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【THIS IS MY CLUB】感謝の気持ちをもってプレーを。被災、アマチュアからプロへ…福島ユナイテッド・岡田亮太の10年

2020.06.26

コロナウイルスの影響による中断期間を経て、6月27日にはJ2が再開、J3が開幕する。「DAZN Jリーグ推進委員会」では「THIS IS MY CLUB – FOR RESTART WITH LOVE – 」と称し、スポーツ・サッカー専門の18メディアによる共同企画として、Jリーグ全56クラブ、総勢100人以上への取材を実施。再開・開幕を目前にした選手やスタッフにマイクラブへの想いを語ってもらった。福島ユナイテッドFCからは今年で在籍10年目を迎える岡田亮太選手に話を伺った。

福島一筋で10年目のバンディエラ

 2014年創設のJ3。そのオリジナル11に名を連ねながらも、東北のクラブが3つもあるためか、今ひとつ地味な印象を拭えないのが、福島ユナイテッドFCである。17年にJ3優勝を果たしたブラウブリッツ秋田、あるいはたび重なる経営危機の末に株式譲渡されたいわてグルージャ盛岡のように、良きにつけ悪しきにつけ全国レベルの話題に上ることはない。そうかと思えば、同県のいわきFCがJFLまで迫ってきて、いつまでも先輩風を吹かせるわけにもいかなくなってきた。

 いろいろ書き連ねてみたものの、私が福島ユナイテッドというクラブにかねてよりシンパシーを覚えていることは、この機会にあらためて強調しておきたい。私が初めて福島を取材したのは、東日本大震災が発生した直後の2011年5月のこと。この年、福島は東北リーグ1部を戦っていた。東北リーグというのは、J1から数えて4部リーグ(当時はJ3がなかったため)。ちょうどこの頃、J1のベガルタ仙台は「震災復興の象徴」として注目されていたが、4部の福島が全国的にスポットライトを浴びることはほとんどなかった。

 そんな苦難の時代から、福島一筋でプレーしてきたバンディエラがいる。背番号5の岡田亮太だ。地域リーグ時代は、アルバイトと実家の仕送りで糊口をしのぎながらプレー。そしてJFLへの登竜門である全国地域リーグ決勝大会(地域決勝、現・地域CL)に2度出場している。そんな苦労の末に、岡田は13年にはアマチュア最高峰のJFLに活躍の場を移し、翌14年には念願だったJリーガーデビューを果たす。そして2020年、32歳となる岡田は、福島で10年目のシーズンを迎えることとなった。

入団1年目で東日本大震災に遭遇

 「福島にはセレクションで入りました。それまで、このクラブのことは知らなかったんです。たまたま他の大学の仲間から『受けてみれば?』と勧められて。その時は進路も決まっていなかったので、とりあえず受けてみたら合格でした」

 岡田は1988年9月9日生まれ。東京の日野市出身で、2011年に帝京大学から福島ユナイテッドに入団した。少年時代、横浜F・マリノスプライマリー菅田や柏レイソル青梅に所属していたこともあり、Jリーガーになる夢はほのかに抱き続けていた。しかし、どこからも声はかからない。いくつかセレクションを受けた中で、唯一「上を目指す」ことを明確にしていた福島を選ぶ。そして運命の「3.11」を、かの地で迎えた。

 「練習が終わって、チームメイトの車に乗せてもらっていたんです。ちょうどチームメイトが洗車をしていた時に、地震を知らせるアラームが鳴って、直後にドーンと来ましたね。少し落ち着いてから、アパートに帰ろうとしたんですが、途中の信号が消えていたので、これはただごとではないと感じました」

 アパートに戻ってみると、すべてのライフラインが止まっていた。実家に電話をしても、繋がらない。公衆電話を探しに外に出たら、雪が降ってきて絶望的な気持ちになったという。チームはいったん解散となり、岡田は東京の実家に戻って事の推移を見守ることとなった。福島第一原発事故の深刻度が明らかになる中、当然ながら福島に戻るべきか否かという葛藤はあったはずだ。当時の心境について、岡田はこのように振り返る。

 「一番の心配は、チームがどうなるんだろう、ということでしたね。実は大学の同期と連絡を取りながら、他のチームの情報を集めたこともありました。それでも福島に戻る決断をしたのは、セレクションで拾ってもらいながら、何ひとつ返せていなかったからです。チームが存続する限りは、僕もそこで頑張って結果を残そうと思いました」

