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加藤恒平が語る、欧州の底辺から日本代表への長い道のり

2017.06.01

敷かれたレールの上を行くのではなく、新しいレールを作りたい

INTERVIEW with
Kohei KATO
加藤恒平
(ベロエ・スタラ・ザゴラ)

昨年9月、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督が、日本代表のメンバー発表会見で1人の無名選手の名前を口にした。「ブルガリアのカトウもチェックしている」。その選手こそ、ブルガリア1部リーグのベロエ・スタラ・ザゴラでプレーする加藤恒平だ。日本ではJ2での実績しかない“雑草”は、欧州の辺境で道なき道を歩み続ける。

夢と現実の狭間で

海外でプロになるために大学は遠回りだった

──おそらく加藤選手の経歴はほとんどの読者が知らないと思います。まずはサッカーを始めたところから教えてもらえますか?

 「和歌山県の新宮市の出身なんですけど、地元のサッカー少年団で小学1年生から始めました。当時はお山の大将というか、何でもできちゃう感じでしたね。だけど、プロになることを考えたら、ここにいたらマズイなっていうのはありました。勝つにしろ負けるにしても、強い相手ともっとやらないと自分がどのレベルなのかもわからない。それで中学校に上がる時に、Jリーグのセレクションを受けようと思ったんです」

──ジェフ千葉のジュニアユースだったんですよね。どうして関西のチームではなく千葉だったのでしょうか?

 「母方の祖母が千葉に住んでいたので、そこからなら通えるだろうと」

──ジェフで実力は通用しましたか?

 「明らかに一番下手でしたね。和歌山の田舎とはレベルが違い過ぎました。関東選抜の選手とか、エリートプログラムに入っている選手とか、凄い選手がゴロゴロいて、最初の頃は18人のメンバーにも入れなかった。その時ですね、『自分はうまい選手じゃない』と気づいたのは」

──シビアな現実を突きつけられた中で、どうやってアピールしたのでしょう?

 「当たり前のことですけど、毎日100%練習はしていましたし、自分に何が足りないのかを考えて、練習以外の時間も課題を持ってやっていました。2、3年目で徐々にスタメンになるようになって、ユースにも上げてもらえました」

──でも、ジェフではトップチームに上がることはできなかった。

 「そうですね。僕の代だと、乾達朗(現タイ・ホンダFC)と高田健吾(引退)がトップに上がりました。チームは違いますけど、流通経済大学の大前元紀(現大宮アルディージャ)も同期です」

──その後、立命館大学に入学しました。3年生の時にアルゼンチンに留学をしたんですよね。

 「もともと海外でプロになることが夢で、将来的にはスペインに行きたいと思っていました。最初からスペインに行くのは厳しいと思ったので、僕なりに調べたらアルゼンチンはスペイン語だし、ヨーロッパにたくさん選手も送り出しているし、ちょうどいいかなと。最初は3年生の時に2カ月の短期で行って、卒業に必要な単位を取った後、プロ契約を目指してもう1回に行きました」

──Jリーグでプレーしてからでも遅くないのかなと思うのですが……。

 「いや、遅いですね。アルゼンチンに行くと、19歳の選手がプロとして3クラブとか渡り歩いている。大学の4年間も自分にとって必要な時間だったので後悔はないですけど、もっと早く行っていれば良かったという気持ちはあります」

──アルゼンチンではどこでプレーしていたんですか?

 「僕が行ったのは『セファール』と呼ばれるチームです。僕のようにプロになりたい選手が世界中から集まっていて、混成チームでクラブチームと試合をする。そこで自分を売り込んで、プロ契約を勝ち取るのが目的です。それで、4部のサカスチパスというチームの監督から『家と食事と給料を出す』という条件でオファーをもらいました。実は3部のチームからも話はあったんですけど、試合に出るなら監督が信頼してくれている方がいいだろうと思って行きました」

──海外でのプロになるという夢をつかんだ。

 「でも、クラブに行ってみると会長は『そんな話は聞いていない』と。『日本人にお金は出せない』と言われて、試合出場に必要な就労ビザも出してもらえませんでした。最終的には7カ月もプレーできなくて、日本に戻らざるを得ませんでした」

アルゼンチンから町田へ

日本でプレーするのは1年と決めていた

──その後、J2のFC町田ゼルビアに練習参加を経て加入することになりました。

 「最初は1週間見たいと言われたんですが、正直言って全然ダメでした。アルゼンチンとはサッカーがまったく違って、それに慣れるのに時間がかかって……」

──どんなところが違ったんでしょうか?

