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【インタビュー】原大智と新井晴樹をクロアチアに連れて来た男。元広島・ダリオ・ダバツが明かす、日本人選手のスカウティング術

2022.10.12

現役時代はサンフレッチェ広島でもプレーしたクロアチア人DFダリオ・ダバツは引退後、イストラやシベニクのスポーツディレクター(SD)として、原大智と新井晴樹の獲得に関わった。「日本」と不思議な縁がある44歳に、現地取材した長束恭行氏がこの2人の移籍エピソードや日本人選手のスカウティング術について直撃した。

サンフレッチェ広島時代、「日本」との出会い


――まずは日本でのキャリアをお聞かせください。

 「2006年から2008年まで私はサンフレッチェ広島に在籍した。温かく迎え入れてくれて本当に嬉しかったよ。広島加入以前はオーストリアリーグのSVリートでプレーし、シュトゥルム・グラーツ監督だったミハイロ・ペトロヴィッチと対戦していたんだ。

 ペトロヴィッチがシュトゥルムを退団する3カ月前に私の獲得を望んでいたものの、シュトゥルムには払える金がなかった。国外移籍をする際の違約金は低めだったけど、国内移籍の場合は高めに設定していたからね。ペトロヴィッチが一度はケルンテンと契約し、それからすぐに広島監督に就任すると、あらためて私の獲得を望んだ。『広島には君が必要だ。Jリーグは非常に優れたリーグだから、君にとっても良いチャンスだと思う』と説明してくれたんだ」


――あなたはペトロヴィッチが広島監督に就任した際、唯一欧州から連れてこられた選手なんですか?

 「そう。彼は私をとても信用してくれた。複数ポジションをこなせることも知っていた。ボランチ、CB、3バックのいずれのポジション、そして左SBと左ウイングバック。跳躍とデュエルに優れた選手を探す中、私を見出してくれたんだ。ペトロヴィッチは私が特に評価する指導者だけにとても嬉しかったよ。彼より優れた監督には出会ったことがない。さらに人物的にも優れているんだ」


――ミハエル・ミキッチも同じことを言ってました。

 「私が退団した翌年にミカはやってきた。そう、ペトロヴィッチと一緒にやることで私は選手として大きく成長した。唯一抱えた大きな問題といえば、左膝の大ケガを負ってしまったことだ(十字靭帯断裂に加えて内側側副靱帯と外側半月板の損傷)。1シーズン目にリーグ残留を果たしたのち、素晴らしいキャンプを経た私は2シーズン目に入った。最初の9試合で私は何度もベストイレブンに選ばれ、チームの出来も本当に良かったんだ。しかし、私が大宮アルディージャ戦で大ケガを負い、ヒサト(佐藤寿人)やゴウヘイ(盛田剛平)、そしてカズ(森崎和幸)かコウジ(森崎浩司)のどちらかもケガをしてしまい……。つまり、ほぼ同時に主力選手を何カ月も失ってしまった。それから広島は低迷し、J2に降格した。

 私の左膝のケガはあまりに酷い状態で、日本のドクターは手術を担当したくなかった。私はクロアチア代表に連絡を入れ、靭帯手術では最高とされるスイス人医師を紹介してもらったんだ。復帰までに8~9カ月を要し、リハビリを懸命に努めた。しかし、早くに復帰したがために膝にトラブルを抱えてしまった。ある時は膝が痛いのに腫れがない。ある時は腫れが出た上に痛みが残る。それには恐怖を感じてしまった!」

クラブハウスでインタビューに答えるダバツ(Photo: Yasuyuki Nagatsuka)


――大きなケガはキャリアで初めてですか?

 「初めてだよ。リートでは1シーズンで35~36試合に出場したし、ドイツでも多くの試合をこなしてきた。高熱で試合に出られないことはあったけど、身体は常に丈夫だったんだ。今になっては信じられないだろう?(笑)

 3シーズン目に復帰したものの、開幕間近のトレーニング中、ヘディングでボールを跳ね返す際にジャンプをしたら、下に選手が潜り込んで転倒。今度は左腕を酷く痛めてしまった。チームドクターに尋ねると『手術はいらないが、全治6週間でギブスが必要だ』と言われた。それで私はエージェントに連絡し、スポーツディレクターの織田(秀和)さんに契約解消を求めた。それまでケガで長く欠場した上、さらに2カ月休むことは私にとって気分の良いものではなかったからね」


――日本では運に恵まれなかったんですね。

 「それでも日本で多くのことを学んだよ! 試合では誠実なプレーを心がけたし、契約解消もクラブ側ではなく自分側の損失を認めた上でのものだった。それにはクラブ側も驚いたと思う。その後はクロアチアに戻って治療を続け、8月の終わりにクロアチアリーグのリエカに入団したんだ」


――広島とのチームメイトの関係はどうでしたか?

 「広島には若い選手がたくさんいた。ヨウジロウ(高萩洋次郎)、マキノ(槙野智章)、モリワキ(森脇良太)、ヨウスケ(柏木陽介)、アオヤマ(青山敏弘)……。印象的な選手の名前を挙げるとすればカズとコウジ、そしてヒサトとゴウヘイ。あとGKの名前が出てこない。モジ?」


――下田(崇)のことですか?

