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ランドで学んだサッカーのいろは。10代で経験した1年半の無所属選手。パン工場でバイトしていたJFL時代 おこしやす京都AC・岩間雄大インタビュー(前編)

2024.05.18

初めてJリーグのピッチに立ったのは27歳の時。高校卒業後の1年半は所属チームが決まらなかった。20代の4年間はパン工場のラインに入り、居酒屋の厨房に立ちながら、JFLでサッカーを続けていた。5年前には右ヒザに大ケガを負い、選手生命の危機も迎えた。それでも38歳になった今、その男は地域リーグの舞台でボールを追い掛けている。魂のプロサッカー選手、岩間雄大の波乱万丈なキャリアを振り返るロングインタビュー。前編ではヴェルディでプレーしていたサッカー少年時代、無所属選手として挑んだブラジル留学の話や、アルテ高崎で過ごした苦闘の時間を経て、プロへの足掛かりを掴むまでをじっくりと語ってもらう。

150人の中から2人!セレクションに合格してヴェルディジュニアへ!

――今日はキャリアのお話をじっくりと聞かせてください。まず、サッカーを始めたクラブはあざみ野FCですか?

 「保育園の頃にサッカーチームがあって、その時にはもう始めていたみたいなんですけど、そこからサッカーはずっと身近にあった中で、チームとして始めたのはあざみ野FCですね」

――あざみ野FCには何歳から入ったんですか?

 「たぶん小学校1年生です。3年生まで川崎に住んでいて、4年生で練馬に引っ越すまでは在籍していました」

――あざみ野FCはJリーガーもかなり輩出していますよね。

 「そうですね。1つ上には玉乃(淳)くんがいましたし、水沼宏太くんも直接の関わりはないですけど、一度試合した時に向こうから挨拶しに来てくれて、知ってもらっていたことが嬉しかったのは覚えています」

現在は横浜F・マリノスでプレーする水沼宏太(Photo: Getty Images)

――もう入った時からかなり強いチームでしたか?

 「強かったですね。自分たちの代は大会でも1位や2位が多かった記憶はあります。僕もずっと試合には使ってもらっていましたし、その時はフォワードとか攻撃的なポジションをやらせてもらっていた気がします」

――そこから東京ヴェルディのジュニアに行くわけですよね。当時のヴェルディにはある程度の自信がないと行かないんじゃないかと推測するので、そういう選手だったということでいいですか?(笑)

 「まずは通っていた小学校のサッカー部に入ったんです。でも、もっと上手くなりたいし、上を目指したいと思った時に、ヴェルディは昔から身近にありましたし、僕が一番尊敬しているのはカズさん(三浦知良)だということはずっと言ってきていることで、やっぱりそのカズさんがいるチームでプレーしたいという想いが凄く強かったんですよね。それこそ小学校2年生ぐらいの頃に1回ヴェルディのセレクションを受けているんですけど、あっさり1次試験で落ちたんです。それで6年生に上がるタイミングで、もう1回受けに行ったんですよ。たぶん自分に自信を持っていたとも思いますし、やっぱりヴェルディでやりたかったんですよね」

――セレクションのレベルは高かったですよね?

 「高かったと思います。かなりの人数がいて、親に言われるのは『よくあの中で受かったね。あなたより上手い人はいっぱいいたのに』って。

――ちなみに150人ぐらいの中から、何人受かったかはご自身の口からお願いします(笑)

 「2人です(笑)」

――それって凄くないですか!

