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「『サッカーで生きる』というよりも、『サッカーと生きる』という選択肢はやっぱり教員しかなかった」――ザスパクサツ群馬・大槻毅監督インタビュー(前編)

2023.09.12

“組長”とも称された、Jリーグ史に残るインパクト抜群のビジュアルのイメージで捉えては、この男の本質を見誤る。その実はサッカーと人間が大好きな元・高校教師であり、地道に一歩ずつ自分の進む道を踏み固めて、プロの監督へと辿り着いた努力の人でもある。現在はザスパクサツ群馬を率いて、クラブ初のJ1昇格に堂々と挑んでいる大槻毅が、自らのキャリアを振り返るロングインタビュー。前編ではサッカーを始めた少年時代から、みんなで全国を目指した仙台二高での思い出、教員を志して進学した筑波大での日々までを語ってもらおう。

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最初は父の試合に連れて行かれていたサッカーとの出会い

――まずはサッカーを始めたきっかけから教えてください。

 「ウチは父親がサッカーをやっていたんです。高校のOBチームの取りまとめをやっていて、家では母がいつもユニフォームを洗っていましたよ(笑)。父は若手の時からチームを始めて、30歳以上のチームはまた別に作って、最後はシニアの大会で優勝して、海外に行ったりしていましたね」

――それは仙台市内のチームですか?

 「はい。県工(宮城工業)のOBチームです。だから、庄子(春男)さんとか(鈴木)満さんも父を知っていていただいて、OBで初蹴りがある時には子どもの頃から連れて行かれていました。でも、日曜になると父の試合に行くのが嫌でしょうがなかったです。小さい子はサッカーを見に行っても、やることがないじゃないですか。そんな感じでしたね」

――最初は連れて行かれるのが嫌だった少年が、サッカーを始めるのはどういうところからですか?

 「何だったんでしょうね。僕はもともと中野栄小学校で遠藤康くんや武田英寿と一緒なんですけど、引っ越した先でサッカーを始めたんですよね。最初にキーパーをやらされて、クロスが上がってきたのを手で触ったらゴールに入っちゃって、凄く文句を言われたので『もうキーパーはやらない!』と言ったのは覚えています(笑)。僕は足が速かったから、キーパーをやらなくても良かったはずなんですけどね」

――キーパーに対するトラウマがあるわけですか?(笑)

 「いえ、まったくないです。そういうのはないタイプなので(笑)」

――実際にサッカーを始めてからは、すぐにのめり込んでいきましたか?

 「友だちと一緒に朝からボールを蹴ったり、土曜日にみんな集まって試合をやって、お父さんお母さんがみんな集まって応援してくれる雰囲気の、そういう場が好きでしたね。足が速かったのと、ボールを蹴ったら飛ぶ子だったのは覚えています」

――ポジションはどこだったんですか?

 「ずっと後ろでしたね。普通は前から後ろに下がってくるものですけど、ずっと後ろの方で、昔のスイーパーシステムのスイーパーで、走ってカバーするタイプでした」

――この頃の宮城の高校野球は東北高校や仙台育英高校が強かったと思うんですけど、周囲は野球をやっている子が多かったりしました?

 「野球は僕の周りになかったですね。剣道、バスケ、サッカー、あとは地域柄か夏に対抗でソフトボールをやったり。僕は剣道をやっていました。小学校2年生ぐらいまでやっていて、サッカーを始めたのでできなくなりましたけどね」

――それでもサッカーが一番楽しいスポーツでしたか?

 「何でも楽しかったですよ(笑)。ただ、足が速かったから運動会が大好きで、『運動会早く来ないかなあ』とは思っていました」

Photo: ©THESPA

マラドーナ、ジーコ、プラティニにときめいたメキシコW杯

――中学生時代は地元の中学のサッカー部でプレーしていたんですか?

