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悔しさが原動力となったレイソルでの成長過程。中谷進之介のサッカーに生きる日々(前編)

2021.11.22

中谷進之介(名古屋グランパス)インタビュー前編

太陽のような笑顔が印象的だ。どこにいても彼だとわかる大声と、自然と人の集まるポジティブなオーラは、周囲にも笑顔をもたらしていく。それでいて、サッカーに対してはどこまでもストイック。成長への意欲も、さらなるステップアップへの意欲も、隠そうとはしない。レイソルのアカデミーで基礎を学び、グランパスでフットボーラーとしての幅を広げ、日本代表にまで辿り着いた25歳。

中谷進之介がその歩んできたキャリアを自ら振り返るインタビュー前編は、レイソルアカデミーに加わった小学校4年生から、リオ五輪メンバーに落選した2016年までのストーリー。

レイソルを知らずに合格したセレクション


――サッカーを始めたのは小学校1年生ですね。

 「そうですね。幼稚園にサッカースクールはあったので、そこではやっていましたけど、ちゃんと始めたのは小学校1年生です」


――何かきっかけはあったんですか?

 「野球かサッカーか迷って、兄がサッカーをやっていたので、『サッカーをやりなよ』という両親の薦めから始まりましたね」


――中谷選手の地元の佐倉市は長嶋茂雄さんの出身地ですよね。

 「僕の地元は野球の熱が高かったですし、兄の周りでも野球をやっている人が多かったので、そういう意味では結構悩みましたね。長嶋さんもそうですけど、僕らの時代はQちゃん(高橋尚子さん)です。岩名競技場というところで練習していたということで、それは凄く印象に残っています」


――小学校4年生でレイソルのセレクションを受けに行くわけですが、そもそもレイソルのことは知らなかったんですよね?(笑)

 「まったく知らなかったです。横浜F・マリノスと鹿島アントラーズぐらいしか知らなくて、そもそもJリーグか何かということもわかっていない、本当に井の中の蛙で、お山の大将をやっていたので、未知の世界でしたね」


――何でそんな少年がレイソルのセレクションを受けに行ったんでしょう?

 「少年団の友達が新聞記事を見たみたいで、誘ってくれました。なかなかなチャレンジだったと思いますけど、レイソルをそもそも知らないので(笑)、何が凄いのかもわからないですし、ただ受けに行ったみたいな感じですよね。だから、レイソルに入れたことがどれだけ凄いかは、受けている時はわからなかったですけど、セレクションに300人いるという事実が凄いなと思いました」


――実際に受かったわけですが、手応えもあったんてすか?

 「いやあ……。いやあ、ですよ(笑)。積極性とかそういう部分が評価されたとは思うんですけど、そのあたりはレイソルアカデミーのコーチの方々に聞いてみたいです。誰が、どういう形で僕を推薦したのか。あと、凄く良かったのはその年は40人も入れたんですよ。例年は20人に行かないくらいしか獲らないんですけど、その40人が“水・金クラブ”と“火・木クラブ”に分かれていたので、それが大きかったかなと思います。小学校4年生の時は本格的なチームではなくて、5年生に上がる時にその40人の中でセレクションがあったんです。その日は父のお姉さんの結婚式だったんですけど、家族は当然そっちに行く中で『オレは残る』って言って、家からセレクションに行きましたね」


――今とはまったくプレースタイルが違ったんですよね?

 「最初にマリノスカップという大会が小学校4年生の時にあったんですけど、その時は10番で出ていました(笑)。トップ下とかやっていて、5年生からは右SBか右サイドハーフで、最後の方は右SBに下がっていったので、そのあたりからもうバレてますね(笑)」


――どういうタイプのトップ下だったんですか?

