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中学校2年生でブラジル留学。“ランド”で知った「本気の熱量」。ブラウブリッツ秋田・吉田謙監督の原点とは

2021.06.17

吉田謙監督(ブラウブリッツ秋田)インタビュー・前編

昨シーズンは開幕28戦無敗と、圧倒的な成績でJ3優勝を達成。今シーズンも初めてのJ2で印象に残る戦いぶりを披露している、ブラウブリッツ秋田を率いる吉田謙監督。DAZNでのインタビュー時には独特の間合いと言葉のチョイスで、見る者に大きなインパクトを与えているが、そのサッカーキャリアについてはほとんど語られていない。今回はサッカーを始めたきっかけから、現役を引退するまでのキャリアについて、熱血インタビューを敢行。

前編ではサッカーを始めたきっかけから、高校生時代までをご紹介する。

サッカーマガジンとサッカーダイジェストは発売日に買う小学生時代


――今回はサッカー選手・吉田謙のルーツを探っていきたいと思っています。まずは、サッカーを始めたのは何歳の時ですか?

 「小学校3年生ぐらいだと思います」


――きっかけは何でしたか?

 「昼休みや放課後でクラスメートと、ドッジボールや野球をやったりしている中にサッカーがあって、そのサッカーが凄く楽しかったんです。それで地元の国立SSSという少年団に入りました。地域のみんなとサッカーをやるのが一番楽しくて、サッカーにハマっていきました」


――小学校の休み時間や放課後だと、みんなで楽しくという感じだと思いますが、そのあたりが今の吉田さんのサッカーに対する考え方に繋がっている部分もありますか?

 「誰かに教わるというよりも、主体的にみんなで楽しくやっているという感じで、登校するのにもスパイクで行っていましたね。下駄箱のスパイクを見てニヤついていました(笑)。帽子も高校サッカーを見に行った時に、記念に買った帽子をかぶっていましたし、机の下にはボールを転がしていました」


――まるでキャプテン翼ですね(笑)。そうすると、休み時間や放課後だけでは物足りなくなって、国立SSSに入られたわけですか?

 「仲の良い友人たちが、その少年団に入っていたか、もしくは入ろう、みんなで一緒にやろうという形でした。他の小学校の友達もたくさんできましたし、それは楽しかったですね。本当に見るものから、着るものから、サッカー一色でした」


――ちなみに最初に買ったスパイクって何ですか?

 「“コーチャーブラック”という、上履きみたいなサッカーシューズで、『一番安いのを買いなさい』と母親に言われて、ポイントも何もない、黒くてサッカーっぽいスパイクでした」


――それはスパイクなんですか?(笑)

 「いや、アレはスパイクじゃなかったですね(笑)。僕はスパイクだと思っていましたけど、それをボロボロになるまで履いていました」


――“着るもの”というのはどういうものを着ていたんですか?

 「赤と黒のフラメンゴの服は着ていましたね。それがフラメンゴだとはわかっていなかったと思います。とりあえずサッカーっぽい服を着る、と」


――地域の選抜やトレセンに選ばれたり、というのはありましたか?

 「無縁です。とにかくサッカーが好きで、家族旅行に行こうという時も、僕は1人で家に残っていましたね。『土日は試合があるから、僕は試合に行きたい』って。家族を困らせていたと思います」


――“見るもの”はどういうものを見ていたんですか?

 「ダイヤモンドサッカーですね。映像はそれを録画して何度も見て、あとはサッカーマガジンとサッカーダイジェストを、隅から隅まで読んでいました。日本リーグの記事とか、選手名鑑を読むのが好きで、『とにかく“日本リーガー”になりたい』というのが、当時の夢でした」


――それだけサッカーに対する熱量を持っている小学生はなかなかいないと思いますが、周囲から浮いたりしなかったですか?

 「いや、そんなことは考えもしなかったです。夢中になってやっていただけで、周りはあまり見えていなかったと思います。でも、サッカーマガジンとサッカーダイジェストを発売日に本屋に買いに行っていたのは、僕ぐらいでした(笑)」


――発売日ですか(笑)

 「発売日を楽しみにしていましたね。特に日本リーグの記事が好きでした」


――部屋にポスターは貼っていましたか?