 「そうです。この頃は大変でした。小学校の時からみんな頑張っていて、僕らの学年は強かったんですけど、3年生が抜けたタイミングで、2年生と1年生で試合をしたら1年生が勝っちゃって、それからずっとボール拾いだったなあ。1年間ボール拾いでした」

――1年間ですか。

 「はい。上級生がいなくなるまでですね。だから、近くの少年団で中学校のチームを持っているところがあったんですけど、そこに中学のサッカー部の同級生と何人かで行って、試合に出させてもらっていました。当時の登録ってどうなっていたんですかね?大会とか普通に出ていましたけど(笑)」

――まあ適当でしょうね(笑)

 「そうですよね。その時には1個下に古河に行った武藤(真一)がいたんですよ。上手かったなあ」

――武藤さんは仙台育英に行ったんですよね。大槻さんの1個下ですか。

 「1個下です。上手でしたね。そのチームの選手はのちのち武藤みたいに仙台育英に行ったり、東北高校に行ったりで、上手な子が多かったんですよね」

――中学生で部活以外にサッカーをやる場所があったのは面白いですね。

 「ラッキーでしたよ。僕の通っていた小学校からは、ウチの中学校と隣の中学校に行く子がいて、そっちの方でやっていたチームだったので、『入れてくれ』と。思い出すといろいろ不思議ですけど、楽しかったことは覚えていますね」

――ちなみに小中学生の頃はサッカーの映像って見ていましたか?

 「やっぱり強烈な印象が残っているのは86年のW杯ですよね。82年も見ていましたけど、たまたまウチの父親の恩師が、宮城のサッカー協会の会長もされていた伊藤孝夫先生で、その方と家が近くて、メキシコW杯に行った時のお土産をもらったんです。その写真集がずっと家にあったんですけど、86年はリアルタイムでずっと見ていて、フランス対ブラジルなんて試合展開から、アナウンサーの方が何を言ったかまで覚えていました(笑)。予選リーグからデンマークが凄くてね」

――ダニッシュ・ダイナマイトですね。猛牛のエルケーアが活躍して。

 「そうそう。プレーベン・エルケーア・ラルセン。凄い顔してドリブルして。もちろん一番はマラドーナなんですけど、アステカスタジアムの光景もそうですし、86年は強烈に印象に残っています。原体験と言うんでしょうかね。だって、マラドーナがいて、プラティニがいて、ジーコがいたじゃないですか。ウルグアイにはフランチェスコリもいて、際立ったヒーローがいっぱいいたんですよね。82年はブラジルにストーリーがあって、それが86年に続いていたり、ジーコがケガして出てきたのに、スルーパスをブランコに通しちゃうんですよ(笑)」

――それでジーコがそのPKを外すんですよね。

 「そうそう。背番号もみんな『オレが何番を付けるんだ!』みたいな(笑)。僕はあまり好きな番号を付けられなかったんだよなあ」

1986年、メキシコW杯R16ポーランド戦に出場したジーコ(中央)(Photo: Getty Images)

――何番が好きだったんですか?

 「4番を付けたかったんですよね。でも、2番が多かったなあ。あとは、みんな14番を付けたがっている中で、僕は16番とかよくわからない番号になって(笑)」

――やっぱり当時も14番は人気があったんですか?

 「子どもとしてはよくわからないですけど、大人が14番を付けたがっていたりするのを見たことがあるので、何となくのイメージで、もうちょっと大きくなったらその意味がわかってくると。クライフをちゃんと映像で見たのは、大人になってからですね。それで言うと、1990年のW杯の予選をBSでやったじゃないですか。アレを見出した時に『ああ、世界のサッカーってこんな感じなんだ』って。ファン・バステンがハーフラインでボールを受けて、タックルをハードルジャンプでかわして、みたいな映像を『ああ、スゲーなあ』と言いながら見ていましたね」

望外の強さだった仙台二高は「何でも自分たちでやる感じ」

――進学された高校は仙台二高で、加藤久さんと鈴木武一さんがOBではありますけど、かなりの進学校だと思うんですね。これは勉強をするために入ったイメージですか?

 「勉強はあまりしない子でしたからね」

――それで入れますか?(笑)

 「入れたんですよね(笑)。私立の強豪だと東北学院があって、ああいうところに憧れていましたよ。選手権にも行けそうですし。ただ、親に迷惑はかけられないなという想いがあって、公立高校に行きました。当時は仙台育英と東北学院が2強で、東北高校がそれに寄っていって、県工が復活してくると。県内ではその4つですよね」

――仙台二高のサッカー部自体にイメージはあったんですか?

