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井筒陸也とは何者なのか? 『敗北のスポーツ学』の源流

2022.01.27

『敗北のスポーツ学』序章 特別公開

3月15日に発売予定の『敗北のスポーツ学 セカンドキャリアに苦悩するアスリートの構造的問題と解決策』は、徳島ヴォルティスを経て、昨シーズンまでクリアソン新宿でプレーした井筒陸也の初の著書だ。ブログでの情報発信や現役選手を中心としたオンラインコミュニティ「Ziso.(ジソ)」での活動でも、彼が一貫してテーマにしてきたのは「何のためにサッカーをやってきたのか」。その思想の源流に迫る本書の序章を特別公開。

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サッカー界の産業廃棄物として

 小学生くらいまで、僕は病弱な子どもでした。持病のぜんそくを治すためにサッカーをはじめ、友だち付き合いもあって、成り行きで地元の弱小ベンチャーチームに所属するようになりました。僕が育った南大阪の「泉北」と呼ばれる地域では、サッカーがそれなりにできる子は、中学生になるとガンバ大阪のアカデミーの一つであるガンバ堺や、いくつかの強豪のクラブチームに進み、僕が小・中学生の時に在籍したエルバFCというクラブは、そこに引っかからなかった子どもたちの、セーフティネットのような場所でした。

 僕には、一つの大きな欠点がありました。それは、どうしようもなく足が遅かったことです。リレーの選手に選ばれる・選ばれないといったレベルではなく、全員参加の徒競走でもゴールテープを切った記憶がありません。チームメートも同じで、背が低かったり、技術がなかったり、皆、何かしらの大きな欠点を抱えていました。クラブには、サッカー界から淘汰される瀬戸際にいる「持たざる」中学生たちが集まっていました。

 「お前たちは、サッカー界の産業廃棄物だ!」

 クラブの創設者であり、指導でも最前線に立っていたコーチは、試合中、対戦相手の保護者にまで聞こえるくらいのボリュームで、こう叫んでいました。ことあるごとに彼は、「ここは、サッカー界のゴミ再生工場だ」と、うれしそうに僕たちに言って聞かせたのです。ほんの10数年前のことですが、コンプライアンス全盛の現在ではとても考えられません。

 しかし彼は、ただ僕たちを罵倒していたわけではなく、そのコンセプトは実に明確でした。それは、「持たざる者が、持てる者を倒したら面白い」ということです。当時は「ジャイアントキリング」という言葉はありませんでした。僕たちのような弱者が、どうすれば速くて、強くて、上手い奴らに勝てるのか……。タフに、ズル賢く、カウンターパンチを狙い続けることを教えてもらいました。能力が足りず恥をかいても、「卑屈になるな、それがお前の特徴だ」と笑い飛ばしてくれて、しかし、僕たちがビビり、思考することをやめた時には、とにかく怒りました。「どうやって生き残っていくか」。そのことを問われ続けた中学3年間でした。かなり以前、彼は他の指導者にチームを譲り、現在のエルバFCは僕らの時代とはだいぶ違うチームに変わったようです。

 僕がサッカーとの関係性を決めたのは、この頃のことでした。一つは「J リーガーを目指さない」ということです。想像しにくいかもしれませんが、僕たちのチームは、大阪府の中でもワーストクラスで、サッカー選手を目指すことなど、誰一人として考えていませんでした。むしろ、アマチュアサッカーの舞台からも淘汰されていく存在として、その淵に立っていました。Jリーガーになるような人たちには、特に理解できない感覚でしょう。

 プレーに対する「楽しさ」も、当時の僕は考えたことがありませんでした。むしろ、技術も能力もレベルが低すぎて、楽しくないことがほとんどでした。しかし、そうしたことに対して、取り立てて悲観するわけではなく、ただひたすらにジャイアントキリングを渇望していました。チームのコンセプトは常に明確で、何より刺激的でした。「Jリーガーを目指しているから」「プレーが楽しいから」……。そんな上流階級のモチベーションとは無縁のサッカー生活でした。

