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ペリシッチの最初で最後の夢。「ハイデュクの子」が17年半ぶり、“月給1ユーロ”で帰郷を叶えるまで

2024.02.05

1月19日、トッテナムで昨年9月から長期離脱中のクロアチア代表ウインガー(通算129試合33得点)、イバン・ペリシッチのハイデュク・スプリト移籍が発表された。11歳で加入した「自分のクラブ」から17歳で「必要に迫られて」フランスに渡り、以後ベルギー、ドイツ、イタリア、イングランドで輝かしいキャリアを築いてきた35歳にとって、そして故郷のサポーターにとっても待望の古巣帰還だ。その「夢」が実現するまでのストーリーを、おなじみの長束恭行氏に伝えてもらった。

ダルマチア人としてキャリアのクライマックス」を

 「Ivane, vrime je」(イバン、時間だぞ)

 ハイデュク・スプリトのサポーター「トルツィダ」がこの文句を使って、イバン・ペリシッチに帰還を促し始めたのは2年以上前のこと。クロアチア南部のダルマチア地方で生まれた子供が最初に覚える言葉が「ハイデュク」と言われるほど、ハイデュクは同地方のアイデンティティと化したクラブだ。縦に伸びる海岸沿いをドライブすれば、石灰岩と真っ青な海、そしてハイデュクのエンブレムが描かれた壁があちらこちらで視界に飛び込んでくる。

 中心都市のスプリトから20km離れた港町、オミシュを故郷とするペリシッチも「ハイデュクの子」だ。トップクラブを渡り歩き、ビッグイアーを掲げ、クロアチア代表で2度のW杯メダルを獲得している彼が、唯一叶えていない夢があった。それは「ハイデュクでプレーすること」。ダルマチア地方の方言が混じった誘い文句を見聞きするたび、ペリシッチの心は大きく揺さぶられた。

 とうとうその「時間」が訪れたのが2024年1月19日。ハイデュクの本拠地スタディオン・ポリュウドに現れたペリシッチは、最愛のクラブのユニフォームに袖を通した。背番号は彼のラッキーナンバーである「4」。昨年9月にトッテナム・ホットスパーの練習で右膝前十字靭帯を断裂し、今はリハビリに励んでいるところだが、もしロンドンに残ったとしても半年間は高額報酬(年俸1000万ユーロ超)が約束される。しかし、彼はその受け取りを固辞し、今季いっぱいまでローン移籍でハイデュクに戻る道を選んだ。月給はシンボリックな「1ユーロ」だ。

 そして6月30日にトッテナムとの契約が満了すれば、ハイデュクに完全移籍する運び。月給は引き続き「1ユーロ」。欧州カップ出場のボーナスや国外移籍の違約金は別途設定されている。セルビアの理学療法士のもとで運動能力を回復させ、3月にはチーム練習に合流。クロアチアリーグの優勝争いの佳境となる4月後半に戦線へと加わり、6月開幕のEURO2024に間に合わせる、というのが復帰プランだ。ペリシッチは入団会見でこのように抱負を語った。

 「半月前にランニングを始めたが、私はボールとピッチが待ち遠しい。もちろんモチベーションは失われておらず、もっと強くなって戻ってくるつもりだ。朝8時から夜8時までトレーニングを積んでいるからね。これがハイデュクと代表チームを助けるのに十分なトレーニング量であることを望んでいるよ。ここでは誰もがハイデュクの選手になることを夢見ている。私のデビューの日がなるべく早く訪れることを願っているんだ。(かつて放送されていた)5大リーグのダイジェスト番組を観ていたら新たな夢が湧いたものだけど、ハイデュクこそが間違いなく最初の夢だった。ハイデュクでタイトルを獲れたとしたら、それはキャリアのクライマックスになるだろう」

ハイデュク公式YouTubeのペリシッチ入団動画。アルセン・デディッチの名曲『帰ってくる』(Vraćam se)をBGMとし、母親の手紙を持ってスプリトを去るペリシッチ役の少年とペリシッチ本人が本拠地ポリュウドで出会うストーリー

父親の借金を返すためにフランス、ベルギーへ

 イバンは正真正銘の「ハイデュクの子」だった。父親アンテが養鶏場を営んでいたことから「コカ」(鶏)というニックネームで呼ばれていた少年は、11歳で名門のハイデュクユースの門を叩く。スポーツ万能だった彼が15歳になると、父親は新たにパーソナルトレーナーとコンディショニングトレーナーを雇った。利き足がどちらかわからないほど、フットボーラーとしての技術を磨き続ける日々を過ごしていた。

 17歳の夏、スロベニアで行われたトップチームの合宿にユースから特別参加。足に吸いつくような高速ドリブルをゾラン・ブリッチ監督は高く評価し、合宿から戻るやすぐにフロントはプロ契約の交渉をスタートした。ところが、プライベートジェットを飛ばしてきたフランスのソショーがペリシッチを横取りする。ビジネスが傾き、多額の借金を抱えた父親がソショーの契約金を返済の充てにしたのが理由で、高校を中退して(未成年のEU圏外選手を登録する理由作りを兼ねるために)妻と妹と一緒にフランスへと渡るように、と息子に促した。

 「イバンにとってはハイデュクがすべてで、あの白いユニフォームを着る日を夢見ていた。しかし、イバンがソショーに行くことが家族にとっては最良の選択だった。(借金清算のためにクロアチアに残る)私から、そして私がもたらした苦しみから家族全員を遠ざけなくてはならなかったんだ」(アンテ・ペリシッチ)

 その直後にハイデュクとソショーの間で係争が起こったために2006年は公式戦出場が叶わず(最終的に移籍金36万ユーロで合意)、解決後の翌年にようやくピッチに立つことができた。ところが、彼の獲得を熱望したアラン・ペラン監督がシーズン後に退団したため、それからの1年半をBチームで過ごす羽目に。2009年1月にベルギーのルーセラーレにレンタル移籍し、最下位だったクラブを17試合5得点の成績で1部残留に導いたことがキャリアの転機になる。

2009年10月13日、U-21代表に初選出されて欧州選手権予選のセルビア戦で「10」を背負った20歳のペリシッチ(Photo: Yasuyuki Nagatsuka)

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イバン・ペリシッチクロアチアクロアチア代表トッテナムハイデュク・スプリト

Profile

長束 恭行

1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。近著に『もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚』(小社刊)。

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