 「アルゼンチン人は一人ひとりがボールを持つんですね。そして、自分で持てなくなったらパスを出すのが基本。だけど、日本ではボールをチームで回すので、僕だけプレーのテンポが違って合わなかった。あとはパスの質ですね。アルゼンチンの選手はとりあえず相手に届けばいいという感じで、適当に出すんですよ。その代わりトラップの技術が高くて、酷いボールでも止めちゃう。日本だとパスを丁寧に繋ぐので、そういう感覚がなくなっていて、パスミスを連発しました」

──それでも町田に入れた理由は?

 「自分ではわかりませんが、球際のところで強く行けるところが評価されたのかもしれません。でも最初のうちは、削ってばかりでしたね……。監督のオジーさん(アルゼンチン人のオズワルド・アルディレス)から『削るな』と怒られるぐらい。もちろん、わざと削ろうと思っていたわけじゃなくて、タックルに行くタイミングが合わなかったんです。でも、だんだんボールを奪えるようになってきて、契約してもらえることになりました。最終的には3週間かかりましたね」

──球際の強さというのは、もともと持っていたストロングポイントだったんでしょうか?

 「実は、アルゼンチンに行くまではサイドハーフを主にやっていました。だけど、あっちの監督にボランチをやれと言われてコンバートされたんです。僕自身もサイドに限界を感じていた時期でした。特別足が速いわけでも、クロスがうまいわけでもないですし。サイドの選手は一芸があると生き残れると思うんですが、僕にはそれがなかった。ただ、走ることは得意だった。真ん中をやってみろと言われた時はチャンスだと思いましたね。しかもサイドは試合によってはボールが来なかったりして、不完全燃焼で終わる試合もあった。真ん中は自分の行きたいところに走り回れますからね」

──J2では29試合に出場しました。

 「ゼルビアではいろんなポジションをやりましたね。ボランチ、SB、CB……。FW以外はほとんどやったかもしれません」

──ただ、海外挑戦のために1シーズンで町田を退団しました。契約延長のオファーはもらっていたんですか?

 「はい。でも、自分の中で町田では1年と決めていました。入ったのが23歳だったので、24歳でもう1年プレーしたら25歳になってしまう。それ以上は遅らせられないと考えました。それでも降格した後は悩みましたね。どちらを優先するのか。自分の夢なのか、町田をJリーグに上げることなのか。悩みましたけど、町田の出身の選手が世界で活躍して代表に行ければ、それはそれで恩返しになるのかなと思って、海外挑戦を決断しました」

──“それ以上は遅らせられない”というのは?

 「現状を考えたら、日本からヨーロッパに行くのは日本代表に入っている選手がほとんどですよね。僕の場合、それを待っていたら、いつになるのかわからない。それに日本でいくら良いプレーをしていても、ヨーロッパのスカウトは1回持ち帰って、本当にヨーロッパで通用するかを検討します。Jリーグはヨーロッパとはサッカーが全然違うので、代表選手以外が大きいリーグに行くのは、かなり難しい。日本代表の選手が行けるのは、国際試合でやれているなら海外でやれるだろうという計算があるから。ヨーロッパに行きたいのであれば、どこでも良いから潜り込んで、そこでやれることを証明して、少しずつステップアップする方が早いんじゃないかと考えたんです」

欧州の底辺からのスタート

モンテネグロがどこにあるかもわかってなかったが、行った

──町田を退団してから半年後、移籍先として発表されたのがモンテネグロ1部リーグのルダル・プリェブリャでした。

 「スペインに行きたかったので、トライアウトを受けられるチームを探して、合格をもらいました。でも、最後の最後で年齢を聞かれて『24歳』と言ったら、『23歳以下の選手を探していた』と言われて……。プロフィールをチェックしておけばわかるだろうと思ったんですけど、文句を言っても変わらないので。その時点で、町田を辞めてから半年が経っていたので、とにかくプレーする場所が必要でした。それで、『モンテネグロだったら入れる』と言われて。どこにあるかもわかってなかったですけど、行きました」

──モンテネグロはどうでしたか?

 「Jリーグの方が環境的には何倍も整っていますね。スタジアムも古くて、日本だったらプロの試合ができないようなところばかりでした。ただ、アルゼンチンはもっと厳しい環境だったので、あの頃に比べたらマシだから僕としては苦になりませんでした」

──そこにずっといるつもりはなかった?

