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努力と奇跡でこじ開けたプロサッカー選手への扉。ジュビロ磐田・三浦龍輝という生き方(前編)

2022.02.18

J2優勝とJ1昇格を味わった2021年シーズンのジュビロ磐田。その成果の一翼を“左投げ、右蹴り”の守護神が担ったことに、異論はないだろう。だが、開幕前にこの男がその立ち位置に収まることを予想した人が、どれだけいただろうか。一度は就職を決意しながらもラストチャンスでプロへの扉をこじ開け、短くない雌伏の時を過ごした29歳は今、改めてサッカーへの情熱を滾らせている。

三浦龍輝という生き方を紐解くインタビュー前編は、キーパーを始めたきっかけや奇跡と偶然が重なった“1日だけ”のプロ練習参加など、学生時代を中心に語ってもらった。

ドリブル練習に励むゴールキーパー


――今回はキャリアのお話を伺いたいのですが、まずお聞きしたいことがあります。三浦選手は右利きですか?左利きですか?

 「右利きですかね。どうなんだろう……。足は右です」


――試合でスローイングする時は、左手で投げることが多いですよね?

 「上投げは左なんですけど、下投げは両方できますね。とっさに出るのは左なのかなあ。文字を書くのは右ですし、お箸も右です。もともとは左利きだったのを、右に直してもらったんですよね。あとはユース時代に肩をケガして、そこから右で投げるよりも、左の方が違和感なく投げられたことが大きいかなとは思いますね。まあ使い分けているということで(笑)」


――サッカーを始められたのは6歳ですね。

 「はい。最初はMGサッカークラブという地元の小学校の少年団チームでやっていて、小学校4年生ぐらいで、子供なりに『もう少しちゃんとサッカーしたいな』と思って、町田の中で強かった町田JFCに移った形です」


――その頃はまだフィールドプレーヤーだったんですよね?

 「5年生が終わる頃まではフィールドをやっていました。基本的には前めのポジションが多かったですね」


――どんなタイプの選手だったんですか?

 「攻めることばっかりやっていたかなあ。点取り屋ではなかったですね。点取り屋になり切れない選手、みたいな(笑)」


――町田JFCはドリブルに特徴のあるチームですよね?

 「小学校の時はそれほどドリブルの練習は多くなくて、楽しくやる方が強かったんですけど、中学校に入ってからはドリブル練習ばかりやっていましたね。キーパーになってからもいわゆる“キーパー練習”はやったことがなくて、月に1回あるようなトレセン活動が唯一のキーパー練習をする場だったので、そこは貴重な時間でした。今となってはあの頃に足下の技術を磨けたのが大きかったと思います」


――中学生時代はキーパー練習と同じくらい、ドリブルの練習もしていたんですね。

 「そうでしたね。もともとキーパーを始めた理由は、夏場の練習がキツ過ぎたからだったんですよ。そう考えると、ちょっと選択ミスだったなと。『せっかくキーパーになったのに、フィールドの練習するのか』って(笑)」


――先ほどおっしゃっていましたが、キーパーになったのは小学校5年生からなんですね。

 「5年生の頃は両方やっていました。公式戦ではキーパーをやって、練習や練習試合はフィールドで出ていました」


――夏場の練習がキツ過ぎるからとはおっしゃいましたが、キーパーに転向した理由はそれだけではないですよね?(笑)

 「それが半分くらいを占めていて、あとは人と違ったことをするのが好きだったというのはあると思います」


――キーパーで誰か憧れていた選手がいたんですか?

 「いえ、まったくいなかったです。サッカーを見ることもあまりなかったですし、小学生の頃は目標とする選手もいなかったですね」

中学校3年生でU-15日本代表へ選出


――そんな理由でキーパーを始めながら、中学校3年生の時はU-15日本代表に選ばれていたと思いますが、もうキーパーはずっと楽しかったんですか?

 「楽しかったです。運良くトレセンや代表に入れたことで、余計楽しさややりがいも増していったので、キーパーにハマっていった感じですね。小学校の最後や中学校の頃はそんなにキーパー練習もしていなかったですし、そこまで辛さは知らずにやっていました」


――トレセンや代表に選ばれることで、上を目指す気持ちは湧いてきましたか?

