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平成後の日本のサッカー選手たち。「ミスチル世代」の先にある風景

2019.01.16

『日本代表とMr.Children』リレーコラム第4回

日本代表とMr.Children』は、名波浩や中田英寿の90年代後半から始まり、長谷部誠や本田圭佑の時代まで続いた日本代表とミスチルとの密接な関係を解き明かしていくことで、「平成」という時代そのものを掘り上げていく一冊だ。

この連載では、本書を読んだ異なる立場のサッカー関係者4人にそれぞれのテーマで書評をお願いした。最終回となる第4回は、2018シーズンの徳島ヴォルティスでバリバリのレギュラーとしてプレーしながら、先日突然の引退を発表した井筒陸也氏。異色ブログ『敗北のスポーツ学』で話題をさらった24歳の元Jリーガーが自身の体験から予測する「ネクスト・ミスチル世代」のサッカー選手像とは?

自分らしさの檻

 「今日の自分と、明日の自分は同じか?」という問題への有効な説明は、生物学的にも哲学的にもいまだ見つかっていない。そういう脆い連続性が漂流しないように「自分らしさ」というアンカーが必要になってくる。一貫した行動によって、一貫した自己を繋ぎ止めようとするわけだ。

 そもそも「自分らしさ」というものは、他との相対化だ。動物がいるから我々は人間になった。人間以外の種が存在しなければ、そもそも人間という概念は生起してこない。「自分らしさ」とは絶対的なものではなく、突き詰めれば それは差分でしかない。そこから浮かび上がってくるものでしかない。

 そのために「周りの誰より~」というような適当な比較対象をもって、差分を知り、あるいは差分を作っていくという営みが行われる。

 しかし、手段としての「自分らしさ」は、往々にして目的化する。一貫した自己のための一貫した行動が、一貫した行動のための一貫した自己になる。Mr.Childrenは、それを「自分らしさの檻」と呼んで、そこからの解放を謳った。

 ただしこれは、ソーシャルネットワーク以前の話だ。

ソーシャルネットワーク以後

 93~94年生まれの僕は、ミレニアルズ世代とか デジタルネイティブとかいう言葉に自分が含まれている感覚がない。

 ただ 高校1年の時に、iPhone4の価値を両親にプレゼンして、クラスでまだ片手ほどの数しかいなかったスマートフォンユーザーになった、それくらいの世代だ。16~18歳の時間を、ソーシャルネットワークの名の下で生きる初めての世代。

 ここを境にした以前と以後は、人格形成の最終局面を閉じた世界で迎えたのか、開かれた世界で迎えたのかの二分だ。そして、そこには「自分らしさ」というものの取り扱いについての、大きな隔たりがある。

 ソーシャルネットワーク以後の世界では、先に述べた「周りの誰より~」というモノサシによって「自分らしさ」を獲得することが難しくなってしまった。社会との過度なネットワーキングにさらされ、70億人と相対化されるようになった現代では、周りとは=世界であり、つまり比較対象が「世界中の誰より~」へと変化している。

 何らかの物事についての得意だ、好奇心がある、原体験を持っている、そういう「自分らしさ」になり得る特性も、twitterかInstagramでも開いて、想像の世界ランキングで並べてみると大した順位にないことはすぐにわかる。上には上がいる。

 画期的なアイディアが閃いたと思っても、ググればすぐに前例が出てくる。それで起業している人がいたり、すでにサービスとか商品になっていたりする。自分と同じようなことを考えている奴だって、山ほどいる。

 どうやって「自分らしさ」なんてものを作れと言うのか?

 社会自体の構造はまったく変わっていない。が、ただ それが目に見えるようになってしまった。僕たちは「自分らしさ」という問題に諦めをつけて、決定的な憂いを抱えながら歩くことになった。「自分らしく生きろ」なんて、軽々しく言わないでほしい。

そして、フットボーラーたちは

 いつだって、チームには用意されたいくつかの椅子があって 足が速ければFW、背が高ければDF、左利きなら左サイドにと、その小さな宇宙の中で、暫定的にせよ「自分らしい役割」を引き取って、アイデンディティを担保することができた。

 しかし今では、ひとたびネットを繋げば、世代のトップのプレーヤーを身近に感じることができるようになった。シティも、鹿島も、筑波も、東福岡も、情報だけでいえばすぐ目の前にある。宇宙は、宇宙の広さまで拡張してしまった。チームのように閉じた世界での「自分らしさ」が、開けた世界ではどれくらい通用しないのか、僕たちはリアルに知っている。

 ふと思い出したのは、3年前のJリーグの新人研修だ。主にキャンプ期間中に行われ、1年目の選手は漏れなく参加する。その間もコンディションを落とさないように、カリキュラムが終わったあと、ボールを蹴る時間と場所が与えられている。

 ここまできて、ちょっと接点を持っただけの有名人の名前を出すのは、彼のことを良く理解していないという意味でも失礼だし、話が薄まるかもしれないが、しかしそれでも感じた印象そのままに書こう。

 どういう流れだったか忘れたが、堂安律くんと数人でボール回しをすることになった。僕はしがない大卒23歳で、飛び級でガンバに入団し、Jリーグでも騒がれ始めていた18歳に引け目を感じていたけど、その感情は別に恥じるほどのことでもなかったはずだ。

 しかし、彼はそれだけわかりやすい見出しを持っていたにもかかわらず、物腰は柔らかく、そして誰よりもボール回しを楽しんでいた(ように見えた)。彼と比較して自分の立ち位置を測っていたのが馬鹿らしくなるくらいに、彼は外側のあれこれに興味がなさそうだった。ほんの数十分のフットボールだったけど、彼は内側に強い何かを持っているように感じた。

 これからの世代のフットボーラーたちは「自分はこういうプレーヤーだ」という主張もそこそこに、よりフットボールを楽しむことに夢中になるだろう。きっと、そういう選手が結果を残すだろう。

 それは 外側に目をやって、何となく自らの存在を定義することが許されなくなったからだ。むしろ内側に正対することを余儀なくされ、それはどこまで行っても独りよがりな行為で、そして孤独で、それでも自分を表現することを諦めなかった者だけが、ピッチに残るからだ。

 誰とも比べることはしないし、誰を目指すということもない。比べたって仕方がないし、目指したって届かないものもあるのだから。しかし、それは逃げではなく、むしろ逃れることのできない自分との、タフな戦いだ。

 東日本の震災はもう8年も前になるが、テレビ越しに感じた生温い死の手触りは今もまだ残っている。去年もたくさんの災害があった。遠くの未来について考えることは、外の世界に「自分らしさ」を求めることと同じように陳腐化しつつある。情熱を注ぐべきは、ただ目の前にあること、僕たちで言えばそれはフットボールということになる。

Photo: Getty Images

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Rikuya Izutsu