 「もちろん。長くても1年、できることなら半年で出て行こうと考えていました。だから、『代表活動期間中は他の国でテストを受けてもいい』というのを契約条件に入れてもらいました」

──そんなことができるんですね。

 「交渉次第ですね。ただ、何チームか練習参加したんですけど、うまくまとまらなくて。1年のはずが、1年半になって、2年になって……。自分の思い描いていたようにはなりませんでした」
──うまくいかないことだらけなのに、それでも心が折れなかったのは?

「テストに行ったチームで『やれる』という手ごたえがあったんです。オーストリアのシュトルム・グラーツでも、デンマーク2部のチームに行った時も、コペンハーゲン相手に良いプレーができた。『やれる』とわかっているのに、諦めたら絶対に後悔するじゃないですか。あとは、僕を支えてくれた人の存在がありました。所属チームがない時から僕のことをずっとサポートしてくれる方がいて、『日本代表に入る』と言い続けていたんですね。普通は『こいつ何言ってるんだ』ってなるはずですけど、信じてくれて、お前ならやれるよって言ってくれた。そういう人がいなかったら、たぶん折れていたでしょうね」

──代表歴がまったくない、J1でプレーしたこともない選手が、日本代表になるというのは無謀な挑戦にも思えます。

「僕は日本での実績はないですけど、5大リーグでプレーしていれば無視はできないと思うんです。僕がずっと考えているのは、自分がどうなりたくて、それを達成するためには何をすればいいのかということ。小学校の時はプロになりたくて、そのためにはジェフに行こう。スペインに行きたいから、アルゼンチンに行こう。日本代表に入りたいから、ヨーロッパに行こう。目標に至るプロセスは明確に描いていました」

運命を変えたポーランド移籍

サラリーは10倍。ポーランドを経由してドイツに行っている選手も多い

──欧州挑戦から2年後の15年6月、ポーランド1部のポドベスキジェ・ビェルスコ=ビャワに移籍することになりました。どのようにして決まったんでしょうか?

「モンテネグロにいた時、ポーランド2部のチームに練習参加していたんです。その時に監督が気に入ってくれてオファーをもらっていたのですが、モンテネグロのチームが優勝争いをしていたことや、2部ということもあって断ったんです。そうしたら、その時の監督が1部に引き抜かれて連絡がきたんです。交渉の担当になったポーランド人の代理人に後から聞いた話だと、監督からは『あいつは1部でやれるからチェックしていてくれ』と言ってくれていたみたいです。ポーランドは地理的にドイツに近くて、そこを経由してドイツに行っている選手も多い。だからステップアップのチャンスは広がると思いました」

──ポーランドリーグの環境は?

 「モンテネグロとはまったく違いますね。毎回テレビ中継があって、(2012年に)EUROが開催されたのでスタジアムもきれいで、ダービーとか試合によっては3~4万人入ることもありました。そういう雰囲気はモンテネグロでは味わえなかったですね」

──サラリーも上がったんでしょうか?

 「モンテネグロの時の10倍以上になりました。モンテネグロは本当にお小遣い程度だったので。ただ、実を言うとリーグのレベル的にはそんなに変わらなかったんです。むしろ、モンテネグロの方が難しいと感じるぐらいでした。環境面が悪かったり、選手の意識が低かったりはあるんですけど、モンテネグロのレベルは低くないんだなというのは発見でしたね」

──モンテネグロでやれれば、ヨーロッパでもやれる?

 「と、思います。モンテネグロのサッカーは凄く激しいので、その感覚でやっていたらポーランドではファウルばかり取られて。監督からはスライディング禁止と言われたこともありました。お前は審判のブラックリストに入っているから気をつけろと。最初はその基準にアジャストするのが大変でしたね」

──「激しくやるな」とたしなめられる日本人選手がいるとは(笑)。ポーランドでは開幕戦でマン・オブ・ザ・マッチにも選ばれたんですよね。

 「そうですね。マン・オブ・ザ・マッチには何回か選ばれました。ポーランドの全国紙で移籍した中で良かった選手にも取り上げてもらいました」

──自分の中で道が開けてきたなという感覚はあった?

 「それでもここに2年以上いてはいけないというのはありました。環境的には良かったんですけど、自分がステップアップすることを考えると、年齢的にもリミットがあるので。僕自身は年齢を重ねたら動けないとは思っていないし、トレーニングよってレベルを上げられると考えているけど、獲る側は年齢を凄く気にしますからね」

移籍交渉の舞台裏

給料、移籍金、家、フライト。基本的なところは自分で聞く

──先ほど、ポーランド人の代理人と話をしたと言っていましたけど、移籍をする時はどのような手順を踏んでいるのでしょうか?

