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3カ月のチーム活動休止。5度の監督交代。若月大和が立ち向かったスイスでの2年間(前編)

2022.02.08

2020年1月。高校卒業を待たずに、スイスのFCシオンへと単身で乗り込んだティーンエイジャーは、2年間という短くない時間を異国の地で過ごした。先行きの見えない不安や押し寄せる孤独と戦いながら、持ち前のポジティブシンキングで自分と向き合った日常は、間違いなく人としての幅を広げてくれたという。

湘南ベルマーレに帰ってきた若月大和がスイスでの日々を振り返るインタビュー前編は、コロナ禍による3カ月のチーム活動休止や、念願のリーグ戦デビューを果たした1年目を中心に話を聞いた。

2年ぶりに帰ってきた湘南ベルマーレでの日常


――2年ぶりの日本はいかがですか?

 「やっぱりいいですよね。グラウンドの施設も含めて、どれをとっても質が良いですし、食事の部分も、向こうはちゃんと管理はされていますけど、日本の方がゴハンは美味しいですね。日本語が使えるものだいぶ大きいです。みんなとコミュニケーションをしっかり取れるというものありますから。ただ、2年間はあまり日本語を使っていなかったので、喋るのが逆に難しかったりしています。『日本語ヘンだよ?』『あれ?』って(笑)」


――逆にカッコいいじゃないですか(笑)。

 「向こうの言葉をペラペラになって帰ってきたらカッコいいですけど、そこまでではなかったですからね」


――向こうではフランス語を使っていたんですよね。どれくらい習得できたんですか?

 「ちょっとした会話はできますけど、深い会話は難しいぐらいの感じです。イタリア人の監督が多くて、練習やミーティングはイタリア語が多かったので。そういう時も話を聞いて、映像を見て、紙に書いて、という感じでやっていましたけど、サッカー面のコミュニケーションは問題なかったです」


――あらためて日本に帰ってきた経緯と決断を教えてください。

 「もともと2年間のレンタルで向こうに行っていたので、どちらにしても決断しないといけない時期が来た形で、自分の中では2年間で結果を出して、もっとステップアップしたかったというのが本音でしたけど、コロナの影響もあって難しいところもありました。なかなか移籍先も見つからなかったですし、海外のエージェントをつけていたので、『こういうクラブでやりたい』というようなコミュニケーションもそこまでできず、自分も『どこに行くんだろう?』という不安もありましたし、なかなかサッカーに集中できない期間もありました。

 移籍期限が迫ってくる中で、具体的なチームの話を聞けないような不安の部分が大きくて、『湘南に戻ってくるか?』という話が出た時に、向こうのエージェントからも『自分で話してほしい』と言われたこともあって、坂本(紘司強化部長)さんと直接コミュニケーションを取って、現状のこともいろいろ話しました。その結果、向こうでやり続けることがすべてではないですし、自分が成長するのが大前提なので、そのために日本に帰ることは悪いことではないかなと。もちろん逆に日本に帰ってきたら、もっと難しい状況になるかもしれないことも考えていましたし、簡単な決断ではなかったですけど、そこはポジティブに捉えていましたし、湘南のクラブ自体も受け入れてくれたので、そこは自分もしっかり湘南で結果を出して、みんなに認められた上で、またステップアップしていきたいと思って決断しました」


――あえてざっくり聞きたいんですけど、スイスでの2年間はどういう時間でしたか?

 「スイスでの2年間は、自分もざっくり説明すると、凄く大変でした。でも、凄く楽しかったです。スイスに行ってすぐコロナの影響もありましたし、サッカーをできない時間もあって、当然家族にも1年以上会えなかったり、そういう期間は大変でしたし、海外に行ってすぐに高卒でプロになったこともあって、身体の部分も全然足りなくて、練習で身体をちょっとぶつけられたらすぐに吹っ飛ばされたりしましたし、向こうに行ってから感じたそういう怖さもありました。

 でも、その中でも試合に出られない期間に、身体を常に鍛えようとひたすら筋トレをしたり、常に状況をポジティブに捉えて、『出られないからこういうことをしよう』とか、『出るためにはどういうことをすればいいか』と考えた中で、それが結果に繋がって試合に出られた期間もありました。リーグ戦には6試合スタメンで出られましたし、結果で言えばその時期に点は獲れなかったんですけど、自分の中で掴めたものは大きかったです。そういうことを考えると、楽しかったこともありましたし、本当に成長できる部分も多かったなと思います」

2020-21シーズンのスイス・スーパーリーグ第25節セルベッテ戦で待望の移籍後初ゴールを決めた若月

高卒で海外に飛び出す決断を下した理由


――そもそも高卒で海外へ飛び出すという選択肢を選んだ理由はどういったものだったんですか?