 「貼っていましたね。ジョージ与那城さんとか。ストライカーというよりも、中盤やボランチ、センター系の選手が好きでしたね。ソクラテスとか、渋めの選手が好きでした」

吉田監督が憧れていたというソクラテス

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――楽しくみんなでサッカーをやるのが好きな少年が、読売ジュニアユースに入られるわけですが、入団の経緯はどういうものだったんですか?

 「82年にスペインW杯でブラジル代表を見て、もう心に稲妻が走ったというか、ジーコ、ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾの4人の中盤、もうそれが好き過ぎて、『この国に行ってみたい!』と両親に懇願して、欲のエンジン全開の暴走特急ですね。猛反対を押し切って、自分の少ししかない貯金を下ろし、家族も貯金を切り崩してくれたのだと思うんですけど、中学校2年生の時に夏休みを利用して、学校も休んで、2カ月間ブラジルに行かせていただきました」


――え~!凄い話が出てきましたね!その頃はまだ読売ジュニアユースに入っていなかったんですか?

 「はい。普通の中学校の部活でやっていました」


――しかし、当時の中学校2年生がブラジルに行くって普通じゃないと思うんですけど。

 「W杯を見て、『絶対に行ってみたい』『とにかく行きたい』と。サッカー雑誌を調べて、ブラジル留学の小さな記事を見つけて、母親に『ここに電話していい?』と。頭の中はブラジル一色でした」


――ブラジルのどちらに行かれたんですか?

 「サンパウロのジュベントスというチームです。そこに、カズさん(三浦知良)がいたんです」


――え~~~~!

 「カズさんは高校2年生ぐらいの年齢だったと思うんですけど、初日に練習に行ったら『一人だけ日本人がいるぞ』と言われて、それがカズさんでした(笑)」


――とんでもない話、持っているじゃないですか!

 「カズさんはユースだったので、一緒に練習することはありませんでしたが、『この人は努力の塊だな』と。朝から練習して、夜はフットサルに出て、『こんなにサッカーが好きで、努力できる人がいるんだ』って。『この人は違い過ぎる』と思いました」


――もちろんジュベントスに着くまで、カズさんがいることはまったく知らなかったわけですよね?

 「まったく知りませんでした。日本人は誰もいないと思っていましたから。でも、カズさんがいてくださって、本当に良かったです。サッカー以外にも、いろいろなことを教えてくださって。カズさんは僕のことを覚えてらっしゃらないと思いますけど、本当に刺激を受けました。カズさんは“キング・オブ・努力”です。好きの度合いが、子供ながらに凄いなと感じましたし、沼津で出会ったゴンさん(中山雅史)もそうですけど、本物は陰で凄まじい努力を継続している。そのお2人は夢中の度合いも、熱中の度合いも似ているものがありましたね。そういう方々と出会えたことに感謝しています」

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――その2カ月はどういう形でサッカーをすることになるんですか?

 「サンパウロに日本人街があり、そこに日系のおばあちゃんたちが住んでいる“日本人県人会”という宿舎があって、その中の一室に住ませてもらいました。なので、言葉に不自由するようなことはまったくなかったです。練習場までバスで15分くらいの道のりを一緒に行ってくれて、慣れたら自分で行くという形で、何の不安もなく暮らしていました」


――憧れ続けて、実際に辿り着いたブラジルは率直にいかがでしたか?

 「『きっと魔法のような練習があるんじゃないか』とか、『魔法のようなグラウンドがあるんじゃないか』と想像していましたが、まったくなかったです。朝から晩まで基本の連続。基礎、基礎、基礎。そして試合、基礎、と。でも、日本に帰って練習に出た時に、明らかに上手くなっている自分に気づきました。止める、蹴る。周りを見る。基礎の徹底と積み上げの大切さを実感しました」


――「帰ってから気づいた」というのがポイントで、向こうにいた時は「何でブラジルまで来て、こんなことをやらされているんだ」と思っていたわけですよね。

 「そうです。森に行って、アップダウンする山道を走って、帰ってきて、また基礎練習。そして、試合。試合前のブラジル体操も、わざとロッカールーム内でやるんです。『何でこんな所でやるんだろう?』と思っていたんですけど、声が、魂が、ロッカーに響いて気持ちが高ぶってくる。今から考えると、アレはコーチがわざとそういう場で、ともに戦う空気感を作るためにやっていたんだなと。みんなで戦うことが大事なんだ、ということを教えてくれたんだと思いますね。

 あと、良いプレーをした選手には帰りのバス賃として、チケットを配るんです。差をつけてくるんですよ。『今日のオマエにはチケットをあげる』『オマエにはあげない』と。平等社会の日本では考えられないです。『オマエはこのあとクラブハウスでメシを食える』とか、『この世界は何なんだ?』と。ハングリー全開の世界でした」


――ちなみに、バスのチケットはもらいましたか?