 「今から考えると『よく受かったな』という感じですね。確かセレクションが終わって、もともと在籍している選手と一緒に練習する期間が2週間ぐらいあったんですよ」

――ああ、セレクションのあとにトライアル期間みたいなものもあるんですね。

 「そうなんです。そこまでは8人ぐらい残っていた中で、最後の2人に選んでもらった形だったと思います」

かけられる“ふるい”。常に繰り広げられるチーム内競争

――もともと結構なエリートの方なんですよね。

 「いやいや、そんなことはないですよ(笑)」

――だって、かなり自信を持ってきているような150人の中から、ヴェルディに2人受かった中の1人なんですから。

 「まあ、そうですね(笑)。ラッキーでした。正直、セレクションの時も手応えは感じていなかったですけど、練習に行ってみて、『この中でやりたい』という気持ちは凄く強くなりましたし、『絶対に受かってやる』という気持ちはあったと思います」

――それこそトライアルの時に「このレベルでやったら、もっと上に行けるかも」みたいな感覚はあったんですか?

 「そうですね。やっぱり周りの選手も上手かったですし、同い年で結果的にプロになった選手もいっぱいいたので、『ここなら自分も絶対に上手くなるな』と思いましたし、指導されることも指導者に言われることも今までとは全然違いましたし、確実に上手くなれる気はしていました」

――その時のジュニアの監督は菅澤大我さんですか?

 「監督は小川(章)さんで、コーチが大我さんでした。当時の大我さんは怖かったですけど(笑)、僕は相当良くしてもらったと思うんですよ。メチャメチャ尊敬していますし、今でも会いたいなと思いますね」

――そうするとそこまで大我さんにガッツリ指導を受けていた感じではないですか?

 「でも、大我さんの印象が強いですね。ナイキプレミアカップという大会があって、僕は早生まれで1個下の代の大会にも出られたので、その代にも大我さんに呼んでもらったんですよね。当時で言うとだいぶマニアックなことをやっていた印象は残っています」

――ヴェルディジュニアの時の岩間選手の立ち位置はどういうものでしたか?

 「ジュニアの時はボランチやトップ下でずっと使ってもらっていました」

――全少(全日本少年サッカー大会)は出ていますか?

 「いえ、予選で負けました。確かFC多摩に負けてしまって、全国には出られなかったですね。もちろん自分たちも『東京で一番強いのはオレたちだ』という自負は持っていたので、凄く悔しかったですし、結構周囲の人からいろいろ言われたことは覚えています。でも、当時は周囲の声が気になるというよりは、ただ悔しいという気持ちが強かったです」

――そうするとジュニアユースには、当然のように昇格したような感じですか?

 「そうですね。ヴェルディは毎年のようにふるいにかけられるところもあるので、もちろんその怖さはありましたけど、『このままやっていくだろうな』という気持ちではいましたね」

――それこそ“ふるい”には1年ごとにかけられるんですね。

 「確か1年ごとだったと思います……。途中でいなくなる子はいたと思うんですよね。付いていけなくなって自分からやめてしまう子もいたのかなと」

――ヴェルディのジュニアユースで過ごした3年間は、今から振り返るとどういう時間でしたか?

 「いろいろなことを学べた時間でした。サッカー面もそうですし、一時期試合に出られなくなって、苦しい時間も過ごしましたし、最後はまた試合に使ってもらって、ナイキプレミアカップで世界大会にも行けて、高円宮杯でも全国で2位になれたので、今から振り返れば充実していたと言えますし、かなり濃い時間だったと思います」

オランダ遠征では世界2位に!突き進むエリート街道

――この3年間で指導を受けた監督が菊原志郎さんに松田岳夫さん、永田雅人さんだったと。これはなかなか強烈な3人ですね(笑)

 「相当マニアックなことを教えてくれる3人ですよね(笑)」

23年6月から日テレ・東京ヴェルディベレーザで監督を務めている松田岳夫

――三者三様の“ヨミウリ感”を持った方々だと思うんですけど、自分の今に繋がるサッカー観がこの時期に醸成された部分も大きいですか?

 「間違いなく今に生きているのは、このジュニアユースの3年間ですね。自分の中でも一番大きな存在は松田さんと永田さんで、そのお2人には本当にサッカーを教わったと思っています」

――具体的に言うと、今に繋がっている部分はどういうところですか?

