4季率いた名古屋へ送るエールは「挙党体制で」。“勝てるサッカー”の再定義に挑んだ長谷川健太監督の飽くなき探求心
【特集】去り行く監督たちのポリシー#1
2025シーズンのJリーグも終わり、惜しまれつつチームから去っていく監督たちがいる。長期政権を築き上げた者、サイクルの終わりを迎えた者……賛否両論ある去り行く指揮官たちのポリシーをめぐる功罪を、彼らの挑戦を見守ってきた番記者が振り返る。
第1回は、2022シーズンから4季にわたって名古屋グランパスを率いた長谷川健太監督。3年目にはルヴァンカップ制覇をもたらしたように、“勝てるサッカー”の再定義に挑んだその飽くなき探求心を、今井雄一朗記者に振り返ってもらった。
アルゼンチン代表、スキッベ広島、ローマも研究した3バック挑戦記
2つの“転換期”が重なった、酸いも甘いも嚙み分ける4年間だった。それは言い換えれば、試行錯誤とチャレンジの日々だ。前任のマッシモ・フィッカデンティ監督の下、クラブ初のルヴァンカップのタイトルを奪い、さあ次はというところで迎えた優勝監督の契約満了。そして様々な驚きをもって受け止められたリリースの15分後に訪れた「長谷川健太氏トップチーム監督就任のお知らせ」。幅広い意味での「これだけたくさんのお客さんが来てくれるので、より魅力的なサッカーは展開したい」(山口素弘GM/2021年末)という願いのこもった長谷川体制は、指揮官の新たなトライによってそれを為そうという研鑽の物語でもあった。
「もう一度自分の中で“勝てるサッカー”っていう部分を模索しなきゃいけない時期ではあった」。長谷川監督は名古屋グランパスでの最終試合を前に、秘めたる想いを口にした。名古屋に来た時点で通算218勝を誇る常勝監督は、それでもまだ勝利への貪欲さを失わないどころか加速させていたわけだ。その“模索”つまりアップデートとして最も特徴的に表れたのが3バックへの挑戦で、本人は聞かれるたび「やったことはある」と言い張ったが、例えば前職のFC東京の記者たちからは「ほとんど記憶がない」という言葉をよく聞いた。今にして思えばカモフラージュだったわけで、後年になって徐々に3バックに対する想いや考え方を我われは耳にすることになる。最後には「今後の自分のサッカー観という部分で、どうすればもう1回頂点を狙っていけるのか」という言葉を聞き、今年で還暦を迎えたベテラン指揮官の、飽くなき勝利への追求心を思い知った。
チームを統べる者のそうした想いに、時期は合致した。22年のシーズンを戦うにあたって整えられた陣容はチーム始動から4バックで調整が進められていたが、沖縄でのキャンプがコロナの蔓延によって中断し、ほぼ戦術トレーニングができないままでの開幕を迎えたことは周知の通り。見切り発車のような形で公式戦を戦い始めたチームは勝ち星を拾いながらも不安定な戦いを続け、4月から3バックを採用し、何とか持ち直していった経緯がある。長谷川監督の見立てとしては当時のDFラインの選手層では4バックはランニングしていくのが難しく、新加入の河面旺成の特徴と、吉田豊、宮原和也と候補がいたSBに関してもより攻撃的なタイプが欲しいということで、そうした事情も3バック、ウイングバックの採用に追い風を吹かせた。そこからの名古屋はこの3バックシステムをいかにして形にしていくか、進化させ勝てる戦い方にしていくかがチーム作りの根幹に置かれることになった。その点では名古屋での長谷川健太監督のキャリアと、3バックというシステムは切り離せないものと言えるだろう。
「自分がこれから勝つにはどうしたらいいのか」という試行の中で生まれた長谷川監督の3バック観はいろいろなアイディアや嗜好にインスパイアされたものだった。もともと好きだったというアルゼンチン代表の3バック、名古屋監督就任と同じ年にサンフレッチェ広島の監督となった同い年のミヒャエル・スキッベ監督の攻撃的な3バックにもかなりの刺激を受けた。それまでの3バックは守備的なイメージがあったところに、攻撃的に振る舞うための3バックというトレンドは世界的にも起こりつつあった時期で、トレンドを追いかけたわけではないが、業務提携を結ぶローマのシステムを見て「シャドーにFWの選手を使うこともできるのか」と固定観念を崩され、3バック研究はさらに進んだ。昨季を迎えるにあたっての23年のオフには竹谷昂祐ヘッドコーチを連れてドイツへ視察に行き、自身はケルンとボルシアMGの練習を見学。コロナ禍も明けた頃でようやく海外旅行のハードルも下がったタイミングで、自分の目で欧州のトレンドを確認し、さらなるエッセンスをつかんでもいる。
マテウスら「ホンマモン」の稼働率に左右されるチーム作りの是非
チームの変遷を見れば、その進化は劇的とも言えた。2年目の23年にはキャスパー・ユンカーの得点力を引き出す3トップを全面的にサポートするシステムを作り上げ、永井謙佑、マテウス・カストロ、そして左ウイングバックとして覚醒した森下龍矢の高速アタックで優勝争いを演じた。このシーズンはまだ戦い方がベーシックで、ただしJ1で優勝するには倒すべきライバルと目していた横浜FMに対抗するため、オールコートマンツーマン守備の導入を成功させていた。[3‐4‐3]の布陣を相手の[4‐2‐3‐1]に合わせて[4‐4‐2]のような形に可変させ、ボールと人を刈り取るように守備を前に押し出していく。この戦い方に手応えを得た指揮官は翌24年にはマンツーマン守備をベースに置くようになり、同時に攻撃時には右肩上がりの可変を行なう流動性を加えるようになる。対戦相手によって細かな調整は都度行なわれていたが、とりわけ横浜FM型のポゼッションチームには無類の強さを発揮し、24年ルヴァンカップの決勝トーナメントでは準決勝で横浜FM、決勝でアルビレックス新潟に対しピーキーな戦い方を押し出して優勝を勝ち獲っている。またこの戦い方の副産物として、モデルの1つでもあった広島のようなチームとの真っ向勝負にも強く、苦戦続きだった25年ですら広島にはJ1でダブルを達成することになった。ボールを保持してくる相手か、肉弾戦のような激しい試合を仕掛けてくるチームに対して、滅法強いシステムだった。
……
Profile
今井 雄一朗
1979年生まれ、雑誌「ぴあ中部版」編集スポーツ担当を経て2015年にフリーランスに。以来、名古屋グランパスの取材を中心に活動し、タグマ!「赤鯱新報」を中心にグランパスの情報を発信する日々。