 「何もなかったです。合格発表が終わって、インターハイがすぐ始まると思ったので、『サッカー部に行って練習しよう!』と思って行ったら、グラウンドが改修中だったので河原でやっていて、それに混ぜてもらったんです。その日の練習が終わって、『明日も何時から来いよ』と先輩に言われて、次の日のその時間に行ったら、誰もいなかったです(笑)。『誰もいないじゃん!』って。

でも、みんな上手でしたよ。各中学のキャプテンみたいな人たちが来ていて、監督も練習にはそこまで来ないんですけど、入ったら凄く上手な人が多かったので、驚きました。僕らの2個上は石巻商業が強くて、インターハイで対戦した時に前半は1-0で勝っていて、『あれ、これは勝っちゃうぞ』と思っていたら、やっぱり練習していないから走れないんですよね。それで後半に逆転負けして(笑)。でも、まあまあやるチームなんだなと思いましたね」

――じゃあサッカーのレベル的にも「良い学校に入ったな」という感じだったんですね。

 「予想外に、ですね。1年生大会というのがあって、インターハイのための強化の大会で、僕らの頃に初めてやったんですかね。3チームが優勝するトーナメントなんですけど、それで優勝しましたから。望外の強さ、ですよね。何でも自分たちでやる感じでした」

――進学校ゆえに、限られた環境でも集中できるみたいなところがあったんですか?

 「どうなんでしょう。今は変わったかもしれないですけど、当時は『文武一道』という学校の校是があって、それこそ浪人して大学に行く人も多かったんですよね。それも1つの道としてみんなの頭の中にあったような学校でした」

――しかも男子校ですよね。僕も男子校ですけど、メチャメチャ楽しいですよね(笑)

 「はい。メチャメチャ楽しいです(笑)。共学になるって聞いた時に、こんなことを言っちゃ怒られるかもしれないですけど、ちょっと『もったいないな』って。逆に驚いたんですよ。『共学になるんだ。変えるのって簡単だけど、維持する方がよっぽど難しいのにな』って。別に僕は保守的にやろうと思うタイプではないですけど、そういうことって文化だと思うんですよね」

最強・清水商業の“練習”を見に行った宮城インターハイの思い出

――2年生のインターハイで、仙台育英に敗れはしたものの、0-1とかなりの接戦を演じています。

 「ああ、そうか。2年生の時に塩釜高校から監督が移ってこられたんです。それこそ国体の監督をやるような金田(幸夫)先生という、日体大で平(清孝)先生と同期だったような先生がいらっしゃって、ちゃんとやる感じになったんです。ああ、思い出した!1個上の先輩が、予選を抜けてベスト16かベスト8に行った時のことで、『こんなに一生懸命サッカーやってて良かったよ!』と言った瞬間に、『いやいや、いつも練習サボってたじゃないですか!冬休みなんて1回も来なかったじゃないですか!』って言ったのは覚えています(笑)。その方は今も凄く仲が良くて、時々連絡を戴くんですけど、凄く上手な人でした」

――3年生のインターハイは地元の宮城開催で、チームにも手応えを掴みつつあったと思うのですが、地区予選で敗退でした。

 「そうです。地区予選で負けました。覚えていますね。だって、部室の壁に『目指せ!宮城インターハイ!』って書いてありましたから」

――現実的な目標だったわけですね。

 「2回ぐらい“やらかせば”行けるんじゃないかと(笑)。外から見たらそんなレベルではまったくなかったんでしょうけど、やっている方はみんな一生懸命やっていました」

――宮城インターハイの試合は見に行ったんですか?

 「僕は清商(清水商業)の練習を見に行きましたね」

――ああ、そっちですか!