 「本当に基本的なところなんですけど、個人戦術だったり、体の向き、ポジショニングというサッカーのベースですよね。細かいことですけど、そういったことをすべて教わりました。本当に成長できましたし、今から振り返ってもそういうことを教えてもらって良かったなと。少し言い方は難しいですけど、この歳になってみて若い選手を見てみると、実はいろいろなことを教わっていない選手って少なくないんですよ。それでも能力があるから、そのままプロになってきたような選手もいっぱいいるんです。でも、そういう選手が基本的なことを教わってきていたら、もっととんでもない選手になるのになということは、今になって感じているんですよね」

――ちょっと指導者目線が入ってきていますね(笑)

 「この年齢になるとそうなりますよね(笑)。そういうことも若い選手に教えていきたいですし、アドバイスをすることで『この選手をもっと上に引き上げたいな』という想いはちょっとずつ出てきますね」

――ジュニアユースの1つ上には玉乃さんがいて、根占(真伍)さんもいて、菅野(孝憲)選手もいましたよね。かなりのタレント揃いですけど、やっぱりインパクトはありましたか?

 「インパクト、ありましたね。今名前が挙がった皆さんは当時からメチャメチャ上手かったですし、それこそ玉乃くんは僕の中でずっと『この選手より上手い人は見たことがない』という人だったんです」

――それは今でも、ということですか?

 「そうですね。自分の育成年代時代も含めて、あの人より上手い人は見たことがないです」

――玉乃さんは何が上手かったんですか?

 「もう全部じゃないですか。“止めて、蹴る”はもちろん抜群でしたし、相手を外すようなプレーは天才的だったんじゃないかなって」

――中学3年でアトレティコ・マドリ―に行くというのを聞いた時は、やっぱり衝撃が走りましたか?

 「衝撃的でしたよ。『マジか……』と。でも、『やっぱりそうだよな。あれだけ上手いんだから』とも思いましたね」

――それが今や……(笑)

 「いやいや、素晴らしい先輩ですよ(笑)」

――中3の時のナイキプレミアカップはオランダ開催ですよね。これが初めての海外遠征ですか?

 「いえ、中1の時に5人制ぐらいのアディダスカップというフットサルみたいな大会があって、そこで日本一になってフランスに行かせてもらったんです。11人制のサッカーだと、そのナイキプレミアカップのアジア大会が韓国であったので、それがチームとしては初めての海外でした」

――結構若い頃から海外に行かれているんですね。

 「意外と行ってるんです(笑)」

――そのオランダ開催のナイキプレミアカップは印象に残っていますか?

 「そうですね。メキシコのクラブ・アメリカがいたり、負けましたけど決勝ではブラジルのインテルナシオナルと試合をしましたし、対戦はしていないチームだと、レアル・マドリーとかアヤックスも来ていたと思います」

――決勝まで行っているんですね。世界2位って凄くないですか?

 「そう聞くと凄いですね(笑)。でも、決勝で何もできなかった印象が強いです。『コイツら、凄いな』と思ったことは強烈に覚えています」

ユース昇格を断って堀越高校への進学を決断!

――ここまでのお話を伺っていると、完全なエリート街道を歩まれていますが(笑)、ヴェルディのユースから昇格の打診はあったんですか?

 「ありました」

――ただ、昇格という決断はされていないと思うのですが、そこを含めて堀越高校へと進学した経緯を教えていただけますか?