 「最初はまず『プロになりたい』と思って頑張っていた中で、高校3年生の最初で湘南に特別指定と翌年の加入内定をいただきました。その後にU-17ワールドカップが控えていたこともあって、月に1回ぐらいは海外遠征に行っていたんですよね。エクアドルだったり、チリだったり、いろいろなところに行くうちに、今度は『世界で戦いたいな』という気持ちになったんです。世界は広いなと思いましたし、いろいろなクラブがあって、いろいろな選手がいて、そういうところで戦いたい気持ちが強くなっていった中で、やっぱりブラジルでのU-17ワールドカップがきっかけでした。

 そこで自分の中でもしっかりチャンスを掴めた感じがありましたし、オファーが来た時に『海外に行けるチャンスを逃したくないな』って。『失敗したとしても、行けるチャンスがあるのに行かないのは嫌だな』と思いました。決断は難しかったですけど、最後は本当に自分の意志が固くて、そこが曖昧だったら行っていなかったと思うんですけど、その時は『絶対に海外で活躍する』という覚悟もありました。もちろん今後も海外を諦めたわけではないので、今はここでしっかり結果を出したいという気持ちもあるんですけど、当時はそんな感情でした」


――最初にFCシオンに入ってみた印象はいかがでしたか?

 「温かかったですね。最初の1週間だけ通訳をしてくれる人がいて、生活のサポートをしてもらったんですけど、そこから2年弱は1人で生活していたので、もちろん必要なものを買いに行くことや、銀行の問題とか、いろいろなことがあったんですけど、そういうことはチームマネージャーがしっかりサポートしてくれました。チームメイトとの会話も最初は大変だったんですけど、自分もガツガツ絡んでいって、ジェスチャーとかで何とか会話していって(笑)。それでも全然嫌がることもなく、みんな話してくれたので、監督も含めて温かいチームだなと思いました」


――サッカー面ではいかがでしたか?

 「湘南に帰ってきて、トレーニングの強度の差は感じました。『練習ってこんなにキツかったんだ……』って(笑)。『2年前もこんなにキツかったな』と。例えば試合に入った時の強度や、勝負へのこだわりも向こうは日本より強い部分がありますけど、練習の強度で考えると、そんなに凄くキツいことはやらないんですよね。球際の強さは日本ではなかなかないようなものなんですけど、練習自体の強度はそこまで高くなかったので、少ないチャンスでいかに結果を出すかとか、自分をアピールするかもかなり大事だと思っていました。なかなか試合形式の練習はやらないので、メンバーも決まっていたりするとリカバリーになりますし、ちょっとしたゲーム形式の練習でいかにゴールを決めるか、いかに自分をアピールするかという感じでしたね」

3カ月間のチーム活動休止で突き付けられた孤独と現実


――リーグのスケジュールを拝見すると、現地に行って1カ月後ぐらいの(2020年)2月23日から中断に入っていますが、それ以降はしばらくチームもまったく活動していなかったんですか?

 「そうです。3カ月間まったく活動がなかったんです。監督も活動が再開した時には代わっていましたし、簡単ではなかったです。3カ月は凄く長かったですし、日本にいるわけではないので、家族や知っている人もいなくて、何ごとも自分一人でやらなくてはいけなかったのは、メチャメチャ大変でしたね。でも、その中でも『自分にできることをやろう』と思って、自分で1週間の予定表をちゃんと作って、毎日6キロ走って、そこから坂でダッシュをしていましたし、最初はサッカーボールすら持っていなくて、サッカーもできなかったので、ひたすら走り込んでいました。『他の選手は力を抜いているだろうな』というような時に、どれだけ自分を高められるかが大事だと思って、生活していましたね」


