対して、ある選手はマンツーマン的な解決策を見出し、ある選手はゾーンディフェンス的なグループでの解決策を見出したとする。それを放置していては、選手間で解決策のズレが発生する。これに対する指導者の反応を考えると、もう少し運動学習を促進させてさらなる選手間の相互作用でゾーン的な解決策に収れんするのを待ったり、あるいは指導者自身のコーチングで特定の方向性へと誘導したり、環境や制約を変更してやはり特定の方向性の解決策が見出しやすくなるようにする、といったことが考えられる。だが、これらはいずれも普遍性という文脈ではなく指向性を確実に帯びている。
ファンダメンタルについても同様で、どんなスタイルやプレー方法でも必要になるフットボールの基本となるスキルアセットを身につけるべきという主張だが、どのような技術ならスタイルや方向性を問わず必要になってくるのかという議論は、実のところ極めて非自明的だ。インサイドキックは流石に「ファンダメンタル」と呼んで良いだろうと問えば、おそらくほとんどの指導者が「YES」と言うだろうが、ではインサイドキックなしではフットボールは絶対に構築できないのか?という質問もまた、理論的ではあるが非常に難しい。そもそも「インサイドキック」の蹴り方ですら、どの蹴り方が正しいのかは様々な場所でいまだに議論されている。
このように、何が普遍的に“必要”で、“より良い”技術かを議論するのは非常に難しいし、もっと言えば筆者が考える「普遍的な技術」と、おそらく他の指導者が考える「普遍的な技術」が一致する可能性は非常に低い気がする。
わかりやすい例を挙げれば、ボールホルダーに対するサポートのポジショニングは、意見が割れやすい項目の1つだ。スペインを起点として、ヨーロッパを中心に常識となっているのは「ボールに寄るな」であり、ボールホルダーのスペースを確保することが第一とされる。一方で、日本では長らく「ボールに寄る」が正解とされてきた。これもまた1つの解釈ではあり、どちらが正しいとか、ゲームの性質上有利であるとかは少なくとも一瞬で判別できるほど自明の理とは思えない。
さらに言えば、フットボールにおいて何が正解で、何がより良いプレーなのかを明確に決めるような行為は、エコシステムにおける多様性の観点からも非常に危険だと言える。前編でも見たように、多様性がなくなったり、柔軟性がなくなったりした系はレジリエンスを失い、内圧、外圧問わず変化に対して非常に脆くなってしまう。すなわち、過度に制約を強めてしまうゲームモデル主義と、過度に一般性や普遍性に固執した反ゲームモデル主義はどちらも構造的には似たようなものであり、対応力やレジリエンスの低下を招きかねない、極端な考え方と言えるだろう。
ここまでの議論からもわかるように、どれだけ普遍的な“正解”や“一般性”を求めようとも、実際問題としてそこにはいくらかの指向性や偏りは発生してしまう。どんなに匂いを消そうとしても、その指導者の癖や思想は消えない呪いのように選手のキャリアに刻まれ、影響を与えることになるのだ。となると、議論すべきは「普遍性vs指向性」の二項対立ではなく、前編でも話題にしてきたように、指向性を持たせた上で自由度をどの程度に設定しようとするかということになり、1つの問題としてスッキリと議論することができるだろう。
中間レイヤーがない「ゲームモデル」の新たな形
対応力を考える時に、組織のマネジメントを考える上では、自由度をどのようにコントロールするかが重要になるということがわかった。
前編から、ゲームモデル主義を掲げる監督たちの間でもゲームモデルの取り扱いに変化が見られるという事例を見てきたが、実際、戦術的ピリオダイゼーション理論における「ゲームモデル」というパッケージは最適解とは言えない。正確には、まだ進化/改善の余地があると言える。
前編でも確認した通り、ゲームモデルは主原則、準原則、準々原則と目的意識からより具体的な行動原則へと制約がヒエラルキーを作る構成になっている。このように系全体のパーパス(組織の存在目的)とシンプルなルールを組み合わせて系をマネジメントする手法は、複雑系制御における基本となっているが、前編のスロットの事例でも確認したように、ゲームモデルはその他の事例と比べるとミドルレイヤーにおける制約が強いという特徴がある。
例えば、ティール組織やホラクラシー、あるいはもう少し広い概念であるパーパスマネジメントといった、ビジネスにおける近年の複雑系制御の考え方を見てみよう。……



Profile
山口 遼
1995年11月23日、茨城県つくば市出身。東京大学工学部化学システム工学科中退。鹿島アントラーズつくばJY、鹿島アントラーズユースを経て、東京大学ア式蹴球部へ。2020年シーズンから同部監督および東京ユナイテッドFCコーチを兼任。2022年シーズンはY.S.C.C.セカンド監督、2023年シーズンからはエリース東京FC監督を務める。twitter: @ryo14afd