 「もともと高校サッカーへの憧れはあったんですよね。『あの全国の華々しい舞台に出て、そこでオファーをもらってJリーグに行きたい』という気持ちもあったので、『もう高校サッカーに行こう』という決断をしました。

 そこからいくつかの学校を考えている中で、練習参加した桐光学園からは合格をもらえず、ヴェルディの人からは『帝京や国見もあるぞ』と言われたものの、国見に行くイメージはなかったので、『帝京かなあ』と考えていたら、たぶん松田さんだったと思うんですけど、『帝京に行ってやっていけるのか?』と言われて、『うーん……』と(笑)

 そこからの選択肢は3つあって、ユースに残るか、関東第一か、堀越か、だったんです。ジュニアユースの2人のチームメイトが、僕より前にそれぞれ関東第一と堀越の練習に行っていたので、その話も聞いた上で、堀越に練習参加させてもらって、そのまま堀越に行くことを決めました」

――当時の堀越はしばらく全国に出ていなかった時期だと思うんですけど、それでも選手権で全国に出ることを念頭に置いた進学だったわけですよね?

 「そうですね。実は僕たちが3年生になる時に、創立80周年になるということで、その代はものすごく選手を集めたんですよね」

――結果的には全国出場に届かなかったと思うんですけど、この堀越での3年間はどういう時間でしたか?

 「うーん……、厳しかったですね。チームスポーツの難しさと大切さを学べた時間でした。やっぱりクラブチームと部活は全然違うじゃないですか。それこそヴェルディは全員がプロを目指して、自分に厳しくやっている中で、やっぱり部活だとみんながプロを目指しているわけではないですし、楽しくやりたい選手もいて、そういう部分での難しさはありました。正直自分たちの代は、試合に出ている選手と出ていない選手が完全に分かれている感じもあって、結果も出なかったので、やっぱりチームワークの大切さも凄く感じました。『サッカーって自分のことだけやっていればいいわけじゃないんだな』ということを凄く感じた3年間だったと思います」

――先ほどもおっしゃっていましたが、もちろんヴェルディから堀越に行った時点でプロ入りを念頭に置かれていたと思うんですけど、もともと高校の3年間でこうなりたいと思っていたイメージと、実際には相当ギャップがあったわけですね。

 「はい。思い描いていたイメージは、全国に出て、注目されて、高卒でプロに行くと。それしか考えていなかったですし、そのイメージだけを持って堀越に行ったんですけど、まったく達成できなかったですね」

――高校時代の結果で一番良かった時は東京でどのくらいまで行ったんですか?

 「僕たちの代は東京都でベスト8でしたね。僕も出させてもらっていた1個上の代の時に、選手権で都のベスト4まで行ったんですけど、国士舘に負けました」

――ちなみに堀越って芸能コースがあるわけじゃないですか。ちょっと調べてきたんですけど、岩間選手の同級生には上戸彩、山下智久、小池徹平、蒼井優が揃っていたと(笑)。こういう人たちと会う機会ってあるんですか?

 「堀越の本校は中野にあって、芸能人の人たちと一般の人たちはそこに通うんですけど、僕らは高尾に通っていたので、本校にいたのは1年の1学期と3年の3学期だけでした(笑)」

――へえ、そういう感じなんですね!

 「1年の1学期に駅で上戸彩と酒井彩名が待ち合わせしているのを見て、友だちと2人で『かわいいなあ』って見ていました(笑)」

――それはうらやましい(笑)!

 「そのぐらいでしたね。特に何もなかったです」

Photo: Rein Meer Aomori FC

高校卒業後は「1年半の無所属」を経て、憧れのブラジル留学を敢行!

――高校卒業後の進路選択として、大学への進学は考えなかったんですか?

 「もちろん勧められましたし、親にも言われたんですけど、大学からプロに行くという道筋が自分の中でまったく描けなかったんですよね。『大学に行って、そこからプロになんてなれるの?』という感じだったので、一時は大学のセレクションにも行こうかなと思ったんですけど、その選択肢は早い段階でなくなりました。それで高3のそれこそ選手権の前に松木(安太郎)さんが総監督で来てくれて、監督はトレドさんがやっていたんですけど……」

――え?読売クラブにいたブラジル人のトレドですか?