泥舟の船長になった

 高校は、そのコーチのコネクションで、初芝橋本高校に入学しました。

 最初は、「高校受験をしなくていいし……」くらいの気持ちでしたが、読書好きでインドアな子どもだった僕は、自分に対するコンプレックスと怖いもの見たさとが、混ぜこぜになり、最後は勢いで進学先を決めました。決して、「サッカー選手を目指して」進学先を決めたわけではなかったことはくれぐれも断っておきます。

 高校の練習は本当に苦しくて、先輩も監督も怖くて、僕は自分の軽はずみな決断をすぐに後悔します。毎朝午前5時に起きて練習に向かい、人気のまばらなバスの中で学校最寄りのバス停の名前を告げるアナウンスが聞こえるたびに、脳の中で憂鬱な気分をつくる物質のようなものが分泌されていく感覚がありました。

 入学後1か月ほどの1年生の練習メニューは、ほとんど毎日坂道を9キロ走るというものでした。痺れを切らした誰かが、ランニングコースのショートカットを提案し、同期の全員で実行することに決まりました。僕は断る勇気もなく、黙って後ろをついていきました。こういう悪巧みは往々にして失敗するもので、1年生は3年生に呼び出され、無期限の練習不参加を言い渡されます。それに伴って、1年生の学年リーダーは交代となりました。僕は心の中で、「泥舟に乗ってしまった」と読み上げ、絶望しました。

 ただ、この時僕は、人生で最も重要な一つの行動をします。新しい学年リーダーに名乗り出たのです。思い返せば、よく手を挙げたなと思います。同期の中にも、出身中学校の地区のようなもので小さな派閥のようなものがあり、僕はその中でもマイノリティで、サッカーの実力も並で、そんなことは分かっていたつもりでしたが、それ以上に「放っておくと泥舟が沈んでいく」という感覚がリアルで、ほとんどヤケクソで立候補をしました。

 多数の反対意見を押し切って就任しただけあって、上級生から任された仕事を同期の1年生に差配しても、「なんで、お前のゆうこと聞かなあかんねん」と言われ、「いや、俺がゆってるわけちゃうねん」とツッコミを入れながらも、一人でやることも多々ありました。

 ずっと頭の中を巡っていたのは、同期の選手たちをコントロールするためには、サッカー界の力学に従い、サッカーの力で示す他にないということでした。正しいことを伝えても伝わらない、この意味不明な構造に怒り狂いそうになりながらも、僕は覚悟を決め、半ば「業(ごう)」を背負ったかのように、練習に明け暮れました。「サッカーを楽しむ」という余裕や発想は、存在し得ませんでした。とにかく、自分の人生を失敗にさせないために必死でした。3年生の夏にはストレスから食事ができなくなるほど、普通の高校生として生きていれば起こり得ないたくさんの物事に出会いました。結果的に、県内の大会はすべて優勝。インターハイと選手権の両方で全国大会へ出場しました。学校的にはちょっとした快挙だったので、少しだけ褒めてもらいましたが、僕には「泥船が沈まずに済んだ」と、安堵の気持ちしかなかったことを、よく覚えています。

 そういう経験もあり、僕はできるだけ早くサッカーと縁を切ることを望んでいました。しかし、関関同立クラスの大学に入学するためには、スポーツ推薦の制度を活用する以外に選択肢がなく、高校で、本当にくだらない理由でうまくなったサッカーを最後に「利用」しても、バチは当たらないだろうと考えました。大学に入ってしまいさえすれば、サッカー部を辞めて、大学生活を謳歌してやろうと、本気でそう思っていました。実際に、スポーツ推薦の面接で「何か聞きたいことはありますか?」と聞かれた時、僕は、「スポーツ推薦で入学しても、長期の語学留学は許されますか?」と質問をして、教授を困らせています。