 「レイソルの前に所属していた間野台SCの時はもうイノシシタイプで(笑)、テクニックどうこうじゃなくて、突進して、ボールを取ってシュートみたいな感じでしたね」


――ちょっと今からは想像できないですね(笑)。

 「本当にサッカーを知らなかったので、テクニックを磨くということもわからなかったですし、本当にただサッカーをやっていた感じでした」

電車の中での“号泣事件”


――その少年が入るには、レイソルだと周囲のレベルも相当高く感じたんじゃないですか?

 「僕はサッカーを嫌いになったことはほぼないんですよ。今でもサッカーは本当に好きなんですけど、小学校5年生でちゃんとしたチームになった時には嫌いになりましたよね。その1回だけ『サッカーをやめたいな』と思いました。周りが上手すぎて、まったくついていけないので、練習が嫌で仕方なかったですね」


――それでも練習には休まずに行っていたんですよね?

 「休むことは絶対にしなかったと思います」


――それはどういう気持ちからですか?

 「どうだろう……。根本にある負けず嫌いというか、そういうところはあったと思います。でも、慣れてくると楽しくなってくるところもあって、そういう影響もあったんですかね。最初は半べそかきながらやってましたよ」


――小学校6年生の時に電車の中で泣くような悔しい出来事があったと、以前にお伺いしました。

 「はい。小学校6年生の時の全日本少年サッカー大会ですね。レイソルはAチームとBチームが千葉県予選に出るんですよ。僕らの学年は人数が多くて、22人いたんですけど、Aチームの登録は18人なので、絶対に4人は落ちるわけです。その4人はBチームに回るんですけど、まさか自分が外れるとは思っていなくて。試合に出られてはいなかったので、『何となくあるかな』とは感じていたんですけど、いざそう言われた時に、日立台からバスに乗って、その時はみんなと一緒にいたからとりあえずこらえていたものの、柏から東武野田線に乗った時にはボロ泣き(笑)。今でも覚えていますけど、目の前のサラリーマン2人に心配されるくらい泣きました。ちょっと落ちたことが恥ずかしい気持ちもあるじゃないですか。『親にどう伝えたらいいんだろう』という気持ちもあったし。泣きましたねえ」


――それは今から考えるとどういう経験ですか?

 「うーん……。あって良かったかなとは思います。Aチームにいてもたぶん試合には出られなかったですし、Bチームでキャプテンをやらせてもらいましたけど、その2年間ぐらいはほとんど試合に出られていなかったので、そういうところで試合に出る経験ができましたし、改めて自分はヘタクソなんだというところを認識できたのはあの時期かなと思います。でも、大会でAチームを食ってやろうとは思っていましたよ。そうしないとジュニアユースに上がれないと思っていたので」


――まさに聞きたかったのは、そんな中谷少年はジュニアユースに上がるわけじゃないですか。自分ではどうして上がれたんだと思いますか?

 「たぶんサッカーを好きな感じが出ていたんだと思います。タツさん(吉田達磨さん)がそういうのを見ていたのかどうかはわからないですけど、実力的には絶対に上がれるわけがなかったですし、将来性を当時は評価してくれていたのかなと思います」

中谷の恩師・吉田は、現役時代にプレーした柏でU-15監督、U-18監督、アカデミーダイレクターなどを歴任。柏アカデミーの育成コンセプトを築き上げた指導者として知られている。写真は2015年のトップチーム監督時代


――それ、見抜いた人が凄くないですか?

 「本当に凄いと思って! 小学生の頃は絶対プロになれるレベルではなかったと思うんです。それでも僕を残した人は凄いなと思いますし、レイソルアカデミーには本当に感謝しています」

「当時から僕らはそれ(5レーン)をやっていたんですよ」


――僕が初めて中谷選手と話したのは中学2年生の時で、レイソルアカデミーの練習に行った時に、当時ジュニアユースのコーチをされていた芳賀敦さんに「コイツ面白くなるよ。明るいヤツだから」と言われて、ちょっと話したんです。大きな声で「頑張ります!」みたいなことを言われたんですけど(笑)、このぐらいの時期が今のサッカーキャリアを作る上でも相当大きな時期ですよね?