 「メンバーも凄かったじゃないですか。史上最強みたいに言われていて」

――山田(隆裕)、名波(浩)、大岩(剛)……

 「田光(仁重)、薩川(了洋)、西ヶ谷(隆之)、望月(重良)、興津大三みたいな(笑)。多賀城の土のグラウンドに見に行ったら、みんなウインドブレーカーを着てやっていて、『ああ、暑さ対策をやっているんだな』と。それを見て『スゲーな』って。普通は見に行かないですよね(笑)」

――見に行かないでしょうね(笑)。大槻さんが1年生の時の選手権は清商が優勝したわけで、やっぱり『日本一のチームを見に行こう』ということですよね。

 「でも、ウインドブレーカーを着ていることしか覚えていないんだから、『何を見に行ったんだ?』って(笑)」

――実況でおなじみの下田恒幸さんも、仙台放送時代にこのインターハイを取材されたとおっしゃっていました。

 「下田さんは僕が中学生ぐらいの頃に、土曜の午後に洋楽の番組をやっていたんです。Jリーグのキックオフカンファレンスでご本人に『見ていました』と言いましたよ(笑)。だから、僕のイメージの下田さんは、中学生ぐらいの子どもたちが初めて洋楽に触れるきっかけを作ってくれた人ですよ。自分の記憶がどんどん繋がっていくなあ(笑)」

県選抜で挑んだ国体ではワッキーとニアミスしていた!

――3年生の国体には宮城県選抜の選手として出場されています。この大会にはどういう思い出がありますか?

 「宿舎が福岡の西の方の、海沿いの小さな旅館だったんですけど、同宿が長崎だったんです。要は全員国見の選手なんですけど、僕らが起床して、散歩して、朝ごはんだと言っている時に、国見の選手たちは汗だくになって、ボールとコーンを持って帰ってくるわけですよ。『これは勝てねえな』って(笑)。『やっぱりそうなんだな』って。

 僕が浦和ユースの監督をやっていた時に、プレミアの参入戦の相手が長崎総附で、僕らも早い時間のキックオフでちょっと身体を動かしていたら、小嶺(忠敏)先生がいらっしゃって『オレたちの方がちょっと早かったな』って。『何を競っているんだ?』って思いましたよ(笑)。あの時の長崎総附は強かったですね。ああ、国体の話ですよね。国体は千葉に負けたんです。それで順位決定戦に行って、7位だったんじゃないかなあ。でも、ベスト8に入ると推薦で大学に行ける子も出てくるので、みんな喜んでいましたね」

――千葉では尚志高校の監督の仲村浩二さん、ジェフに行ったサンドロさん、あとはワッキーさんも出ていますね。

 「ああ、ワッキーさんもいたんですか!仲村さんはもちろん覚えていますよ。あとはサンドロと、もう1人ブラジル人選手がいましたよね?」

――渋谷幕張のルイスですね。

 「ルイス・ベギニ・ビレラだ!立正大学に行った!左利きのずんぐりむっくりした選手で!」

――さすがにそこまで知らないです(笑)

 「いました。いました」

――大槻さんは5位決定予備戦の兵庫戦だけ出てらっしゃったみたいです。

 「全然覚えてないなあ。基本的に出ていなかったですからね。予選は出してもらっていたんですけど。やっぱり国体にはあの宿舎の、国見のイメージしかないです(笑)」

――国体でレベルの高い選手たちと一緒にプレーしたことは、印象深い経験ではありますか?

 「今は東北学院の監督をやっている橋本俊一くんがキャプテンだったんですけど、彼とは幼馴染みでしたし、半分ぐらいの選手は小学生ぐらいから知っていて、土橋(正樹)くんは清水から来た子でしたけど、昔から知っている選手たちばかりだったんですよね。なんか『選手権まで残っちゃって、国体にも選ばれちゃったけど、センター試験あるしな』みたいな感じだった気がします(笑)。とにかくいつも楽しんでやっていましたね。サッカーの上手い下手、試合に出る出ないはあるけれど、みんなで一緒に何かをやったり、作っていったりする雰囲気が楽しかったのは覚えています」

――仙台二高の3年生は基本的にインターハイで引退するんですね。

 「普通はそうですね。僕らの学年はインターハイが不完全燃焼で終わってしまったので、『もうちょっとやるか』という3年生が何人かいたんです。でも、夏にある選手権の1次予選で仙台育英と同じヤマを引いちゃったから、『ダメだな、こりゃ』と言っていたら、勝っちゃったので(笑)、その後も残ることになったんですよね」

仙台育英を倒し、宮城工業に敗れた最後の選手権

――仙台育英は前年度の選手権で全国ベスト8でしたけど、そこに仙台二高が勝つって結構当時はセンセーショナルだったんじゃないですか?