何のためにサッカーをやってきたんだ

 しかし、関西学院大学に入学した僕は、同期から、大きな影響を受けることになります。1年生で最初からAチームに入れられたのは、大学卒業後にガンバ大阪に加入する呉屋大翔(現・大分トリニータ)と、ヴィッセル神戸に加入する小林成豪(現・大分トリニータ)と、僕でした。彼らのお世話役として、お情けで加えてもらったわけですが、僕たちは3人で行動することが増え、仲も良く、本気で「プロになる」と決めてサッカーに取り組む彼らに対して、僕は興味を持つようになります。サッカー、特にサッカーの「プレー」というものに対して、目の色を変えて、時に感情を抑えきれなくなるほど熱中する彼らの姿は、自分とは真逆のものであり、僕は「彼らと自分とは違うのだ」ということを理解しました。身近にいたからこそ、彼らのサッカーに対するスタンスは、僕にとって痛烈でした。

 同時に、彼らと出会い、僕ははじめて「サッカー選手」というものを「魅力的」だと感じました。そして、僕は彼らに対して、不思議なライバル意識を抱くようになります。僕は彼らとの棲み分けを意識し、プレーではなく「チームづくり」に傾倒していきました。彼らとプレー面で競うことをあっさりとあきらめた僕は、プレー以外で彼らを、チームを動かすことに挑戦することを決めたのです。遠い昔にプレーへの情熱を失ってしまった僕を、サッカーがつなぎ止めてくれたのかもしれません。

 夢中になれるものを見つけた僕は、4年間を大学サッカーに捧げます。最後のシーズンはキャプテンを任されました。すべての歯車がピタリと噛み合い、終わってみれば、二度の日本一を含む四冠という、大学サッカー史上初の快挙を成し遂げます。

 しかし、一度目の日本一の時に、自分とサッカーの関係性を決定付けるような出来事がありました。大学サッカーの夏の全国大会には、「総理大臣杯」という仰々しい名前がついていますが、なんとか決勝まで上り詰めた僕らは、和泉竜司(現・鹿島アントラーズ)、瀬川祐輔(現・湘南ベルマーレ)、室屋成(現・ハノーファー)など、ほとんどがJ内定者で構成されていた明治大学に、2-0で勝利。関西学院大学は、創部初の総理大臣杯のタイトルを獲得します。表彰台とは縁遠いサッカー人生を過ごしてきた僕は、勝利の水かけのしぶきが舞うキンチョウスタジアムの眩しい照明を、どこかフワフワした気持ちで眺めていました。

 重要なのはここからです。しばらくして、僕とチームのナンバー2である主務のもとに、日本一になったあの日の集合写真が届きます。すると、彼は僕が気が付かなかったあることを指摘します。

 「後ろのやつらが笑ってない」

 僕を含む出場メンバーと4年生が歓喜するその後方で、虚ろな表情で立ち尽くすメンバー外の1年生、2年生、3年生たちの姿が、そこにハッキリと写っていたのです。「優勝したんだから別にいいじゃないか?」「スポーツの世界とは常にそういうものだ」……。目の前の写真に収められた出来事を正当化するための無数の言葉が、僕の頭の中に浮かんでは消えていきました。その時点で、僕は既にキャプテンとしての地位を確立し、称賛され、その結果をもってJリーガーになる道は開かれ、十分すぎるほどのプレゼントを手にしていたとも言えます。それでも、僕にとってのはじめての日本一は、哀しい思い出です。