 「もらってません(笑)。何ももらえなかったです。力不足だし、“甘ちゃん”過ぎて、生きていくためにプレーすることをわかっていませんでした」


――あの黄金の4人を見て憧れていたブラジルと、実際のその2カ月で味わったブラジルは、相当ギャップがありましたか?

 「そうですね。土のカチカチのグラウンドですし、ボールもボロボロですし。でも、ピッチはギラギラのハングリー勝負でした。美しいパスより独力でガンガンにゴールへ向かうし、五分五分のボールには足の裏を見せて球際に来るし、『生きるために勝つ競争社会なんだな』というのは子供ながらに思いました。『この中でプロになるというのは凄いことだな』と。あとは試合ですね。大人の試合は本当に削り合って、サポーターも隣で殴り合っていて。そういう世界も、僕は日本の少年団や部活での経験しかなかったので、『サッカーは本気の戦いだ』と。でも、怖くはなくて、冒険心しかなかったですね」


――このままブラジルに残りたいなと思いましたか?

 「いえ、残りたいとは思わなかったです(笑)。その2カ月間は本当に楽しく過ごしました」

読売ジュニアユースで思い知らされた「本気の熱量」


――で、帰国して、読売ジュニアユースに入るわけですね。

 「はい。たぶん自信がついたんだと思います。地元で一番強くて、セレクションを受けて入るクラブ、それは読売クラブだと。天然芝と人工芝のグラウンドがあって、クラブハウスがあって、トップチームもあって、日本リーグの強豪チーム。そこに夢を持ってテストを受けました」


――そして、セレクションに受かったわけですね。

 「運が良かっただけです。中学2年生の終わり頃だったと思います」


――その頃には同い年の菊原志郎さんも、ジュニアユースにいましたか?

 「その頃、志郎はユースのレギュラーです(笑)。同い年で、今でも連絡を取り合うサッカー仲間ですね。当時から飛び抜けて上手かったです」


――その頃の読売クラブは日本サッカーリーグ1部で2連覇していた頃ですね。

 「ジュニアユースもユースも、みんなでトップの試合を応援していました。当時は“サンバ隊”というサポーター集団があって、僕らはポテトチップスの空き容器の中に砂を詰めて、サンバのリズムでシャカシャカ振って踊ったり、ハーモニカを勝手に吹いたりとか、そのリズムに染まっていましたね。それは楽しかったですし、試合はあまり見ていなかったと思います(笑)。もちろんボールボーイや、試合後のロッカールームの片づけも僕らの仕事で、それも凄く楽しかったです。例えば国立競技場で球拾いをしていて、ラモス(瑠偉)さんに『オマエ、ちょっと入って来い。パス出してくれ』って言われたり、ロッカーの片づけが終わった後に、破れたストッキングをマネージャーがくれたり、いらなくなったスパイクを選手がくれたり、そういうのも本当にファミリー感がありました。読売ファミリーという感じでした」


――ということは、中学生の頃から国立の芝生を踏んでいたわけですか?

 「そうですね。ロッカーに入って片づけたり、球拾いをしていたので、プレーはしていないですけど、芝生を踏んでいたと思います。国立競技場が大好きでした」


――以前お話を伺った時に、中学生の頃から“ランド”では与那城ジョージさんやラモスさんのパス回しに入っていた、とおっしゃっていましたね。

 「よみうりランドの中のピッチは、熱狂にあふれていたと思います。子供から大人までがともに戦う。子供たちの練習でコーチも一緒にプレーしますし、トップの選手も一緒にプレーしてくれます。あの熱風や香りは、選手をたくましく成長させると感じていました。その中に勝負にこだわる執念のような、勝ってオレらを認めさせるという、上手さと執念で練習する感じは凄かったと思います」

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――これも以前お伺いした「本気の熱量」というフレーズは印象に残っています。

