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3年間の教員生活、1人で見に行ったフランスW杯、コインランドリーに通った水戸での日々、浦和で身に着けた分析力という武器。ザスパクサツ群馬・大槻毅監督インタビュー(中編)

2023.09.13

“組長”とも称された、Jリーグ史に残るインパクト抜群のビジュアルのイメージで捉えては、この男の本質を見誤る。その実はサッカーと人間が大好きな元・高校教師であり、地道に一歩ずつ自分の進む道を踏み固めて、プロの監督へと辿り着いた努力の人でもある。現在はザスパクサツ群馬を率いて、クラブ初のJ1昇格に堂々と挑んでいる大槻毅が、自らのキャリアを振り返るロングインタビュー。中編では新設校に赴任して3年間を過ごした高校の教員時代、1人で堪能したフランスW杯の思い出、プロの指導者へと転身した水戸ホーリーホックでの奮闘から、最初は分析に明け暮れた浦和レッズでの日々を語り尽くす。

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『先生』と呼ばれることが怖くなった高校教員時代

――大学を卒業されて、宮城県立富谷高校で教員になられています。この流れを教えていただけますか?

 「最初は松本(光弘)先生から、『こういうチームがあるから行くか?』と言われて、『ああ、サッカーをできる場があるんだ』と。それは地方の実業団のチームだったと思うんですけど、その話は結果的に流れたんですね。そこで教員採用試験か、大学院の試験を受けようかなと。でも、大学院はお金がかかるじゃないですか。そこで働こうと思って、受かるか受からないかは別として、教員採用試験を受けました。

 覚えているのは、柔道の実技で大外刈りをやった時に、道着の手を放してしまって、相手の人が怒っちゃったんです(笑)。25メートルプールで水泳の試験も受けましたよ。どんな泳ぎ方でもいいから50メートルを泳ぐんですけど、速い方が良いと思って25メートルを息継ぎなしで泳いだり。そういうことは覚えていますね(笑)」

――そもそも当時の富谷高校のサッカー部のレベルはどんな感じだったんですか?

 「新設校だったんです。僕が行った時は2年目で、3年生がいないと。だから、みんな1年生からレギュラーでした。グラウンドもサッカー部と陸上部と野球部ぐらいしかいないので一面が使えましたし、恵まれていましたね。当時は進学に力を入れていて、7時間授業で、月曜と金曜は1時間ぐらいしか部活ができないみたいな感じでした。

 最初はなかなか難しかったですけど、僕の2年目はさすがに選手たちも1年生からずっと試合に出ているので、少し形になってきましたし、3年目はインターハイで東北高校と7人目か8人目のPK戦まで行きましたし、そこそこの強さでしたね。そんなに選手が集まってくる感じでもなかったですけど、みんな一生懸命やる子たちで、頑張ってくれました」

――指導の一番最初の段階で、そういう高校生たちと関われたということは、今から振り返るとどういう経験でしたか?

 「恵まれていましたよね。いきなり監督ですから。部長の先生もサッカーの経験があって、いろいろ教えてもらいながらやれました。周りの先生方も、高校時代からよく知っていた方々がいろいろと教えてくれましたし、トレセンの手伝いもさせてもらって。楽しくやっていましたね。

 でも、サッカーだけをやるわけではなくて、教員ですから。そこが根本的に間違っていました。サッカーをやりたいから教員になるなんて、そうじゃないんですよ。だから、仕事をやっていくうちに『これじゃダメだな』と。サッカーは好きですけど、サッカーに夢中になっていても、仕事としては別のことでお金をもらっていたわけで、1年目が終わったくらいでそう思ったんです。まあ23歳ぐらいで、周囲から『先生、先生』と言われること自体が間違っているじゃないですか。何もわかっていないのに偉そうにして、サッカーのことは一生懸命やっているけど、『これはダメだな』と」

――あるインタビューで『自分より年上の保護者の方から「先生」と呼ばれることが怖くなった』とおっしゃっているのを拝見しました。

 「怖くなりましたね。何もわからないのに、『先生』って呼ばれるという。あの当時は、悩みはしなかったですけど、いろいろ考えないといけないなと思っていましたね。まあ、今でもちゃんとなんかしていないんだけど(笑)」

1人での渡仏。現地で試合を見まくったフランスW杯

――教員生活は3年間ということになりますね。教員をやめられる決断はどういう流れからでしたか?