 「ユーロプラスインターナショナルという会社が日本の代理人なんですけど、ヨーロッパでの移籍に関しては他の代理人を通してもいいということになっています。というのも、チームを移籍する時に代理人が何人もいると相手に嫌がられることもあるんです。代理人への報酬の取り分で揉めたりして、移籍自体がなくなってしまうこともある」

──外国人の代理人とのやり取りは加藤選手が直接やるんですか?

 「そうです。給料はいくらで、移籍金はいくらで、家はつくのか、フライトはつくのかとか。そういう基本的なところは自分で聞きます。もちろん、最終的な契約内容などは、僕が信頼している日本人の代理人の方にも見てもらっていますが」

──日本代表候補になるような海外組で、そこまで本人がやっている選手はいないでしょうね。

 「良い選手はやる必要はないですからね。僕の場合はそのレベルにないので、やらざるを得ない。自分でやることで良い経験にはなっていますけど、言い換えればまだまだということ。もっと上に行けばその必要もないし、サッカーに専念できますからね」

──ヨーロッパでプレーしていて、言葉の重要性は感じますか?

 「モンテネグロに行った時は、半年で他の国に移るつもりだったので、モンテネグロ語を覚えようとしていなかったんです。英語の方が大事だろうと思って、英語を勉強していました。チームに1人ぐらい英語が話せる選手がいたので、その選手とばかりコミュニケーションを取っていたんですね。でも、1年が経ってモンテネグロ語も覚えようと思って」

──加藤選手の方から溶け込むための努力をしたんですね。

 「現地の言葉を話すのは凄く大切で、話せる言葉が少なかったとしても、話そうとすることで選手との距離が縮まるんです。これは個人的に感じたことですが、“サッカーで認められて越えられる壁”と、“現地の言葉を話して越えられる壁”は、また別のものがあるんです。サッカーで越えられる壁は限られている。良い選手だとしても、言葉がしゃべれないと厳しい。今まで英語を話せる選手しか声をかけてこなかったのが、モンテングロ語を覚えたら現地の選手も話しかけてくれるようになって、ピッチ上でのプレーもしやすくなりました。サッカーは世界の共通言語と言われているし、実際にそうだと思うんですが、より深く関わるには現地の言葉を話すことは重要です」

UAEから届いた高額オファー

ポーランド人には驚かれた(笑)。『俺だったら迷わず行く』と

──ポーランドでは主力として活躍していましたが、1シーズンで退団することになりました。

 「ポーランドのチームとは2年契約していました。ただ、2部に降格した場合は契約解除できるという条件だったので、フリーになったんですね。自分の中での最優先はドイツ。2部で興味を示してくれたチームもあったんですけど、正式なオファーには発展しませんでした。オファーをもらったのは、ポーランド1部の2チーム、ブルガリア1部のチーム。あと代理人経由でUAEのチームに興味はあるかとも聞かれました」

──UAEですか?

 「あっちではアジア枠になることもあって、日本人選手は価値が高いみたいです。ヨーロッパでやっている選手だったら間違いないだろうと。正式にオファーが来る前に、こちらから断った感じになったのですが、条件面はかなり良かったみたいです。基本給3500万円、家、車、フライト、ボーナスとかは別でつくとのことでした」

──お金のことを考えてUAEに行くという選択肢はなかった?

 「なかったですね。もしもそういう話が来ても断って、ヨーロッパの話を持ってきてくれと代理人には伝えました。ポーランドのチームメイトには驚かれましたけどね(笑)。『俺だったら迷わず行く』と」

──あくまでもヨーロッパでステップアップすることだけを考えているんですね。

 「そうです。だから、できるだけ単年契約にするようにしています。そうするとシーズンが終わったら契約満了になって、獲る側のハードルが下がるので。もちろん『違約金を出してでも欲しい』と言われるのが理想ですけど、年齢的なこともあるので、ハードルを上げてしまうと可能性が狭まってしまいますから」

──そして16年6月にブルガリア1部ベロエ・スタラ・ザゴラへ移籍しました。

 「ブルガリアのチームにした理由は、前年度3位でヨーロッパリーグの予備予選に出られるということ。6月に移籍したんですが、8月31日までにオファーがあれば、もう1回移籍してもいいという条件付きでした。ヨーロッパリーグで活躍して上のリーグの目に留まればと。残念ながら予備予選で敗退してしまったので、夏にすぐにステップアップすることはできませんでした」