 結果さえ出せば、何ごとも丸く収まる、何ごとも報われる。そんなことを信じていた自分に、この時僕ははじめて気付きました。しかも、それは叶わなかったのです。僕は思いました。「何のためにサッカーをやってきたんだ」と。多くの人は、このような設問にぶつかる前に、それなりに美しい思い出として、サッカーを卒業することができます。残された後悔は、勝敗に敗れ、成果物が入っていると思わしき箱を「開けることができなかった」ということ。それは「努力が足りなかった」とか「実力が足りなかった」とか、いくらでも次のステージに昇華できる性質の感想です。しかし、僕が直面したのは、一つの勝敗を制し、成果物が入っているはずの箱を開け、そして、「そこに何もなかった」という経験でした。それは、「後悔」と呼ぶにはあまりに肩透かしであり、ほとんど「裏切り」に近い仕打ちでした。

意味のない勝利、意味のある敗北

 どうしても好きになれなかったサッカーを、多くの因縁によって続けてきたその先に、ようやく救いを受けられる、そう信じて、裏切られる。では、僕にとってのスポーツとは、サッカーとは、一体何だったのか。

 もともと、サッカーとはいつでも「さよなら」できるつもりでいました。大学を卒業したら、僕はサッカーから足を洗い、ビジネスがしたいと考えて就職活動をしました。それでも、Jリーグの世界に飛び込み、Jリーグを辞めた僕が今、新宿という街でサッカーに関わっているのは、あの時の疑問が、まだ、心のどこかに刺さったまま、取れそうにもないからです。

 長々と自分語りをしてきましたが、僕は、僕自身や、スポーツをしてきた人たちが、本当の意味で幸せになるためにどうすればいいのか? ということを考え続けてきたように思います。

 勝利しても幸せになれなかった僕は、勝利以外のものに興味を抱くようになりました。僕たちのサッカーを意味あるものにするために、結果は重要だが、すべてではないと確信したのです。そうして僕は、敗北にも何か意味があるはずだと考えるようになりました。「敗北のスポーツ学」というタイトルは、僕がJリーグにいた最後の年にスタートした、ブログのタイトルでもあります。2年目で試合に出られるようになり、一方で、Jリーグにいられるのも先が長くないような気がして、そうしたタイミングで、自分の感じていることを言葉にすることにチャレンジしたいと思ったのです。

 「結果がすべてではない」と、3年前の僕が小さく叫んだ時、それはほとんど受け入れられませんでした。プロであれば、スポーツをするのであれば、結果だけを追い求めろと。もちろん、ただ勝利を目指す、勝利の先に何かあると信じ続ける、そんな人生を否定するつもりはありません。むしろ、それは素晴らしいことです。僕もそうであったらどれだけ楽だっただろう、と思います。しかし、それはできませんでした。

 個人の競争でも、組織の競争でも、99パーセントの人が敗北していくのがスポーツの世界であり、そうした日々から僕たちは何を得たのか。この本では、僕がサッカー界で向き合ってきた不条理と葛藤を、それぞれの章のテーマにしています。これはきっと、スポーツをしてきた人たちが同じように経験してきたことであり、記憶がありありと蘇るものと思います。この本を手に取ってくれた人は、こうした問題から目を背けずに向き合ってきたはずです。仮に、試合にも出られず、試合にも勝てず、淘汰され、どこかでスポーツ界から去ったとしても、その闘いと敗北に意味はあったのか。僕が見た、意味のない勝利とのコントラストが映える、勝利から最も離れた位置にある敗北と、その先のスポーツを、可能な限り言語化していきます。僕はそうした経験を自分の人生に生かしたいと思っていますし、それが皆さんの人生にも生かされるのであれば、心よりうれしく思います。


Photo: Soushi Kawaguchi

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『敗北のスポーツ学』

Profile

井筒 陸也

1994年2月10日生まれ。大阪府出身。関西学院大学で主将として2度の日本一を経験。卒業後は J2徳島ヴォルティスに加入。2018シーズンは選手会長を務め、キャリアハイのリーグ戦33試合に出場するが、25歳でJリーグを去る。現在は、新宿から世界一を目指すクリアソン新宿でプレーしつつ、同クラブのブランド戦略に携わる。現役Jリーガーが領域を越えるためのコミュニティ『ZISO』の発起人。