 「そうです。今は大成高校で監督をやられている豊島(裕介)さんもコーチにいましたし、あとは吉崎(修一郎)さんというジェフのユースでプレーされていた方と、吉川さんという『ガチンコ!』という番組で有名になっていた方もコーチでいました。その時に松木さんに少し目を掛けてもらって、『プロになりたい』という話をしたところ、Jの何チームか練習参加に行かせてもらったんですけど、結局ダメだったんですね。それでどうするんだという中で、松木さんが『“コーチ兼選手”として堀越に残って、後輩の指導もしながら、コンディションを整えてプロの練習参加に行けばいいんじゃないか?』とおっしゃってくださって、僕はその決断をしたんです。そこから1年半はそういう感じでした」

――それはなかなか凄い展開ですね。

 「その1年半はなかなか大変でした。まだ高校を卒業したばかりですし、選手とコーチのどちらもやらないといけなくて、その整理も難しかったですけど、その時はそれが一番プロに近いのかなと思ったんでしょうね。でも、少しヒザを傷めていた期間もあって、その1年半は結局Jクラブの練習参加もできなかったんです」

――そこからブラジルに行くわけですよね。これはどういう経緯からですか?

 「これも完全にカズさんですね(笑)。カズさんが行っていたという憧れから、ブラジルに行きたいとはずっと昔から考えていて、そのタイミングで改めて『ブラジルに行ってみたい』と思っていた時に、自分の知り合いにブラジルのイトゥアーノというクラブでプロ選手だった方がいて、その繋がりからある代理人の方に話をしてもらったら、『じゃあ来てみたら』ということになって、そこからすぐにブラジルへ行きました」

――もともとブラジルに行く期間は決まっていたんですか?

 「一応、半年のビザが取れたので、『もう半年だけ行こう』と決めて行きました」

――実際に行かれたブラジルはいかがでしたか?

 「楽しかったですね(笑)。行って良かったですよ。新たなサッカー観を知れたり、普段の日本では感じられないスタイルの選手と一緒にプレーできたことで、また大きな気付きと勉強があって、凄く楽しかったですね」

――もともとブラジルにはポジティブなイメージを持って行かれたと思うんですけど、それとのギャップはありましたか?

 「思っていたよりも行かせてもらったところの環境が良かったんです。それこそホームステイをさせてもらって、そこからチームに練習参加させてもらう感じだったので、もっとグラウンドが土だったり、劣悪な環境を想像していたんですけど、『何でも揃っているし、グラウンドも芝じゃん』と」

――最初に行かれたクラブはどこだったんですか?

 「タボン・ダ・セーハという、当時は5部だったんですかね。それこそ同い年ぐらいの若い選手たちがいる小さな街クラブでしたけど、ちゃんと寮があって、自前のサッカー専用スタジアムがあって、週末の練習試合には地元の人たちが応援しに来て、『これは凄いな』と思いましたね」

――その半年で「これはブラジルでもやっていけそうだな」という感じはあったんですか?

 「正直ありましたね。チームの監督もその半年が終わった時に、『もう1回来いよ』と言ってくれたので、『どうしようかな』という考えもあったんですけど、やっぱり日本でプロになりたい想いが強くて、ブラジルにもう一度戻るという決断はしなかったです」

実家に戻ってバイトをしながらFC KOREAで半年間プレー

――ブラジルから日本に戻ってこられて、もちろんプロを目指されている中で、入ったのが東京都リーグのFC KOREAですよね。これも意外な選択に映りますが、その流れも教えていただけますか?

 「単純に今度は日本に帰ってきても、プレーする場所がなかったんです。もちろんプロになりたいとは思いつつも、いきなりプロは無理ですし、『どこでサッカーしよう……』と考えていた中で、知り合いの“つて”でKOREAの練習に参加させてもらって、合格をもらえたので、『ここでプレーします』という決断をしたという流れです」

――FC KOREAは基本的に在日の方がプレーしているチームというイメージがずっとあったんですけど、岩間選手が加入した時にも日本人の選手が在籍していたんですよね?