 「そうでしたね。だって、こっちはシュート1本でしたから。確かシュート数も1対22ぐらいでした。1点獲ってから、ずっと守ってたなあ。いや、1点獲る前からずっと守っていましたね(笑)。それはそうでしょう。相手はみんな推薦で入ってきたような選手たちで。多賀城の、土のグラウンドだったなあ」

――この試合が高校3年間の中では一番ぐらいに嬉しい試合でしたか?

 「そうかなあ。でも、さっきも言ったようにずっと守っていたので、楽しくはなかったですよね(笑)。だいたい高校時代のことって黄金時代なので、いろいろなことを覚えていますけど、後ろは一生懸命守って、守って、前の方の足の速いヤツ頑張れ、みたいな感じでしたね。

 僕は金田先生に凄く感謝していて、いろいろなことを学ばせてもらいましたけど、教えてくれる方ではなかったので、自分たちでいろいろ考えたり、言われていることの意味をずっと考えたりしていました。あとは、東北高校で監督をやられていた大森貞夫先生がコーチで入られていて、それも大きかったですね」

――金田先生に指導を受けたことは、プロの指導者になった今の大槻さんにも影響を与えていますか?

 「サッカーのこともそうだったんですけど、凄くバイタリティのある方で、仙台二高は定期的に海外遠征に行くようになりましたし、僕らがいなくなった後ぐらいに、宮城の優秀な選手が入ってくるようになって、結構強くなったんです。あとは、仙台カップの立ち上げにも関わってらっしゃったんじゃないかなと。そういう方でしたね。何年か前にオランダで仕事をしている方が、『この間、仙台二高が来ましたよ』って言っていましたから。それこそOB会も含めて、そういうことを整備された方で、金田先生に感謝されている方はたくさんいるんじゃないですかね」

――選手権は仙台育英に勝ったものの、1次トーナメントの初戦で宮城県工に1-2で負けています。

 「利府高校の土のグラウンドでした。1-2で負けていた時に1点獲ったんですけど、レフェリーに取り消されてしまったんですよね。そういうゲームでした。それが高校最後の試合でしたね」

――ちょっとレフェリーの判定も含めて、割り切れない幕切れでしたか?

 「いや、そういう感じは全然ないですね。終わったら、終わりというタイプなので(笑)。『悔しいけど、しょうがないな』って。『仲間と一緒にやれるのもこれで最後かあ』とは思いました」

――この高校時代の頃、指導者という未来は頭の中にあったんですか?

 「うーん、『相手がどうなっているのかな?』とか『自分たちがどうやったらうまく行くのかな?』とか、凄く稚拙な思考でしたけど、そういうことは考えていましたね。試合中も『アイツは足が速いから、あっちにボールが行かないようにしようぜ』とか、当たり前の話なんですけど、そういう考え方はあったと思います」

――周囲にそういう考え方を共有できる人はいたんですか?

 「みんな賢いので、会話ができますし、“クロック”が、頭の回転が速いので、1つのことを話すといろいろなことを考える人たちが多くて、それは良かったですね。僕は好き勝手なことを言っているだけでしたけど(笑)」

Photo: ©THESPA

指導者の準備を重ねた筑波大学での4年間

――先ほどセンター試験のお話がありましたが、筑波大学は一般受験されたんですね。

 「はい。普通に受験しました。僕の高校のOBには加藤久さんがいらっしゃいましたけど、日本代表でそのポジションを引き継いだのが筑波時代の井原(正巳)さんだったじゃないですか。その流れが印象的だったことが1つと、これはたぶん僕らの同級生のきっかけとしては多かったと思うんですけど、確かサッカーダイジェストから『筑波大の科学トレーニング』という別雑誌が出ていたんです。そこに井原さんや中山(雅史)さんが朝練でこういうことをやっていてとか、400メートルを何分で何本で走ると、乳酸がこうなって、みたいなものを読んで『へえ~』って(笑)。今は勉強したのでわかることですけど、当時はやっぱり『スゲ~』となるわけですよね。