 「トップの練習を中学生や高校生が間近でかじりついて見るんですけど、本気の熱量が凄かったと思います。見ていて、狂気じみていました。でも、温かさもありましたし、そして、上手かったです。とにかく上手かった。それがユースやジュニアユースに伝播して、同じスタイルになっていく、と。ピラミッドは上から作れないんですけれども、一番ピラミッドの頂上の人が下まで降りてきて、ちゃんとレンガを横に繋いで、サッカーはこうやってやるんだって大人が本気で教えてくれたことが、読売クラブを創り上げたのだと思います」


――で、実際ボール回しを与那城ジョージさんやラモスさんとやられたんですよね?(笑)

 「やりました。まず、とにかく上手い(笑)。そして、本気。子供だろうが関係ない。容赦なし。取られたら骨ぎわまで削ってくるので、僕らが怖がっていると『サッカーやめろ』と。『もっと堂々とボールに触れ』と。技術を磨けというメッセージだと思うんですけど、強い気持ちでボールに触れば、半分は取られていないんだと。守備でも半分やられたと思ったら、もうやられていると。そういうことを、言われてはいないんですけど、それはブラジルで感じたハングリーな空間に似ていましたし、同じ熱の中にいさせていただいたという感じでした。

 特にジョージさんは、その立ち振る舞いで、子供たちに何人囲まれようが堂々としていましたね。そして、上手い。中でもスルーパスは、DFの間にゴロで通すという感覚を知って、『これは何なんだ?』と子供ながらに衝撃が走りましたし、それをみんなで真似していました。だから、ホワイトボードのミーティングも1回もやったことがないですし、試合が先生、大人が先生、プレーが先生でした。トップの選手とお風呂に入って、クラブハウスの食堂で一緒にゴハンを食べさせてもらって。感謝しかないです」


――当時は高体連全盛だったので、クラブユースを選ぶ人は少数派だったと思いますが、読売ユースに行くという選択肢に迷いはなかったですか?

 「迷いはなかったです。何の迷いもなく、中学生時代を過ごした仲間みんなでユースに上がりました。1学年で10人もいなかったと思います。ジュニアユースの頃から、もちろんユースの先輩たちと一緒に同じグラウンドでプレーしていますし、帰りの電車やバスでも一緒でしたしね。読売ファミリーでした」


――1987年10月号のサッカーマガジンに「178センチの長身を生かしたヘディングに威力を発揮するディフェンダーで、ロングスローも大きな武器」と吉田さんの紹介文と写真が載ってますけど(笑)、そういう選手だったんですか?

 「頑張るだけが取り柄の選手でした。ジュニアユースの時はフォワード、ユースではディフェンスをやっていました」


――あれだけ読み漁っていたサッカーマガジンに、自分が載ったのはメチャメチャ嬉しかったんじゃないですか?

 「おっしゃる通りですね(笑)。それも発売日に買いに行ったと思います。本当に嬉しかったです」


――先日、読売クラブの系譜を継ぐ東京ヴェルディと、ブラウブリッツ秋田の監督として初めて対戦されましたが、やはり特別な想いはありましたか?

 「1試合1試合が秋田にとって、すべてが決勝で、決戦であると思います。個人的な感情はそんなになかったですけど、緑の方々に感謝の想いはこみ上げてきました」

J2第16節、東京ヴェルディ対ブラウブリッツ秋田のハイライト動画


――今まで出会って来た方々や縁を大切にしてらっしゃる吉田さんだからこそ、ご自身のベースを作ってくれたと感謝され続けている読売クラブに、ヴェルディに、特別な想いを抱くのは当然だと思います。

 「秋田に誇りを持っていますし、どんな状況でも選手、スタッフとともに秋田のために戦う。試合が終わって少し経ってから、敗戦での強烈な悔しさと、感謝の想いがこみ上げてきました。幼い頃から知っている藤吉(信次・東京ヴェルディコーチ)だったり、保坂(信之・東京ヴェルディコーチ)だったり、スクールコーチや運営の方の努力の姿、そしてOBからたくさんの連絡があったことには、本当に感謝しかないなと。本気の仲間と、サッカークレイジーたちと過ごしたランドでの日々を思い出しました。ヴェルディとは緑という意味。緑らしさはピッチに出ていましたし、その緑らしさに対して、ひたむきな秋田の選手を信じて、秋田らしさで絶対勝とうと思っていました。そして秋田は必ず強くなります!」

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Photos: BLAUBLITZ AKITA, Bongarts/Getty Images

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Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーとなり、現在はゲキサカを中心に活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!