 「まず中学1年生ですね。そこで芳賀さんに出会って、それこそオープンにボールを置くとか、相手の配置を見るということを、入門編として学びました。その時が『CBとしてやっていけるかな』という手応えを掴めたポイントでしたね。それで試合にも出られるようになって。中学2年の最初の方は同じ学年のチームでやっていたんですよ。夏前ぐらいに監督だったタツさんから中学3年生のチームの練習に呼んでもらえるようになって、そこからは激動でしたね。僕の人生の中で一番伸びた時期です」


――どういうところに伸びている実感があったんですか?

 「それこそ今では5レーンとか、そういうことが言語化されるようになってきましたけど、当時から僕らはそれをやっていたんですよ。どこに人が立って、どう配置して、どう攻めていくのかと。CBがボールを運んで、ここに付けましょうとか、そういう頭の整理もされましたけど、タツさんに会って一番教わったのは、サッカーに対して真摯に向き合うことです。あの時の練習にはピリ付いた雰囲気とか、ちょっとのミスも許されない感じがあって、何が成長したかと言われるとたぶん全部成長したんですけど、サッカーと向き合うことというのはあそこで学びましたし、アレがなかったらここまでサッカーを好きになってはいなかったなと思います」


――なかなか試合に出られなかった小学生の時期を経て、試合に出られる喜びと成長している実感がリンクしていったイメージですか?

 「そう思います。成長を実感できる時って楽しいじゃないですか。まあタツさん、怖かったですけどね(笑)。でも、人間ってプレッシャーがないと成長できないと思うんですね。プロになって、あまり誰も、何も言ってこない環境になってくると、あの環境がうらやましくなってくるというか、本当に追い込まれて、ちょっとのミスをしたら『もうオマエ帰れ』と言われる、あの緊張感がうらやましく感じることもありますね」


――今は他の人からは何も言われないステージに辿り着いたという認識でよろしいですか?(笑)

 「いやいや、違う違う(笑)。指導者のタイプですから。今は立ち位置的にですよ。レベルどうこうではなくて」


――中学生の頃に吉田達磨という人の指導を受けたということは、中谷選手にとって相当大きいことですよね?

 「大きいですし、アレがなかったらプロになっていないです。そういうポイントが僕にはいっぱいあると思うんですけど、タツさんに指導してもらったのも1つの分岐点でしたし、たぶんレイソルアカデミーの中でタツさんの指導を受けて、『あの人はちょっと……』って思う人はいないと思いますけどね」


――実際に指導を受けた人から捉えた、指導者・吉田達磨の凄いところはどこなんですか?

 「サッカー観はもちろんあの当時からずば抜けていたと思いますし、当時のレイソルユースを作ったのはあの人だと言っても過言ではないメソッドを持っている人じゃないですか。だけど、メソッドを持っていてもそれだけではダメで、やっぱり伝える力が凄かったかなと思います。伝え方がうまかったので、言葉がスッと入ってきたり、あとは本気で向き合ってくれている感じで考えると、タツさん以上の人に出会ったことはないです」


――練習がピリつく雰囲気はなかなか中学生では味わえないですよね。

 「レイソルにはテスト勉強の期間もあったんですよ。テスト2日前から休んでいいみたいな。それが明けて帰ってきた時に、ポゼッションの練習をやっていたら『チンタラやってるんじゃねえ。テスト勉強しに帰れ!』みたいな(笑)。僕らは普通にやっているつもりですよ。別にチンタラはやっていないし、毎回毎回ピリついた雰囲気ではできないじゃないですか。でも、そういうのを見透かしているというか、その感じは凄かったですね。あの経験はなかなかできないと思います。僕はそこに何の疑問も持たずにやっていました。『何だ、あの人?』となってしまうと人って伸びないと思うので、それはもう『この人は凄い』と感じてやっていたから、伸びたんだと思います。