 「はい。その頃にここから先はキーパーで行くか、フィールドをやるかという選択肢の中で、『キーパーで行こう』という気持ちが固まっていきましたね」


――今でも試合中に、急にドリブルをしたくなったりしますか?(笑)

 「いえ、それはないです(笑)。それよりも、ワンタッチのパスで相手を剥がしてとか、そういう部分に魅力を感じています。相手が来てもそんなにあたふたしないというか、慌てないようにはなったと思います。中学生ぐらいの頃はキャッチして、そこからドリブルしたりもしていたんですけど、ミスを繰り返して、徐々に『こういう時は危ないな』と、そういう感覚を掴んでいった感じですね」

足下の高い技術も持ち味とする三浦。その秘密は中学時代の試行錯誤にあった


――三浦選手の代の世代別代表は、今のJリーガーもかなり出ていると思いますが、特にインパクトのあった選手は誰でしたか?

 「やっぱり宇佐美(貴史・ガンバ大阪)とか杉本健勇(ジュビロ磐田)は凄いなと思いました。あとは、土居聖真(鹿島アントラーズ)も凄く上手かったですね」


――やっぱり真っ先に挙がるのは宇佐美選手なんですね。

 「もちろん技術も凄いんですけど、メンタルの強さが凄いなと。物怖じしない感じは見習いたいなと思っていました」


――代表で考えると、U-16のアジア選手権はケガで辞退されましたが、あの出来事はご自身でもターニングポイントだったなと感じていますか?

 「今年で30歳になりますけど、今までで一番悔しかったです。プロを目指す上で絶対に入っておきたかった代表でしたし、確か大会へ出発する3日前ぐらいにケガをしたんですよ。肩を脱臼して、すぐ治るとは言われていたものの、もうプレーできる気がしなくて、そのまま手術をしたので、そこで『ああ、終わったな』という感じはしましたね。結局は高校2年生の終わりまで復帰できずに、本当に丸1年ぐらいサッカーをやっていないんですよ。一度は復帰したんですけど、肩がうまく上がらなかったりして、なかなか練習にはちゃんと復帰できなくて、だいぶ時間がかかってしまいました」


――高校生で、FC東京の下部組織にいながら、1年間ぐらいサッカーができないというのはなかなか厳しい時間ですよね。

 「厳しかったですけど、そこで次の目標に向かって頑張る気持ちももちろんあったと思いますし、違うことも楽しんでいたような感じはありました(笑)。リハビリはずっと頑張っていた中で、そこで確実に大学へ行こうかなという想いが入ってきて、高校3年生に上がる時にはある程度自分で『この大学に行きたい』という候補を出して、伝えてはいましたね」


――楽しんでいた「違うこと」を具体的に教えてもらえますか?

 「高校が楽しかったので、高校の友達とくだらないことをしていたのは覚えていますし、そういうことがちょっとした息抜きになって、長いリハビリ生活を頑張れたのかなとは思っています」


――なかなかサッカーから離れる時期もなかったでしょうから、逆にそういう時間が楽しかったんでしょうね。

 「そうですね。友達と遊びに行った帰りに『ああ、もっと頑張らなきゃな』と思って、また次の1週間もリハビリを頑張っていましたね」

FC東京U-18で過ごした大切な3年間


――そもそもFC東京U-18へと加入した理由はどういったものだったんですか?

 「まずは中学に進学する時に、Jリーグのクラブのジュニアユースへ行くか、町田JFCのジュニアユースに上がるかで迷ったんですけど、町田JFCには仲の良かった友達も多かったですし、チーム自体が長い間全国大会に出ていなくて、『何とかこのメンバーで全国大会に行きたいな』という想いが凄く強かったので、そのまま残って中学校の3年間を過ごしたんです。

 今度は高校のチームを決める時に、年代別代表にも入っていましたし、高卒でプロになるために一番の近道を考えて、『Jリーグのチームのユースに行きたい』と思って、高体連の選択肢がまずなくなりました。その次に『どこのユースチームにしようかな』と思った時に、まず寮に入りたかったんですよね。いろいろな誘惑がある環境よりは、もうそういうところに入りたいという想いと、家を出て自立したい想いも強くて、いろいろなチームを当たっていく中で、トップと隣のグラウンドでユースが活動しているチームがあまりないことに気付いたんです。そういう面でも惹かれましたし、施設も良かったので、FC東京に決めました」


――オファー自体は結構ありましたよね?