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ハリルホジッチ発言に思うこと

あと一歩までは来たが、次の一歩は今までよりも距離が長い

──加藤選手の名前がメディアに出たのが、昨年9月29日の日本代表メンバー発表会見でした。ハリルホジッチ監督が「ブルガリアのカトウもチェックしている」と発言して、「誰だ?」となりました。

 「僕が一番驚きました。朝起きたら家族や友人からLINEが来ていて、『監督が言ってたよ』と。今までは5大リーグの選手以外は見てもらえてなかったと思うんです。どこでやってるというより、何をやってるということを評価してくれている監督なのかなとは感じました」

──ハリルホジッチ監督が就任してから、デュエルの重要性が言われてきましたね。偶然かもしれませんが、デュエルを強みとする加藤選手のプレースタイルとマッチした。これはチャンスですよね。

 「はい。デュエル、運動量、前に出て行くところが自分のストロングポイントだと思っています。相手の攻撃を摘み取りながら、タイミングを見て前に出て行きたい。チームの戦術もあるので、今はアンカーとしてどっしり構えていろと言われていますけど、攻撃参加は狙っています」

──自分のプレーを向上させるためにやっていることはありますか?

 「今はWyscoutやInStatといったスカウティングサイトと契約すれば、自分にまつわる試合はポーランド時代のものも含めて、いつでも見ることができるんです。僕も個人で契約して、自分のプレーはチェックしています。誰から誰へのパスが多いとか、そういうデータも見られるので」

──もしも加藤選手が日本代表に選ばれれば、これまでにない新たなルートを切り開いたことになりますね。

 「はい。敷かれたレールの上を行くのではなく、新しいレールを作りたいです。もし仮に代表に入れれば、こういうルートで挑戦しようという選手も出てくるはず。日本は、国内でプロになれなかったらそこでサッカーを諦めてしまう選手が多い。だけど、日本だけじゃなくて世界に目を向ければ、いろいろなところでサッカーができるし、日本代表になれるチャンスだってある。それを僕自身が示したいんです。何よりも日本代表に入って、日本で一番サッカーがうまい人たちの中で、自分がどれだけできるのか試してみたい」

──“第2の加藤恒平”を目指す選手も出てくるかもしれない。

 「自分がやった結果、そういうふうになればうれしいですね。あと一歩までは来たんですけど、次の一歩は今までよりも距離が長い。ただ、そういう壁を何度も乗り越えてきたので、今までと変わらず、今できることをやっていきます」

■プロフィール
Kohei KATO
加藤恒平(ベロエ・スタラ・ザゴラ)
1989.6.14(27歳)173cm / 70kg MF JAPAN

和歌山県出身。小学1年生で地元のスポーツ少年団でサッカーを始める。ジェフ千葉ジュニアユース、ユースを経て、立命館大学に進学。3年時にアルゼンチン留学を経験する。2012年にJ2のFC町田ゼルビアに加入し、29試合に出場。退団後、トライアウトを経てモンテネグロ1部ルダル・プリェブリャへ。2年目にはリーグ優勝に貢献し、ベストイレブンに選出された。15年6月、ポーランド1部ポドベスキジェ・ビェルスコ=ビャワに移籍。開幕戦でマン・オブ・ザ・マッチに選ばれる。16年6月、ブルガリア1部ベロエ・スタラ・ザゴラへ活躍の場を移す。173cmと大柄ではないが、運動量とボール奪取力に自信を持つ。

PLAYING CAREER
2012 Machida Zelvia
2013-15 Rudar Pljevlja (MNE)
2015-16 Podbeskidzie Bielsko-Biała (POL)
2016- Beroe Stara Zagora (BUL)

Photos: Podbeskidzie Bielsko-Biała, Beroe Stara Zagora, Kenichiro Kita

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J2インタビューヴァイッド・ハリルホジッチ加藤恒平日本代表

Profile

北 健一郎

1982年7月6日生まれ。北海道旭川市出身。『ストライカーDX』編集部を経て2009年からフリーランスに。サッカー・フットサルを中心としてマルチに活動する。主な著書に『なぜボランチはムダなパスを出すのか』『サッカーはミスが9割』。これまでに執筆・構成を担当した本は40冊以上、累計部数は70万部を超える。サッカーW杯は2010年の南アフリカ大会から3大会連続取材中。2020年に新たなスポーツメディア『WHITE BOARD』を立ち上げる。