 中学校2年生の時の高円宮杯で、僕は最初の2試合がスタメンで、3試合目から小林祐介(現・ジェフユナイテッド千葉)がCBで出たんです。それから2回ぐらい勝って、大阪から帰る新幹線のホームで、タツさんが僕に『ふてくされた顔をしている』と。結構顔に出やすいタイプなんですけど(笑)、『何で使わないんだ』というのが表情に出てしまっていて、まずホームで『オマエ、何なんだ』と。そこから帰ってきた練習で、もうメチャクチャ追い込まれた記憶がありますね。だから、そういう表情も見ているんですよ。その当時は『そんな顔してねーよ』と思いましたけど、きっとしていましたね(笑)。あとはユースの事務所へタツさんに呼ばれて、『コレを見ろ』とピケがボールを運ぶシーンを見せてもらったりしました。『コレの何がオマエと違うかわかるか?』と言われるようなことはいっぱいありましたね」


――ピケとの違いはわかったんですか?

 「その時は『パスを出せる時にちゃんと出してます』みたいなことを言ったと思います。『そうだ。オマエは持っている時にボールを見ちゃうんだよ。もっと周りを把握しながら運ばないと』というようなことを言われましたね」

ボールを運ぶプレーのお手本として、中谷が参考にしたバルセロナDFジェラール・ピケ

「プロ」を意識した高校2年生。「自分」を見失った高校3年生


――高校2年生はのちのちの代名詞ともなった20番を初めてつけた年ですよね。それは島川俊郎選手(現・サガン鳥栖)へのリスペクトだと聞きましたが、酒井宏樹選手(現・浦和レッズ)、工藤壮人選手も含めて、あのスター揃いのチームの中で、渋いチョイスではありますよね。

 「あの世代はもうキラキラでしたし、『この人たち凄いな』と思っていて、同じCBはバラくん(茨田陽生)とシマさん(島川)だったんですよ。バラくんにはたぶん惹かれなかったんでしょうね(笑)。シマさんに何で惹かれたのかはわからないですけど、いつの間にか『この人の真似をしよう』と思って、ずっとやっていました」


――「蹴り方まで似ている」みたいに言ってきた人は誰だったんですか?

 「バラくん、工藤くん、その上の世代からも結構言われたんですけど、テツくん(太田徹郎)に一番言われましたね。『ホント、オマエそっくりだな』と。プロになってからはあまり嬉しくないなって思っちゃったんですよね。『オリジナリティを出せてないな』と。中学校の時に似ていると言われるのはメチャクチャ嬉しかったです」


――あのメンバーの中での目の付けどころは素晴らしいですよね。

 「本当に凄かったんですよ。あの世代の海外遠征の映像とかをもらっても、バラくんとシマさんの2人でビルドアップしている感じで、それを見ながら『これはとんでもないな』と思っていました」


――あとはアカデミー時代で言うと、高校2年生の時はクラブユース選手権優勝や、トップチームと天皇杯の公式戦で対戦したりと、トピックス的に凄く大きかったんじゃないかと思うんですけど、本人としてはいかがでしたか?

 「高校2年生の時に、もう明確に『プロになろう』と思ったので、その自信が得られたのは大きかったですね。しかもあの世代の中でやれたというのは、僕の中では凄く財産です。でも、中学2年ぐらいの印象があるかと言われると、そこまででもないです」


――高校3年生の1年は「一番成長しようとした年」だと以前話していて、成長した年ではなくて、成長しようとした年だというのが面白いなあと。

 「高校2年生の時の錯覚で、自分を見つめられていなかったですね。他人に何かを求めることが多すぎて、キャプテンってそうじゃなくて、自分がやっているからそれを周りが見て付いていくとか、周りがダメだった時に、こういうことをすれば良くなるんじゃないかと思うのがキャプテンなのに、『なんでオマエはできないんだよ』というところから入ってしまったので、それは本当に良くなかったなと思いますし、それもタツさんから怒られて変えようとは努力しましたね」