 「あったとは思いますけど、FC東京が上位に入っていたので、『オファーが来たからそこにしよう』という感じだった気がします」


――三浦選手の代のU-18は、武藤嘉紀選手(ヴィッセル神戸)を筆頭にかなりの粒ぞろいだったと思いますが、そういう選手たちと一緒にやれることも決め手の1つでしたか?

 「いや、もう誰が来るとかは関係なかったですね。強いチームに行きたい気持ちはありましたけど、試合に出られなければ意味がないですし、それよりは環境が良くて、自分が上手くなれる場所、強くなれる場所に行きたかったので、その時は親も『こういう条件がいいんじゃない?』ということを提示してくれて、一緒に決めました」


――U-18に入った時のGKには、2つ上に井上亮太選手(FC神楽しまね)がいて、1つ上に守山健二選手(元Y.S.C.C.横浜)と崔創喜選手、同期に石田昇平選手と相当レベルが高かったと思いますが、そのあたりはいかがでしたか?

 「凄くレベルが高かったです。中3から高1に上がった時の高3の選手は凄くレベルが高く感じましたし、『ああ、これは出られないな』と思いながらやっていました。亮ちん(井上亮太)やトップにいた権田(修一・清水エスパルス)くんの真似もしながら、探り探りやっていた1年間でしたね。亮ちんは凄く仲良くしてくれました。練習に付いていくので精一杯でしたけど、『ここでスタメンを張っていけるようになれたら、自分が成長したということだな』と考えていました」

三浦が参考にしていたという権田。同じFC東京のユース出身で、弱冠20歳にしてトップチームの守護神を任されていた(写真は2010年)


――高校3年生の1年間は、高円宮杯全日本ユースとJユースカップでともに全国準優勝を経験されていますが、今までのキャリアの中で考えても印象に残る時間でしたか?

 「そうですね。学生時代では一番印象に残っていますし、プレーも若くて、考え方も若かったなとは思います(笑)。『勢い任せだったなあ』って」


――2回の全国準優勝というのは素晴らしい結果ですけど、なかなかできない経験ですよね。

 「その当時は2年前も3年前も、U-18の成績が凄く良かったじゃないですか。だから、僕らはタイトルを獲っていないことで“谷間”だと言われていて、『僕らの代は強くなかったんですよね』とは口にしていたものの、今から考えればそんなに恥じるような1年ではなかったと思います。プリンスリーグ関東は優勝しましたけど、あの頃は『プリンスなんて優勝して当たり前でしょ』って言われていたので、『タイトル獲れなかったなあ』ってみんなで話していましたね」


――もうプリンスリーグはタイトルという捉え方じゃなかったんですね。

 「そうですね。勝って当たり前という感じでやっていました」


――全日本ユース決勝のサンフレッチェ広島ユース戦は、負けている終盤に上がってきた三浦選手がヘディングしていたのが印象深いです。あれは気持ちの入ったプレーでしたね。

 「あの時は気持ち入っていたなあ(笑)。決勝はメチャメチャ覚えていますよ。ゴールを決められたシーンも覚えていますし、前半にシュートを止めたシーンも、最後に上がっていったシーンも、全部覚えていますね」


――今となっては良い思い出ですか?