 「そうですね。もちろん在日の方々のチームとして立ち上がったはずですけど、僕のほかにも3人の日本人選手がいました。だから、僕はKOREAに対して『在日の人たちのチームだから』みたいな見方はまったくなかったですし、チームの人も普通に接してくれますし、メチャメチャいい人ばかりでしたね。結果的に半年しかいなかったですけど、凄く楽しい時間でした」

――チームのレベルとしてはどうだったんですか?

 「確か入れ替え戦まで行ったんですけど、そこで負けてしまって上のカテゴリーには上がれなかったんですよね。練習は楽しかったですし、正直周りの人も上手くて、凄く良い時間でした」

――ちなみにこの時期は実家暮らしですか?

 「はい。夜が練習だったので、実家に住みながらバイトをしていました」

――それだと結構時間ありますよね(笑)。練習以外は何をしていたんですか?

 「親が体操教室をやっていたので、その仕事を手伝ったりとか、知り合いのサッカースクールに行ったりとかしていましたね」

――それこそ社会的立場みたいなものは……

 「まったく考えていなかったですね(笑)。とにかくサッカーに打ち込める環境を作りたかったので、周囲の目はまったく気にしていなかったです」

――時系列を整理すると、2004年の4月から1年半は堀越で“選手兼コーチ”をされて、2005年から半年ブラジルに行かれたと。そこから帰国されて、2006年の半年をFC KOREAで過ごしたという理解で大丈夫ですか?

 「はい。そうなります。それで、2007年からアルテ高崎ですね」

先輩の紹介という形でJFLのアルテ高崎へ加入!

――まあアルテ高崎はなかなか変わったクラブだったと思いますが(笑)、加入の経緯を教えていただけますか?

 「KOREAでのシーズンが終わって、『どうしようかな』と考えていた時に、僕の高校時代の1つ上の先輩がアルテにいたんですけど、その年がアマラオさんも含めて選手が大幅にいなくなってしまったんですよね。それで『ウチが選手を探しているぞ』という連絡をその先輩からもらって、『すぐ獲るわけではなさそうだけど、練習参加してみれば?』と言ってくれたので、『お願いします』ということで、JFLの開幕前に練習参加させてもらって、獲ってもらったという形でした」

――アルテはカテゴリーこそJFLですけど、完全にアマチュアだったわけですよね。その全国リーグに所属しているクラブという見られ方と、実状のギャップみたいなものはいかがでしたか?

 「当時の自分は、JFLがなんだかよくわかっていなかったんです(笑)。『ああ、JFLっていうカテゴリーがあるんだ』ぐらいの感じで、『でも、全国リーグなんだ』というところから入ったので、特にギャップみたいなものは感じていなかったですね」

――チームのレベルはいかがでしたか?

 「うーん……、かなり難しかったですね。成績を見ても1年目はとんでもない結果だったので……」

――リーグ戦は年間で1勝ですよね。

 「はい。自分もずっと使ってもらっていたんですけど、夏前ぐらいにケガをしたことで、そこからのシーズンは完全に棒に振ってしまったので、かなり難しかったです。それこそ当時のチームにJリーグでもプレーしていたベテランの方がいらっしゃって、その方がポロッと『これはやべえぞ……』とおっしゃったことは記憶に残っています(笑)。でも、個人的にはまだ若かったですし、試合にも出られていましたし、一生懸命やろうという想いが強かったので、チームの状況までは考えられていなかったですね」

――スネの骨折でしたっけ?