――ベクトルが外に向いてしまったんですね。

 「そうです。あとはトップチームの練習に行くようになって、ユースに対して『このサッカーをしていて大丈夫なのか?』と思ってしまったんです。それまでは『オレはこれでやってきた』という、そこに絶対的な信頼がありましたけど、例えば代表に行ったり、トップでネルシーニョ監督の練習をしたりすると、『これで行けるのか?』という疑問を持ってしまって、僕からチームや監督を信頼するというところが欠けていたと思います」


――その状態でキャプテンをやりながら、上を目指すのは難しいですね。

 「難しいですけど、それは僕の人間的に足りなかったところですね。たぶん上手な人だったらそこはうまくできるはずですし、トップとユースは別物というのも自分の中で納得して、足りないところは自分で補えばいいという考え方になると思うので、根本的なところから突いていこうとしていたことが良くなかったと思います」


――高校3年生の時に、U-17W杯のメンバーから落選しますよね。アジア予選は戦っていて、世界と戦う目標が1つできた中で、そこに辿り着けなかったのは大きなトピックスかなと思うのですが、とういう出来事でしたか?

 「アレは悔しかったですね。アジア予選が終わってからまったく代表に呼ばれなくなったので。吉武(博文)監督からの評価はもともとそんなに高くなかったと思いますし、メンバーに入りたかったから、たまに吉武さんが見に来た試合は頑張ったんですけど、まったく呼ばれなかったので、途中からはしょうがないと思うようにしていました。でも、出たかったですね。かなり強いチームでしたし、実際に良いところまで行ったので」


――世代的に周囲の選手は1つ下ですし、そこで落選したというのは相当悔しかったんじゃないかなあと当時も思っていました。

 「CBで入っていたのが宮原和也(現・名古屋グランパス)、茂木力也(現・愛媛FC)とほぼ本職じゃない選手だったので、悔しかったですけど、半ば諦めていたんですかね。でも、本大会でもグループステージで勝っていく姿を見ていると、やっぱり出たかったですし、もっとできたなと思うところはありました。あの時に代表に入れたことは、外の世界を知るという意味で凄く大きなことでしたね。レイソルしか知らなかった自分が、こういう選手たちもいて、こういうこともできるんだと知れたのは大きかったです。あとは日本国歌を歌うことの誇りというか、その素晴らしさというのはU-16のアジア予選で凄く感じました」


――なかなか人生でもサッカーの試合で君が代を歌うなんてできないですからね。

 「できないですよ。ああ、A代表で歌ってるか(笑)」


――あとはプレミアリーグの昇格を決めた試合でメチャメチャ泣いていたのは、広島の会場で目撃してしまって(笑)、レイソルのアカデミーでずっとやってきたものを形にしましたし、「やりきった感があったのかな」と思ったんですよね。

 「アレを負けるのがレイソルユースだと言われていたので(笑)、一発勝負はすぐに負けると言われていた中で、しっかりチームをプレミアに上げられたことと、僕は高校生の頃に拓也さん(松本拓也・現大宮アルディージャGKコーチ)にかなりチクチク言われていたんですよ。タツさんが期待していた部分と、高校生の時の僕のサッカーに対する姿勢が、小学生や中学生の頃と変わってきてしまったんです。サッカーが好きなのは変わらなかったですけど、雰囲気とかが変わってしまった部分があって、凄くチクチク言われていた中で『オマエ頑張ったな』って拓也さんに言われた時に、もうボロボロ(笑)。その一言がトリガーになって、涙が止まらなかったですね」

