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天皇杯で大番狂わせ!おこしやす京都とは何者か。東大卒Jリーガー添田隆司社長インタビュー

2021.07.07

天皇杯2回戦、サンフレッチェ広島を1-5で文字通り粉砕。J1クラブへの初挑戦で歴史に残る大番狂わせを演じたのは、関西サッカーリーグ1部(5部相当)のおこしやす京都だ。一夜にして日本中のサッカーファンの注目を集めた彼らは一体、何者なのか。東大卒Jリーガーという異色の経歴を持つ添田隆司社長に、結城康平氏が直撃した。

おこしやす京都に受け継がれる、添田社長のプレースタイル

――添田社長、本日はお忙しいところお時間をいただきましてありがとうございます。まず、ジャイアントキリングを成し遂げたサンフレッチェ広島との一戦は、現地でご覧になられていたんですか?

 「現地で観戦していましたが、思わず拳を突き上げてしまうようなゲームでした。選手・スタッフの雰囲気も良く、記憶に残る1日でした」

――天皇杯で、おこしやす京都というチームのことを知ったサッカーファンも多いと思います。チームのみどころを教えていただけますか?

 「いろいろなチームがあるとは思いますが、しっかり真面目に走る愚直なチームだと思っています。今23人の選手がいますが、ほとんどの選手が仕事をしています。そういったサッカーだけではない側面で社会と接しているので、精神的なバランスや窮地での対応力には優れているように感じます」

広島戦で相手を掻きわけながら懸命にボールを追いかける、おこしやす京都FW青戸翔。大量得点の口火を切る先制弾を奪った

――添田社長自身も、働きながらJリーガーとしてプレーされていた過去をお持ちですよね。サッカーとはどのように出会ったのでしょうか?

 「いろいろな幼稚園にスクールがある横浜バディーSCというチームで、4~5歳の頃にサッカーを始めました。その選抜チームに親が申し込んでくれたことをきっかけに、小学校の頃は横浜バディーSCに所属することになりました。僕が小学校1年生のとき、6年生でプレーしていたのが椋原健太選手で、同じスクールだったため一緒にサッカーをしたことがあります。彼は当時の横浜バディーSC最高の選手という評判でした。小学校の頃はチームが強豪だったので、5年生まではほとんど公式戦に出場できませんでした。それは良くも悪くも、自分の中でかなり大きな影響を与えたと感じます。

 中学生になるタイミングでいくつかJユースのセレクションも受けたのですが、残念ながら落ちてしまって、結果的にはBANFF横浜というチームに入団しました。当時のポジションはサイドハーフで、神奈川県の地域選抜でもプレーしていました。高校はコーチの繋がりでサッカー強豪校に入ることも検討したのですが、最終的には小学校・中学校と通っていた筑波大学の付属高校に進学しました。セレクションに合格して横河武蔵野FCユースに入団させていただき、そこで3年間プレーしました。当時はJリーグのユースチームは雲の上の存在だったのですが、高校2年生の頃には13年ぶりに全日本クラブユース全国大会に出場し、強豪チームとも対戦する機会があったのは大きかったと思います。

 大学は通っていた高校が進学校だったこともあり、自然な流れで東大を志望しました。東大のサッカー部時代は、主将を務めさせていただきました。また3、4年の頃は大学の東京都リーグ選抜でもプレーする機会を貰いました。4年に一度、都リーグ選抜が海外遠征もしていまして、ミャンマー現地の大学生とも試合をする機会がありました。結果的に、ミャンマーから帰国して数日で藤枝MYFCに練習参加することになってしまったんですが(笑)」

――それはなかなか、ハードな日程ですね…(苦笑)。J3藤枝MYFCの練習に参加することになった経緯も教えていただけますか?

 「そうですね、もともとは藤枝MYFCの練習参加には行くつもりがなかったので。ミャンマー遠征は最後のお楽しみだな、と思っていました。就職活動をして内定先も決まっていたところに、東大のヘッドコーチだった林健太郎さんから連絡をいただいたのが藤枝MYFCとの最初の接点でした。当時はJ3も設立初年度だったので、どのくらいのレベルかを経験してみたいなという気持ちもあり練習参加させていただきました」

――当時練習参加をされた印象はいかがでしたか?

 「オフシーズンの練習だったので強度は低かったですが、技術レベルの高さには愕然としました。また、当時藤枝MYFC代表の小山(淳)社長と話をさせていただく機会があり、事業のビジョンなどをお聞きしました。当時はスポーツビジネスに興味が薄かったので、時間を割いていただいた中で大変失礼な話ですが、『あくまでそういう世界もあるのか』という程度にしか感じていなかった記憶です。そこで小山社長から、『東大サッカー部のキャプテンが、どこまでJリーグで通用する選手になれるのかを試してみたい』というオファーをいただきました。そこで自分が言ったのが、『自分の人生は、これまで頑張って安牌を切ってきた』ということでした。例えば、高校の時もレベルの高い強豪校でプレーをしたかったけれど、挑戦に自信を持ち切れずユースチームに入団して筑波大学付属高校に進学するという、進学の面で安全な決断をしました。大学を選ぶ時もサッカーをしたいなら、早稲田や慶應という選択肢もありました。だけど結局、サッカーのレベルを犠牲にして東大を選びました。そういう決断に、少し後悔していたように思えます。そこで小山社長から『内定先に行くより、Jリーグの方が安牌だと思うけどね』というお言葉をいただいて、サッカー選手として自分が良い選手になれる限界を追求する、最後のチャンスだと感じたんです。もう1つは、好奇心ですね。自分がレベルの高い環境でプレーしたら、どこまでの選手になれるのかを知りたかった。そのような理由から、決断の期限として設定いただいた2週間ギリギリで『サッカー選手になる』という決断をしました」

――実際にJリーガーの道へと進んでみて、感じたことはありますか?

 「小学校や高校時代はチームで8~10番目の立ち位置にいる選手だったと思っています。チームの誰よりもハードワークをして、下手でもチームに必要だと思ってもらえる選手になりたいと考えていました。実際に(藤枝MYFCでも)走力面ではチームの5~7番目くらいだったかと思います。あと自分の技術レベルが通用しないのは想定の範囲内だったんですが、大きなギャップだったのは、トレーニングの強度です。判断スピードにも差があり、一時期は完全に自信喪失してしまいました。人生で練習が嫌だと思ったことは少ないのですが、当時はつらかったなと」

――そのようなギャップを、どのように埋めていかれたのでしょうか?……

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Profile

結城 康平

1990年生まれ、宮崎県出身。ライターとして複数の媒体に記事を寄稿しつつ、サッカー観戦を面白くするためのアイディアを練りながら日々を過ごしている。好きなバンドは、エジンバラ出身のBlue Rose Code。