 「そうです。全治まで1年ぐらい掛かりました。でも、手術しなかったんですよ。固定と保存で治していって、チームにトレーナーもいなかったので、自分でリハビリしながらという形だったので、そのぐらい時間が掛かったんでしょうね」

――そのあとにJクラブでもプレーされた今から考えると、その治し方はかなりリスキーですよね(笑)

 「ヤバいですよね(笑)。病院は昔から通っている東京のところに通院して、そこでの診断が保存で治そうということだったんです。でも、リハビリとかを考えると、ちょっととんでもない状況ですよね」

パン工場。居酒屋。サッカースクール。バイトを掛け持ちする毎日

――その時は高崎でバイトされていたんですよね。かなりいろいろな種類のバイトをされていたと伺っています。

 「はい。まずパン工場にいて、次は居酒屋で働いて、そこからアルテとは別のサッカースクールで働いていました」

――差し支えなければ、パン工場での勤務内容を教えていただけますか?

 「本当に流れ作業なんですけど、それこそ“チュロス”がバーッと大量に流れてくる本数をパッと見て、パッと束ねて、そのままベルトコンベアーに流すと。あとは流れてきたものを箱に詰めたり、焼いたパンが流れてきたのをまた違う箱に移したり、流れてきた生地をまとめて重さを計ってとか。それを夕方の4時から11時までやっていました」

――4時から11時!しかも流れ作業のバイトってメチャメチャキツいですよね。

 「メチャメチャキツいです。もうずっと時計を見ながら、『うわ、まだ5分しか経ってない……』って(笑)。それが7時間も続くわけですから、とんでもなく時間が長く感じました。メチャメチャキツかったです」

――居酒屋は厨房でしたっけ?

 「厨房です。でも、居酒屋は1か月ぐらいで、すぐにサッカースクールの方に移ったんですよね。厨房は基本的に揚げ物とか仕込みとかが多いので、そういうことをやっていました」

試練の2年間と充実の2年間。アルテ高崎への大きな感謝

――1年目と2年目はレギュレーションの関係で、ある意味で奇跡的にJFLに残留したような感じだったと思うんですけど、もともとご自身が思い描いていたイメージと、ケガをされたことも含めての現実という意味では、最初の2年間は相当食い違っていましたよね。

 「はい。試練の2年間だったと思っています」

――心は折れなかったんですか?

 「それが折れなかったんですよね。何でなんでしょう?自分ならもっとできると信じていましたし、『プロになりたい』という強い想いもずっとあって、夢を捨て切れなかったのかなとは思います」

――ここまでのお話を聞いていると、そんな状況でプロが見えるのかなと思ってしまうんですけど、ご自身の中ではそれが明確に見えていたということですか?

 「そうですね。そこがブレたことは1回もなかったです。きっと周りの人が僕に直接言わなかっただけだと思いますけど、自分はブレなかったですね。今から思うと両親の存在が大きかったです。そういう状況の中でも、ずっと応援してくれていましたし、『もう諦めろよ』とか『もうやめたら』なんて一言も言わなかったですし、僕がやることに対して常に応援してくれていたので、感謝しかないですね」

――3年目に後藤義一(現・東京国際大学ヘッドコーチ)さんが監督でいらっしゃいましたが、サッカー面での整理はだいぶ変わった印象でしょうか?

 「変わりました。『やっとサッカーができるようになったな』という感じでしたし、セレクションで良い選手が来てくれたこともあったのかなと。それまではセレクションすらなかったと思うので、後藤さんが来たことでサッカー面の整理は進みました。自分もいろいろなことを教えてもらえたので、3年目からの2年間はかなり大きかったです」

――そうすると、ケガも含めてなかなかうまくいかなかった最初の2年間と、後藤さんがいらっしゃってからの2年間は、ご自身の成長度合いも全然違いましたか?

 「大きく違ったと思います。後半の2年間があったからこそ、そのあとの長崎へのステップアップに繋がりましたし、後藤さんに出会えていなかったら、その後のキャリアもきっと違いましたね」

――後藤さんの指導はどういうところが良かったんですか?