――それでも、言葉も通じない国で、誰もいないところで3カ月過ごすなんて、よく頑張りましたね。

 「よく頑張りましたよね(笑)。なんかあらためて自分でも『凄いな』って思いますよ。今の自分があの状況に耐えられるかと言ったら、正直わからないです。やっぱりそれでも『絶対にここで活躍したい』という気持ちがありましたし、それが辛さを上回っていたからこそ、しっかり耐えられたとも感じています。アジア人ということで嫌な想いをすることもありましたけど、それも仕方ないことだと自分の中で受け入れましたし、そういう意味では精神的な成長に繋がったのは間違いないです。この精神的な成長は、たぶん日本にいたら味わえない経験でしたし、それは非常に大きなものでした」


――住んでいたのは選手寮ですか?それとも、1人暮らしですか?

 「選手寮です。若手の選手や、まだ家を借りていない選手が住むような場所で、コロナの時は3カ月食事が出なかったんですけど、それ以外の時はちゃんと朝昼晩と食事も出ます。直接厨房に入っていって、シェフのところに行って、『今日は肉とサラダとパスタが食べたい』とか言うんです。そんなに種類はないので、トマトパスタがとにかく多くて、人生で食べる分のトマトパスタはこの2年間で確実に食べました(笑)。2日に1回は必ずトマトパスタが出てきますし、塩だけ掛けた鶏肉とトマトパスタはたくさん食べましたね。決して美味しいとは言えないですけど、そういうものでもレストランで食べたら3000円ぐらいしますし、『これが3000円かあ』と思いながら食べていましたね(笑)」


――本来であれば一番食事が出てほしい3カ月ですよね。

 「スイスではそれこそ営業禁止というふうに決まったら、お店自体も絶対に閉じないといけないんですよね。『外を出歩くな』と言われたら、出歩くと逮捕されてしまうぐらいの感じなので、本当にシャットアウトされていて、街中を歩いている人もいないですし、レストランも開いていなくて、その期間は本当に食事に困りました。かといって、凄く自炊ができるわけでもないですし、日本から何かを送ってもらうにも1カ月や2カ月かかることもあるので、それこそ月の食事代で数十万ぐらいはかかりました。できたサラダやパスタにちょっとした飲み物をスーパーとかで買っても、1食で合計5000円ぐらいかかってしまって。ただ、それは必要なものなので、仕方ないですよね」

ようやく辿り着いたリーグデビュー


――その期間を乗り越えて、7月2日のリーグ戦でデビューしたわけですよね。これは本当に大きな出来事だったんじゃないですか?

 「メチャメチャ大きかったですね。本当にそこまでが長かったですし、試合を振り返ると、とにかく空回りしていて、全然ボールを受けられていないんですけど、ピッチに立てる喜びは本当に凄かったです。『これまで大変だったけど、やっとピッチに立てたぞ』って。これからさらに頑張ろうという気持ちにもなりました。でも、またそこから次に試合に出るまでが長かったんですよね」


――おそらくサッカー人生で、半年も試合に出られない時期が続くことはなかったんじゃないですか?

 「なかったですね。1週間試合がない時すら珍しいと思います。しかも、そのうちの3カ月は練習すらない時期がありましたから」


――いつもポジティブな若月選手も、海外に出て1年目にこれだけ予想もしない状況に見舞われるなんて、さすがにちょっと自分の巡り合わせの悪さを呪ったりもしましたか?

 「でも、『逆にこのタイミングだから海外に行けたんだよな』とは思いました。『コロナがここまで広がってからでは行けなかったな』って。もうポジティブに捉えていましたね。『日本にいるよりも、海外にいる方がいろいろ成長できるしな』とか、とにかく前向きに考えるようにしていました」


――相変わらず素晴らしいメンタルですね。ちょっと顔つきも精悍になった気がします。

 「2年間で鍛えられました。向こうにいた時は髭も伸ばしていたので、日本の自分を知っている人からしたら、ちょっと雰囲気が変わったって思われるんじゃないかなって。顔つきは自分でも変わったと思います」

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Photos: Eurasia Sport Images/Getty Images, 🄫SHONAN BELLMARE

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Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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