中谷がユース時代に投稿したツイート


――布石があっての優しさみたいな。

 「今になってみればわかるんですよ。言ってくれていたことも。当時はわからないから『なんでこんなに言ってくるんだ』とか、『なんでそこでキレるかなあ』と思っていましたけど、あの時はそれもあって本当にブツンと切れましたよね。だから、仲間との最後の試合だったからというよりは、拓也さんの一言でバーッと来ました」


――当時のユースの下平(隆宏)監督と話した時に「進之介は人としてのパワーがある」と。「声もデカいからどこにいてもわかる。でも、あの明るさは人として凄く大事だ」とおっしゃっていたのが凄く印象的でした。あの広島であれだけ泣けるのもそうですし、普段は明るくチームを引っ張れる、そういう人間性の部分の魅力を、僕は高校生の中谷選手に感じていました。

 「その部分は変わっていないと思いますし、それがいいことなんだなと思い始めたのはプロになって2、3年目の頃で、それまではそういうことを言われていても別に嬉しくもないし、ただ『そう言われてるんだな』という感じでしたけど、キャリアを重ねていくごとにわかったのは、それって素晴らしいことで……。ああ、自分で言っちゃってますけど(笑)、岩瀬健(前・大宮アルディージャ監督)さんにも『シンがいることでチームが良い方向に向かってるよ』と言ってもらって、それはいいことなんだなと思いましたね」

ヘタクソでも、プロになる不安は一切なかった


――これは何回も中谷選手には聞いていますけど、ルーキーイヤーのスタートミーティングで、吉田達磨強化部長が「進之介はプロのレベルに達していないけど昇格させる」とハッキリ言っていて、凄いことを言うなと思いました。今から考えると当時ああいうふうに言われたことに関しては、どう捉えていますか?

 「『でしょうね』って感じですよね。高校3年生の時のレベルを考えても、プロでは難しいだろうなと思われるのは確かにわかります。でも、タツさんは何かの意図を込めて言ったんでしょうけど、当時の僕にはまったく響かなかったですね。母だけがショックを受けていて、『あなた、大丈夫なの?』と言われましたけど(笑)。確かに1年目は練習していても、自分でわかりました。レベルの差は感じていましたね」


――性格的にプロに行った方がいい選手と、大学に行っても頑張れる選手がいるじゃないですか。僕は中谷選手は大学に行っても十分やれたと思っていますけど、今から考えると、あの時点でプロに進んだのは凄く大きかったですよね。

 「プロを選んで良かったと思います。それこそ両親は『大学に行ったら?』と言っていましたし、大学に行っていても確かにパーソナリティ的にはダメになるタイプではないので、大丈夫だったと思いますけど、たぶんプロにはなれていなかったなと。自分はプロになるという経験をしながら伸びていったと思うので、あの選択というか、それしか見えていなかった当時の自分に感謝したいです」


――自分の中ではプロに行く不安はなかったんですか?

 「なかったですよ。怖いとかも一切なかったですし、『いや、プロに行くでしょ。レイソルが上げてくれるなら、行かない理由ないでしょ』という感じでしたね」


――結果的に大正解でしたよね。

 「良かったです。あとは井原(正巳)さんですよね。ネルシーニョ監督もそうですけど、井原さんに指導を受けられたのは大きかったです。ネルシーニョ監督は基本的に紅白戦を除けば全員が練習できるので、それでまず自分のヘタクソさを実感して、それを補うために井原さんと2人で話し合いながら練習をする、というサイクルが1日の流れでできていたのは大きかったですね」


――やっぱり「今、オレ足りてないな」というのはプロになって実感したんですね。

 「ヘタクソでしたもん。ボール回しをしても、自分のところで取られる回数が多かったですし、それにビビってしまう自分もいますし、ヘタクソでしたね」


――そうすると、レイソルの中でもやれるかなという手応えを掴み始めたのは、プロ3年目の2016年ぐらいからですか?