 そのちょっと前には天皇杯でも躍進していて、『サッカーを続けたいなあ』と思った時に、当時はまだプロもなかったですし、実業団に行くレベルではない中で、『サッカーで生きる』というよりも、『サッカーと生きる』という選択肢はやっぱり教員しかなかったので、それが筑波を選んだ理由としては大きかったです。ただ、そもそも仙台二高から体育学部に進むような人は、僕の周りにはほとんどいなかったですから。僕の2つ上にアメフトとサッカーの方がそれぞれ1人ずついたぐらいで。僕のあとはJリーグで分析コーチをやっていたヤツとかも出てきましたけどね」

――仙台二高から筑波大という選択肢が、そもそもあまりなかったわけですね。

 「いないことはなかったですけど、そんなにメジャーではなかったですね。でも、筑波に行って良かったですよ。凄く良かったです」

――筑波ですから、当然周囲のレベルも相当高かったですよね。

 「はい。『ああ、こんなレベルか。これは何もかも頑張らなきゃな』と思った一方で、『まあ急激に上手くはならないしな』って(笑)」

――衝撃を受けた選手はいましたか?

「ああ、やっぱり(三浦)文丈さんと(藤田)俊哉さんかなあ。でも、服部(浩紀)さんもいたしなあ。凄い人ばっかりですから。大学サッカーも最盛期で、西が丘も満員になる頃でしたし、みんなプロになっていくんですから。レベルは高かったですね」

――大学時代のご自身の立ち位置はどういうものでしたか?

 「僕は4年生になってようやくAチームのメンバーに入ったぐらいです。2年生まで出られる新人戦はユニフォームをもらって、一桁の番号を付けました。一生懸命頑張っていましたし、Aチームにはいさせてもらいましたけど、紅白戦でレギュラー組の相手にいて、というぐらいの選手でした」

――ポジションはどこだったんですか?

 「センターバックです。服部さんとよくマッチアップしていました。凄く勉強になりましたね。とにかくハンドオフの力が凄かったです。大学の時に先輩、同級生、後輩、ああいう人たちと一緒にやれたのは財産ですよ。今もいろいろと勉強させてもらっていますけどね」

――当時は選手をやりながら、もう指導者になるための準備はされていたんですか?

 「大学院に今は協会でフィジカルコーチをされている菅野(淳)さんがいらっしゃったり、韓国から今の日本で言うS級ライセンスのダイレクターをされているような方が勉強しに来たり、上海体育大学からも勉強しに来た方がいらっしゃいましたし、倉田(安治)さんも影山(雅永)さんもいらっしゃって、将来を見据えて勉強しに来ている方とお会いできたんですよね。まだJリーグが始まってすぐぐらいでしたから、将来のことを考える上で、いろいろなことを見聞きする時間は、経験という意味で凄く有意義でした。そこから漠然とですけど、大学院に行くという選択肢が出てきて、結果的に行ったんです。

 海外に行く人もいれば、プロになる人もいれば、教員になる人も、研究者になる人もいて、あとはそういうすべての人たちを森岡(理右)先生が受け入れてらっしゃったんですよね。当時はわからなかったですけど、選手になる人も、指導者になる人も、審判になる人も、地域のサッカーに貢献する人も、そういう人たちがみんなで学ぶような雰囲気があったんですよ。良い学校に行かせてもらったと思っています」

――大槻さんが在学中の関東大学リーグは、2年生から3連覇されているんですね。4年生の時は優勝に貢献された感じですか?

 「いえ、僕は試合には絡めなかったです。出たのは中筑定期戦ぐらいかな(笑)。本当に一生懸命やって、何とか試合に出たいとは思いましたけど、なかなか叶わなかったなあ。4年生の時はレギュラー組の紅白戦の相手として、今は浦和でフィジカルコーチをやっている石栗(建)と一緒にやっていましたね。でも、一生懸命やったので良い想いしかないです。選手としては力がなかったですよ。そういう叶わない部分があったからこそ、『どうやったら試合に出られるか』を考えて、トレーニングを勉強したり、生理学を勉強したら何かいいことがあるんじゃないかとか、栄養学を勉強してみたり、そういうことを学べる場があったので、『なんかちょっとでもヒントに』とか思っていましたけど、もっと純粋にボールを蹴っていれば良かったですね(笑)」

Photo: ©THESPA

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ジーコディエゴ・マラドーナミシェル・プラティニメキシコW杯大槻毅

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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