2回の地域決勝と全国リーグの厳しさ

 福島での1年目は「周りについていくので必死でした」と語る岡田。それでもSBの定位置を確保すると、東北リーグの優勝に貢献して、初めての地域決勝に臨むこととなった。1次ラウンドでは、SC相模原、奈良クラブ、そしてノルブリッツ北海道と同組。結果は1勝2敗の3位で、決勝ラウンド進出はならなかった。

 「初めての地域決勝は、『気持ちの面が大事』ということを実感した大会でした。3連戦だし、どのチームも自分の将来が懸かっていましたし。僕らも震災の影響でメンバーが抜けて、ぎりぎりのところで東北リーグを戦っていました。そういう状況でも東北リーグで優勝できたし、チームにも勢いがあったので、何となく行けそうな気がしていたんです(苦笑)。でも、そんなに甘くはなかったですね」

 2年目の12年は、当時の監督の勧めもあり、背番号を26から2に変更。チームは東北リーグを連覇し、地域決勝でも初の決勝ラウンド進出を果たした。同組となったのは、相模原、北海道、そしてファジアーノ岡山ネクスト。だが、リーグ戦終盤で左足首をケガした岡田は、ずっとベンチスタートを余儀なくされた。ようやく出番が回ってきたのは、相模原との第3戦。スコアレスの状態で75分にピッチに送り出された。

 「でも、すぐに失点してしまって、そのまま試合終了。すでに(JFL昇格条件である)2位以内は決めていましたが、前回に続いてまたしても相模原に負けたのが悔しくて。昇格はできましたけど、大会後の記念撮影では暗い顔をしていました(苦笑)」

 翌13年、岡田の姿はJFLのピッチにあった。しかし全国リーグでの戦いは思いのほか厳しく、福島は18チーム中14位。翌年に創設されるJ3入りを許されたクラブの中で、最も下の順位に甘んじることとなった。当人いわく「こんなに勝てないものなのか、というのが率直な感想でした」。そして、こう続ける。

 「東北リーグ時代は勝って当たり前、いかに得失点差を広げるかがメインでした。でも全国リーグになると、簡単には点を取らせてくれないし、個々の能力もぜんぜん違っていました。勝負どころで決め切る、あるいは守り切る。そこのところが、ぜんぜん足りていなかったです。開幕戦で(FC)町田ゼルビアに勝って『行けるんじゃないか』という雰囲気はあったんですけど……」

オンラインインタビューで笑顔を見せる岡田選手

「福島が自分を必要としてくれていたので」

 2014年3月9日、ついに岡田はJリーガーとしてデビューを果たす。味の素フィールド西が丘でのJ3開幕戦。対戦相手は、前年のJFLで優勝していたAC長野パルセイロだった。試合は0-1で敗れたものの、苦節4年目にしてようやくJリーガーとなった感慨は、いかばかりであったか。当人いわく「もうバイトしなくていいんだ! というのが一番でした(笑)」。

 あれから6年。岡田は今も、J3の福島でプレーを続けている。地域リーグ時代やJFL時代を含めると、今季で10シーズン目。年齢では上から3番目だが、クラブ在籍は最も長い。それゆえ、当人も「もっと自分がチームを引っ張る存在にならないと」と語る。これまでのキャリアで、最も印象に残る試合について尋ねてみると、少し意外な答えが。

 「1年目の天皇杯ですね。2回戦でジュビロ磐田とアウェイで対戦したんです。Jリーグの雰囲気も初めてなら、ナイトゲームも初めて。結果的に試合には負けてしまいましたが(0-3)、最後にジュビロのサポーターが『福島がんばれ!』という横断幕を掲げてくれたのには感動しました」

 福島一筋のキャリアについて、悔いはないのだろうか。あえて意地悪な質問をぶつけてみると「うーん……ないです」。移籍を考えなかったのかという問いには「オファーがなかったですし、福島が自分を必要としてくれていたので」。裏表のない性格が、ひしひしと伝わってくる。最後に、バンディエラとしての今の心境を訊いてみる。すると、いかにもこの人らしい答えが返ってきた。

 「僕が福島に来たばかりの時は、トレーニングウェアはバラバラでした。当時に比べたら、今はいい環境になりましたけれど、それを当たり前に思ってはいけないですよね。やっぱり選手全員が感謝の気持ちをもってプレーすべきだし、それを若い選手にも伝えていくのが今の自分の役割だと思っています」

Photos: FUKUSHIMA UNITED FC

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福島ユナイテッド

Profile

宇都宮 徹壱

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。2010年『フットボールの犬』(東邦出版)で第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、2017年『サッカーおくのほそ道』(カンゼン)でサッカー本大賞を受賞。16年より宇都宮徹壱ウェブマガジン(https://www.targma.jp/tetsumaga/)を配信中。

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