 「シモダ! シモ、シモ! 誰もが素晴らしい仲間だった。ベテランにはトダ(戸田和幸)もいたが、それ以上の名前は覚えていない。そういえばブラジル人のウェズレイともプレーしたね。チームメイト全員が私に心地良く思ってもらえるよう努めてくれたんだ。本当に楽しかったよ」


――広島のサポーターはどうでしたか? クロアチアとは随分と異なりますが。

 「そう、大きな違いがあるね。語りたいエピソードが1つある。スポンサーのマツダから車を提供されていたんだけど、ヘッドライトが壊れたのでマツダのディーラーを訪れ、通訳に『ヘッドライトだけ交換してほしい』と言ってもらったんだ。すると、彼らは『これからライトのスペシャリストがやってきますので少しお待ちください』と丁寧に返してくれた。クロアチアでディーラーに行ったら、有無を言わさずにすぐ交換してしまうのにね(笑)」


――ははは(笑)。

 「日本人は優れた製品を作り出せる国民だ。それだけに観客として試合に訪れると、彼らはサッカー選手の仕事をしっかりと評価した上でクラブを応援する。ドイツでプレーしていた頃は最後まで走って戦うことが必要とされ、私にとってはやりやすい環境だったけど、日本もまったく同じだった。サッカーの結果には勝利と敗北と引き分けの3つしかない。その中でサポーターが唯一目にしたいものは、全力を出す選手たちの姿なんだ。それこそが大切だ。

 広島は2007年の結果を受けてJ2に降格したわけだけど、サポーターの誰一人も汚い言葉を口にせず、それが私たちへの刺激になった。当時の広島はまだ若いチームで、振り返ってみれば降格の経験が必要だったのかもしれないね。そして私たち全員がチームに残留し、翌シーズンにはJ2を制覇。すぐにJ1に戻ってきた。そして2012年には初のJ1王者になった」

ケガに悩まされた広島では2年間で公式戦21試合出場に留まった。のちのリエカでは1シーズンで公式戦23試合に出場している(Photo: Yasuyuki Nagatsuka)


――その後のあなたはクウェートや中国でもプレーしましたよね。

 「リエカで1年間プレーしたのち、私はクウェートで1年間プレーし(アル・アラビ・クウェート)、それを最後に引退しようと思っていたんだ。そうしたら1人の友人から『中国に行きたくないか?』と連絡があった。なぜ『ノー』と言えるんだい? 中国では2年間プレーし、キャプテンも務めた(重慶力帆と瀋陽瀋北)。レベルは日本よりも低く、私自身も再びケガをしてしまったとはいえ、中国も良かったから不平不満はないよ」

なぜ、原大智と新井晴樹を見出せたのか?


――あなたが歩んできた選手キャリアは現在の仕事に影響はありますか?

 「もちろん。君が知っているように私はイストラで原大智を、シベニクで新井晴樹を連れてきた。つまり、日本人選手が何をやれるかを私は知っているし、Jリーグは最高のリーグの1つであることを知っている。Jリーグで戦うには150%の力を出さなければならないことを経験を踏まえた上で知っているんだ。

 『簡単だ』と言うつもりはないけど、Jリーグでどの選手が優れていて、誰がクロアチアで助っ人になれるかを見極めることは私にとって単純明快だ。唯一の問題を挙げるとしたら……もしそれを『問題』と言うのならば、イストラもシベニクも使える予算が少ない点。クオリティの高い日本人選手を望むならば、それなりのお金が必要だ。言いたいことはわかるかね?」


――はい、わかります。

 「『欧州でやりたい』『欧州で何かを成し遂げたい』という願望がある日本人選手を私は探さなければならない。あるいはJリーグのトップチームには定着しないものの、それに近い選手を狙っている。新井の獲得に関しては素晴らしい仕事をやれたと思っている。原の獲得に際しては親会社のアラベスが私を祝福してくれた。のちに彼はシント=トロイデンを経てアラベスに加入し、9月の試合(ルーゴ戦)では初ゴールを挙げている」


――あなたがプレー映像を逐一チェックしているのですか?

 「そう。セレッソ大阪での新井の映像を見て、彼がどんなプレーをするか、何をやれるかをチェックした。私は彼の内側にある巨大なエネルギーを見出したんだ。もし日本で速い選手ならば、ここでは一層速い選手であるはずだ。そうだろう? あのスピードがあればここでもチャンスはあると思ったし、左右どちらもこなせる点も気に入った。シーズンを通して複数のポジションをプレーできる選手を欲していたからね。新井を発掘できたことは本当にハッピーだよ」


――どうやって新井を見つけたのですか?
……

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HNKシベニクNKイストラダリオ・ダバツマルチクラブ・オーナーシップ原大智新井晴樹移籍経営

Profile

長束 恭行

1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。近著に『もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚』(小社刊)。

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