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「それでも私は、ベガルタ仙台を諦めない」。ある女性が辿った偶然と必然の16年間

2022.04.04

あなたはJリーグとの出会いを、明確に覚えているだろうか。スタジアムで、テレビで、あるいはまた違う何かを介して、日本に生まれたプロサッカーリーグと接点を持ち、気付けばその世界にどっぷりとハマっていた、という人は少なくないだろう。彼女にとって、それはラジオだった。しかもまったく縁のなかったJリーガーが始める、トーク番組のアシスタントという立ち位置で。ところが、以降の人生は大きく変化していく。このチームに、このチームの選手たちに、そしてこのチームを取り巻くあらゆる環境に魅入られた女性は、すでに16年の時をベガルタ仙台とともに歩んでいる。村林いづみ。ピッチリポーターとして唯一無二の存在感を放っている彼女に、そのベガルタと辿ってきた短くない時間を、大いなる熱量で語ってもらおう。

「仙台スタジアムにはフーリガンがいる」と本気で思っていた

 仕事で出会う方と名刺交換をする。「初めまして」の挨拶の後に、必ずと言っていいほど、聞かれる質問がある。

 「もともとサッカーが好きだったのですか?」

 「ベガルタ仙台のサポーターだったのですか?」

 「サッカー関連の仕事を目指していたのですか?」

 回答はすべて「ノー」 である。答えるのが申し訳ないくらい、どれ一つ当てはまるものがない。実は“成り行き任せ”でここまで来てしまった人生。まさかベガルタ仙台との付き合いがここまで長く続くとは思ってもみなかった。

 もともと放送の仕事を志望していて、アルバイトでテレビ局やラジオ局に出入りするような大学生だった。生放送番組のADをしたり、オーディションを受けてラジオの音楽番組のパーソナリティーも経験させてもらった。放送局で報道スポーツ部のフロア近くをドタバタ駆け回っていたが、「2001年のベガルタ仙台初のJ1昇格」はニュースで知ったと記憶している。「へー、そうなんだ」。遠い世界の出来事、他人事だった。

 そんな私が、縁あってベガルタ仙台の試合中継でピッチリポーターを務め、今年16年目を迎えた。仕事でサッカーに関わるまでは一度もスタジアムに足を踏み入れたことはなく、「仙台スタジアムにはフーリガンがいる」と本気で思っていた。あれだけ盛り上がっているのだから、発煙筒だって焚かれているはずだ。そんな危険な場所に行ってはいけないと信じていた。もしかしたら、一生交わることのない道だったかもしれない。

佐藤寿人との“ロボット漫才”がすべてのきっかけだった

 きっかけはいつも不意にやってくるもの。サッカー界への扉は、ある日突然目の前に現れた。それは知り合いのディレクターからもたらされた「Datefm(FM仙台)でサッカー選手のトーク番組のアシスタントを募集しているらしい」とのオーディション情報だった。少し前に別の担当番組が終了すると決まっていた、ジリ貧のパーソナリティーは焦っていた。そして思わずその情報に飛びついた。「そのサッカー選手」が誰かも知らないままに。軽い気持ちで受けたオーディションにまさかの“合格”の知らせ。こうして人生の歯車が思わぬ方向に動き出した。

 「その選手」とは、何を隠そう佐藤寿人さん。後に日本を代表するストライカーになる男だった。この番組が始まった時、彼は22歳。ベガルタ仙台で2年目のシーズンを迎えていた。当時はまだフリートークに慣れていない初々しい佐藤さんと、サッカーのことがまったくわからないアシスタント。最初はかみ合わない“ロボット漫才”のような掛け合いから始まり、徐々にお互いの呼吸が合ってきて、番組は1年ほど続いた。(最終回にはサプライズゲストとして双子の佐藤勇人さんが出演してくれたのも良い思い出)。

 昨年、佐藤さんはYBCルヴァンカップの解説者として仙台に来てくれた。試合中継で約17年ぶりに共演し、当時お世話になったことのお礼や、サッカー界へ招き入れてくれた感謝をお伝えすると「え?そうでしたっけ?」と佐藤さんは驚いていた。恩人は、誰かの人生のターニングポイントを作ったとは微塵も思っていなかったようだ。しかしこの番組がきっかけとなって、私はクラブや放送の関係者に知ってもらい、ベガルタ関連の仕事をいただくようになった。

村林ピッチリポーターにサッカー界への扉を開いた佐藤。写真は2013年に開催された「東日本大震災復興支援 2013Jリーグスペシャルマッチ」 より

 そして2007年にはスカパー!でJ1・J2全試合の生中継が始まり、「ピッチリポーター」の仕事をいただいた。2007年3月、右も左も“アディショナルタイム”もわからぬままユアテックスタジアム仙台のピッチサイドに立った。そうして気づいたらマスコットキャラクターのベガッ太さんに顔面めがけてクリームパイを投げつけられる、肩にカブトムシを乗せられる等、数々のいたずらをガチの“打ち合わせ・リハーサルなし”で仕掛けられるようになったのである。「ハーフタイムの夫婦漫才」、「ベガッ太さんの相方」として、ベガルタサポーター以外のJリーグファンの方に認知していただき、仕事は圧倒的にやりやすくなったのだった(なお、ベガッ太さんにどんな狙いがあったのかは今でも明らかになっていない)。

大先輩・日々野真理さんから教わったこと

 このくらい書いたら、もうおわかりだろう。いかに私の運が強く、かつ「圧倒的なポジショニングの良さ」で仕事を続けてきたか、ということが。当時、仙台ではフリーランスの立場でサッカーに関わる女性は少なかった。スケジュールにゆとりがあり、機動力に優れていたフリーアナウンサーは中継、イベント、トークショーとことあるごとに声をかけてもらった。

 傍から見ると、順調そうな人生。でもすべてがうまくいくわけでもなかった。実際にJリーグの現場に入って、多くの場面で勉強不足、力不足を感じた。もともとサッカーを競技者として経験したこともないし、何よりもサッカーが好きという圧倒的な熱量を持ってこの世界に入ったわけでもない。運だけが頼みのリポーター、しかしその運がとにかく強かった。ベガルタ仙台初代監督の鈴木武一さんはこう言ってくれた。「サッカー好きに悪い奴はいない」と。その言葉の通り、どのシーンでもなぜか、支え、励まし、導いてくれる方が現れた。……

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Profile

村林 いづみ

フリーアナウンサー、ライター。2007年よりスカパー!やDAZNでベガルタ仙台を中心に試合中継のピッチリポーターを務める。ベガルタ仙台の節目にはだいたいピッチサイドで涙ぐみ、祝杯と勝利のヒーローインタビューを何よりも楽しみに生きる。かつてスカパー!で好評を博した「ベガッ太さんとの夫婦漫才」をどこかで復活させたいと画策している。

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