 「当時はJリーグが始まって、同級生の大岩剛は選手として活躍していましたし、大学院に行った菅野さんがフィジカルコーチになっているのを見ていた中で、『もしかしたら自分もそういう方向で勉強したら、何かになれる可能性はあるのかな』と思ったことが1つです。あとは、教員をやめたのが1998年の3月だったんですよ」

――ああ、フランスW杯だ!

 「行きたいじゃないですか(笑)。1回は行きたいじゃないですか。でも、仕事をしていたら行けないじゃないですか。そういうことです(笑)。2002年の時は水戸にいましたけど、Jリーグのクラブにはチケットが分配されるからと。後々聞いたら浦和はみんなスタッフがチケットをタダでもらって見に行っていたと。水戸はそんなことないから買わされるわけですよ(笑)

 98年はこっちでチケットを手に入れたのは、結果的にベスト8でイタリアとフランスが対戦したゲームです。アレはジレットのスポンサー席のチケットがあると言われて、それだけ押さえてフランスに行ったんですけど、決勝だけは1万フランを切らなかったので諦めましたね。でも、結構試合は見られましたよ。まず、デンマーク対ナイジェリア……」

自国開催の1998年W杯で初優勝を果たしたフランス代表(Photo: Getty Images)

――ああ、1-4!僕はナイジェリアが大好きなんです。あの試合はショックだったなあ……

 「アレは着いてすぐの試合で、スタッド・ドゥ・フランスが会場だったんですけど、『行けんじゃね?』ぐらいの感じで行きました(笑)。まあ1人でしたからね。大学の卒業旅行も1人でイタリアに行ったんです。大学の購買部でKLMのチケットを買って、1泊目のホテルだけ予約して、向こうでチケットを買って、試合を見て。それで『もう1回行くか』と思ってフランスに行って、決勝の前の日までいましたよ。準決勝も両方見ましたし、アルゼンチン対オランダもマルセイユで見ましたし、ブラジル対チリも見たなあ。途中まではダフ屋のチケットもメチャメチャ高かったんですけど、準決勝を過ぎたら定価割れでしたね。

 それこそ準決勝のクロアチア対フランスなんて、買った席がクロアチアの協会席だったんですよ。たぶん周りの人も『何でコイツがここにいるんだ?』って(笑)。クロアチアの人がハーフタイムに何かを買いに行っていたら、チュラムにゴールを決められて。それまでは『フランスもそんなに盛り上がってないんだな』と思っていたのに、準決勝のあとで地下鉄に乗ったらチュラムの顔写真が出ているチラシがあって、フランス語はわからないから近くの人に英語で『これ、なんて書いてあるの?』と聞いたら、『チュラムを大統領にしろ!』って書いてあると。楽しかったですね。置き引きもされましたし(笑)」

大会を通じてわずか2失点の堅守を誇ったフランス代表で最終ラインの一角を務めたリリアン・チュラム(左)。写真は決勝で対戦したブラジル代表のロナウドと(Photo: Getty Images)

――それこそ86年にテレビで見て感動したW杯を、実際に生で見た時の感慨は実際にいかがでしたか?

 「別に指導者で行ったわけでも、選手で行ったわけでもなくて、しかも日本戦じゃない試合を見たわけで、そこにはパワー、熱、パッション、フィーバーみたいなものがあって、これを自分の国のチームで感じられたらどうなるんだろうと。

 あとは、あの空間で経験したことがもの凄くのちのちに影響しています。今だったらスマホで簡単にチケットも買えるでしょうけど、自分でいろいろ工夫してチケットを手に入れたりしたことが良かったんでしょうね。何か新しいことをしたりすることで、人とは違う経験ができることを身を持って知れたので、そういうことに対して自分のハードルが低くなったのかもしれませんね。もうちょっと早く行きたかったなあ(笑)」

コーチとして学生と向き合った大学院生の日々

――フランスW杯は26歳になる年ですよね。……

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フランスW杯大宮アルディージャ大槻毅水戸ホーリーホック浦和レッズ

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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