 「年齢を重ねて、後藤さんと食事に行った時に『もうオマエには好きにやらせていたからな』と言われたんです(笑)。それはその通りで、のびのびとプレーさせてくれましたし、自分に足りなかったことをハッキリと教えてくれました。『こうすれば上手くなる』『こうすればもっと良くなる』ということを的確に指示してくれましたし、はじめは難しかったですけど、自分もそれがだんだんできるようになっていくんです。それで世界観が広がって、サッカーがもっと面白くなりましたし、もっと余裕を持ってプレーできるようになったんですよね」

――アルテでのラストゲームは三洋電機洲本サッカー部とのJFL入替戦ですよね。僕は第2戦を浜川競技場のスタンドで見ていました(笑)

 「懐かしいですね。アウェイの1戦目の方がよく覚えています。点を獲ったので。ホームでの2戦目はそこまで記憶が鮮明ではないですね」

――改めてアルテ高崎での4年間は、今の岩間選手にどういう影響を与えていますか?

 「うーん……、ここもかなり大事な4年間だったと思います。多くのものを得られたなとは感じていて、もちろん厳しいことの方が圧倒的に多かったですけど、ここでの経験があったからこそ今でも頑張れていると思えますし、この時代のアルテのメンバーはものすごく仲が良くて、絆が凄いんですよ。本当に面白い人ばっかりでしたし、みんな苦しい中で頑張ってきましたからね。だから、凄く良い4年間だったなと今では思っています」

長崎から届いたオファー。とうとうプロサッカー選手になる!

――2011年に当時はJFLに所属していたV・ファーレン長崎に移籍したことで、とうとうプロサッカー選手になったわけですよね。この移籍の経緯と決断を教えていただけますか?

 「それこそJFL入替戦の1戦目の前日だったと思うんですけど、アルテの先輩で、その1年前に長崎に移籍していた杉山琢也さんから電話が来たんです。『ウチの監督がオマエのことを欲しいと言っているけど、オマエがOKすればすぐオファーを出すみたいだぞ』と」

――凄いですね。選手からそんな電話が来るんですか。

 「当時はそんな感じだったんでしょうね(笑)。それで『え?ホントですか?』と。長崎はプロチームでしたし、Jリーグも目指せるクラブで、それは行きたいじゃないですか。なので、たぶんもうその時点で『行きたいです。お願いします』と返事をした記憶があります。そのあとに入替戦に勝って、アルテもJFLに残留して、シーズンが終わった後に後藤さんと面談したタイミングで『長崎からオファーが来ているぞ』と。さらに『長野(パルセイロ)の薩川(了洋監督)もオマエを気にしているぞ』とも言ってもらったんです。でも、最初に話をもらったのは長崎ですし、杉山さんに行く意思も伝えていたので、『もう長崎に行きます』と後藤さんに伝えました」

――たぶん当時の長崎の佐野(達)監督も、岩間選手の試合を見に来ていたんでしょうね。

 「はい。入替戦の1戦目を、ヘッドコーチの堺陽二さんと見に来てくださっていたみたいで、そこでオファーを出す決断をしてくださったと聞きました」

――それこそアルテでの苦しい4年間を頑張ったのは、プロサッカー選手になるという自分の掲げた夢があったからじゃないですか。実際にオファーが来たことに対しては、どういう想いがあったんですか?

 「メチャメチャ嬉しかったですね。カテゴリーがJ1じゃないとか、J2じゃないとか、そういうことではなくて、『プロサッカー選手として、サッカーで生活できるんだ』ということがとにかく嬉しかったです」

――何よりアルテの同僚たちも含めて、それまで岩間選手に関わってきた皆さんが、プロサッカー選手になったことを喜んでくれたんじゃないですか?

 「そうですね。選手たちは『スゲーなあ。うらやましいなあ』という部分もありながら、『でも、頑張って来いよ』というふうにみんなが喜んでくれましたし、応援してくれましたね」

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Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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