 「2014年の最後に5試合だけリーグ戦に出たことは、良かったけど、良くなかったなって思います。あそこで7連勝のうちの5連勝をして、A契約を勝ち獲って、シーズンが終わったことで、また自信満々になっちゃったんですよ。『ネルシーニョ監督凄いな』と。1年目の僕を使ってくれて、しかも勝ったと。そこからのタツさんだったので、アレがなければ逆に2年目は、新鮮な気持ちでタツさんが監督というシーズンを迎えて、この人に付いていくという気持ちでやれていたんじゃないかなと。『何で使ってくれないんだよ』という気持ちになってしまっていたので、2014年で少し自信は掴みかけて、それが崩れたのが2015年で、またゼロに戻って。ちゃんとサッカー選手としてやれているなという感じになれたのは、2016年の途中ぐらいからですかね」


――あとは2016年で言うと、リオ五輪のメンバー落選は重要なトピックスですね。

 「あれは今でも『僕だったでしょ』と思いますけどね。実績というか、その年の結果の残し方からしてもそう感じましたけど、テグさん(手倉森誠監督)の選手の選び方は、昔から選んできた選手を大事にしているという選び方だったので、それも凄く自分にとっては悔しかったです。また、会見でテグさんが僕の名前を出してくれたじゃないですか。アレは堪えましたね。発表の前日にテグさんから電話をもらって、『バックアップメンバーできるか?』と言われて、その時はすんなり現実を受け止めましたけど、悔しかったです。あの直後のアルビレックス新潟戦に2-1で勝って、サポーターの方に『頑張れよ』と言われて、なぜかロッカーでメチャメチャ泣いていたのを覚えています。チームメイトに『何で泣いてんの?』と言われたんですけど、ただ泣いていましたね」

リオ五輪前の国内最終戦、南アフリカとの試合でボールを追いかけるU-23日本代表時代の中谷


――あの年は本当にパフォーマンスも良くて、五輪に行けるだけの選手になってきたんだなあと、こちらにも思わせてくれるような時期でしたよね。

 「それも巡り合わせですよね。サッカー界の掟なので仕方ないですけど、本当にオリンピックには行きたかったです。やっぱりキーは2015年じゃないですか。2016年は試合にも出続けていたので。2015年は2試合しかリーグ戦にスタメンで出れなくて、そこがオリンピックのメンバーに入れるか、入れないかを分けたと思います」


――2015年の監督は吉田達磨さんだったわけじゃないですか。中学生の時に指導を受けて、トップチームへ上げるという決断をした人のもとで、ゲームに出られないという時期を過ごしたと。もちろん当時の実力や、達磨さんの考えもあったでしょうけど、そこも不思議な巡り合わせですよね。

 「試合に出られないということは、やっぱり実力が足りなかったんですよ。それに悪い僕の一面が出てしまって、矢印が外側に向いてしまう自分がいたので。オリンピックもあったので、実際に夏には移籍もしようとしていたんです。でも、よく考えたら2試合はスタメンで使ってもらっているんですよ。浦和レッズ戦とサンフレッチェ広島戦で。そこで結果を残せば変わっていたと思いますし、そもそも僕を使うという選択をしてくれたわけですからね。レッズに3-3で引き分けて、サンフレッチェに2-3で負けたんですけど、その2試合で結果を残していれば変わっていたじゃないですか。何で結果を残せなかったかと言ったら、外側にベクトルが向いていた半年間があったから、その夏に来たタイミングで結果を生かせなかったんだと思いますね。あの時にタツさんが自分に求めていた緻密さや細かさがなかったんだろうなと」


――それを今からちゃんと振り返れるのは、その後もしっかりキャリアを積み重ねてきたからですね。

 「そうですね。あそこで自分のキャリアが終わっていたら、『タツさん、何だよ』で終わってしまったはずですけど、そうではなかったので、良かったと思います」

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Photos: Getty Images

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中谷進之介柏レイソル育成

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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