 「負けたから悔いは残りますけど、逆に勝った試合はあまり覚えていないので、ああいうゲームができたことは凄く良い経験になりましたし、良い思い出になっています」


――Jユースカップ決勝の横浜F・マリノスユース戦は、延長で3-4という凄まじい試合で、僕も本当に印象に残っています。

 「あの時は小野裕二(サガン鳥栖)がもうF・マリノスのトップチームで試合に出ていたんですよ。それで、僕らは『裕二が来ないからチャンスじゃん』って話していたら、当日に裕二がいて『どういうこと?』って(笑)。それでやられましたね」

何度も突き付けられた“2位”の壁。なかなか届かなかった日本一。


――先ほどおっしゃっていましたが、高校3年生の時にはもう進路として明確に大学を考えていたんですね。

 「はい。最初は早稲田に行きたかったんですけど、早稲田はスポーツ推薦の枠が1つしかなくて、それが決まるのは冬ぐらいだと言われたんです。その1枠をキーパーに使うかどうかはまだわからないと聞かされて、そこに絞っていくと他の大学がどんどん決まってしまって、進路の選択肢が少なくなると思って、明治に決めました。でも、結果的に早稲田はキーパーで1枠を使ったんですよね」


――松澤香輝選手(徳島ヴォルティス)ですね。それを聞いて、あるいは自分もその1枠に入れたのになあという気持ちもあったのでしょうか?

 「それは全然わからないですけど、可能性はあったんじゃないかなとは思いますよね。結構FC東京から早稲田に行っている人も多かったんですよ。畑尾(大翔・ザスパクサツ群馬)くん、中野遼太郎くんと何人かいましたし、僕の同期のチョンチ(秋岡活哉)も早稲田学院から大学に上がったりしていたので、一応ラインはあったんですよね」


――とはいえ、明治も素晴らしい大学ですよね。

 「卒業して思うのは、明治ではサッカー以外の部分で鍛えられたことが多くて、そういう面で『本当に行って良かったな』と。今の在学生のみんなにも、キツい部分だけじゃなくて、『こういう大事なことがあるんだよ』ということを味わってほしいなと思いますね。今はこういう社会状況で大変な時期ですけど、そういうところは変えずにやってほしいです」


――明治で鍛えられた具体的な部分は、どういうものですか?

 「明治に入った以上は一応学生なので、いわゆる“学生らしさ”だったり、社会に出た時に役立つものの大事さを知ることも含めて、鍛えられましたね」

自身が大学時代を過ごした寮の様子を伝える三浦


――神川明彦監督(現・スフィーダ世田谷FC監督)の影響も大きいですよね。

 「はい。練習は本当にキツかったですけど、本当に良い監督だと思います。凄く良い人でした」


――時期的に言うと、ちょうど専修大学の関東リーグ4連覇と丸々重なった大学の4年間でしたね。

 「専修は強かったですね。本当に強かった。僕が4年生の時は、明治も『優勝できるかも』というところまでは行ったんですけど、やっぱり専修には力強さがありました」


――4年間でリーグ戦の2位が3回という結果に関してはいかがですか?

 「『またか』って感じですよね。高校から考えても、たぶん4、5回は2位になっているんですよ。悔しかったなあ」


――1年生のインカレと3年生の総理大臣杯も全国準優勝でした。

 「ああ、そうですよね。本当に詰めが甘いんですよ(笑)」


――この頃は「なかなか優勝に届かないな」という感覚はあったんですか?

 「そういう感覚はなかったですけど、『もう1回やれば絶対勝てるのに』という試合が多かったですね。高校の時も『何でマリノスに負けるんだろう?』って思っていましたし、大学の時も『何でこんなところで負けるんだろう?』と感じることが本当に多かったです」


――その理由は見つかっていたんですか?

 「詰めの甘さです(笑)。でも、本当にそういうところだと思いますね」

“1日だけ”の練習参加でプロサッカー選手を勝ち獲る奇跡


――大学4年生の時はJクラブの練習にも参加されていたんですか?

 「参加しました。2、3チームには行きましたね。手応えもありましたし、『自分がいればもっとチームが良くなるんじゃないかな』とも考えていましたけど、一切J1のクラブからは声がかからなかったんです。練習もJ2にしか行っていなかったので、大学の時もそれなりに高いレベルでやっていたこともあって、『入れないわけないでしょ』と思っていた中で、自分の自己分析の甘さは結果的に感じましたね。『周囲の評価とギャップがあるんだな』って」


――もともと4年生の時に就職活動はされていたんですか?

 「僕はキャプテンをやっていたので、1年遅らせて就活をする予定だったんです。サッカー部の活動が終わって、年が明けてから、内定の出たチームメイトに自己分析のやり方も教えてもらって、企業もいろいろと調べて、『こういう会社が面白そうだな』というような選択肢は出していたところで、柏レイソルから練習参加の話が来たんですよね」


――柏からの話が来たのは4年生の2月ですよね。その直前には「もう就職しよう」と思っていたわけですか?

 「そうです。そう思っていました」


――その状況で、よく練習参加のオファーが来ましたね。

 「奇跡です(笑)。本当に奇跡でした。キャンプで柏のキーパーにケガ人が出て、その選手のケガが結構長引くかもしれないと。そのシーズンの柏はACLもあって、人が足りなくなる可能性があったので、『ちょっとだけ練習に参加してほしい』という話が来たんです。最初はキャンプが終わってから練習参加するはずだったんですけど、1週間ぐらい経ったら『ケガした選手、治ったんだよね』と連絡があって(笑)。『じゃあもう必要ないですね』と言ったら、『もう声をかけたので、1日だけ来てほしい』と。それで1日だけ練習に参加したら、そこで入団が決まりました」


――そんなことがあるんですね。

 「僕も良くわからなかったですし、当時の明治の栗田(大輔)監督も『そんなことあるのか?』っていう感じでしたね。運が良かったです」


――ご自身の中では、もう就職活動に舵を切っていたわけですよね?

 「リクルートスーツも買いましたし、パソコンも買っていました(笑)」


――その“1日だけ”の練習に向かう時の心境は覚えていますか?

 「その時は逆に開き直っていて、『今日が終わればやっと楽になるな』という感じでした。そこまでが自分としてはメチャメチャ大変で、練習参加が決まってから2週間ぐらいは大学の練習にも入らせてもらっていて、そういう中で『ようやく辛い時期も今日で終わるな』って。『最後だと思って頑張ろう』と」


――でも、それはプロサッカー選手を自分で勝ち獲った感覚があったんじゃないですか?

 「ずっと小学生の頃から話をしてきましたけど、結果的に全部繋がっているかなと思うんです。柏に入れたのも、あの時の吉田達磨監督がビルドアップを重視していて、キーパーにそれをできる菅野(孝憲・北海道コンサドーレ札幌)さんがいて、GKコーチに松本拓也さん(現・大宮アルディージャGKコーチ)というメチャメチャ変わった練習をする人がいて、本当にボールを繋ぐところやキーパーの止めるスキルも含めて、小学校からやってきたすべてのことがマッチした感じがあったので、『ツイているな』と。もちろん自分でやってきたことではあるんですけど、それだけでは絶対に叶わなかったですし、それまでの環境も含めて、『ちゃんとやってきて良かったな』と思いましたね」


――松本さんは素晴らしいGKコーチですよね。

 「本当に変わった練習もしますし、情熱を持って練習メニューを考えながらやってくれる人なので、あの1年間でかなり成長した感じはありました」


――そうすると実際にプロの世界に足を踏み入れた柏での1年間は、公式戦には出られなかったとはいえ、自分の中でも成長を感じられた時間だったんですね。

 「そう思いますし、あのシーズンに試合に出られなかったことで、『自分の自信を落とさずに済んで良かったな』と今は感じますね。あの状況で試合に出ても絶対に通用しなかったですし、それよりもJ3の長野に行って、ジュビロに移籍して、天皇杯に出て、という段階を踏んで、1つずつ自信を付けていけたことが良かったなとは思います。もちろん柏にいた時も試合に出たかったですし、試合に出るための努力はしていましたけど、試合に出られるような状況も、そのためのスキルもなかったので、ああいう時に“事故的”に使ってもらって、変に自信を持つよりも、その後に段階を踏むことができて、本当に良かったなと」


――それは今だから思えることでしょうか?

 「絶対にそうですね。その時は試合に出たくてたまらなかったですし、本当にメンバーに入りたいと思っていました」

磐田で待望のJ1デビューを果たした2018シーズンの第2節、名古屋グランパス戦で三浦が見せたファインセーブ

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Photos: ⒸJUBILO IWATA

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Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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