ボリビアから吉本興業へ。レコバの控えとの出会い、YouTubeでのバズり…元サッカー選手芸人・マリンボブの南米挑戦記(後編)
10月に日本代表と親善試合を戦うことが決まったパラグアイ。この北中米W杯南米予選で4大会ぶりの本戦出場に王手をかけている中堅国でのプレー経験を、YouTubeショート動画で笑いに変えて100万回再生を達成した男がいる。サッカー選手から芸人へと転向した吉本興業所属のマリンボブだ。南米サッカーの「あるある」ネタでその名を轟かせつつある異色の経歴の持ち主に、ボリビア時代も含めた計8年間の挑戦を振り返りつつ、現在の活動の意義と展望を語ってもらった。
天啓を受けてボリビアに越境。「やり切った」選手キャリア
——パラグアイの後はボリビアに行ったんですよね。どのような経緯だったんでしょう?
「まずはもうサッカー辞めようと思って日本に帰ってきたんですよ。でもどうしようかなって考えてたら、父親とか母親が『次はどこの国に行くの?』みたいな感じだったんで続けていいのかなって。もうスペイン語も徐々に分かるようになってたんで、じゃあいっそスペイン行ってみるかみたいな感じでヨーロッパにチャレンジしてみようと思って、まず斡旋してくれる会社に電話をかけました。でも、その電話のコール音の途中で『いや、やっぱこれ南米だな』と」
——突然の天啓が(笑)。
「電話かけた途端に『いや、これ南米だわ』と。ヨーロッパじゃねえなと思ったんですよね」
——電話は切ったんですか?
「そのままスペインの斡旋を専門にしている人に『ちょっと南米を紹介してくれ』って言いました。向こうも専門外なので『いやいや、俺らはスペインだから』って言われながら。でもその人の知り合いがボリビアに住んでいるということで『連絡先教えるからじゃあね』ってつないでくれて。『あとはお前が自分で勝手にやっていいよ』って。だから『はい、わかりました!』と(笑)」
——原始的なエージェントですね(笑)。
「さすがに親からも『それ大丈夫なの?』みたいな感じで言われたんですが、さすがに文化的にも南米の感じに慣れてたんで、『ボリビアに着いて誰もいなかったら帰ってくるわ!』みたいな感じで行ったら、ちゃんとその人がいたんでよかったですね」
——だいぶ濃い始まりですね。ボリビアはパラグアイとは違いましたか?
「まったく違いますね。まずボリビアのほうが少し裕福な気がしました。パラグアイはもう首都だけが栄えていて、他はもう全然人がいないし貧富の差がすごかったんですけど、ボリビアはいろんな県があって、すべての県が割と栄えている感じで。ボリビアはそこが結構いいなと思いましたね」
——サッカー的にも違いましたか?
「サッカー的には『俺、ボリビアで行けるな』って思っちゃいましたね。ボリビアのシステムとしては全国の1部があって、その下は日本で言う県リーグみたいな形で州リーグがあって、1部に上がるためには州の1位か2位になって、そこから全国大会みたいなのに出るんですが、最初にテストを受けに行った時は州2部で、州1部のレベルを見てもここから上がって行けるなと思いました。でもシーズンが終わった後、試しにボリビア1部のテストを受けに行ったら『こんなレベル違うの?』ってなりましたね。州1部、州2部を見て行けるぞって思っちゃってたんですけど、全国1部を見ちゃうとこれヤバいな、もっと努力しないといけないなと。甘くなかったですね」
——3年半いらっしゃったんですよね。
「まずは州2部からだったんですが、その時に行けるなと思ったのも、州2部からの降格を僕が救ったんですよ。でもそこから州1部のチームに移籍しようと思って、ボリビア1部のテストを受けに行ったら、これまずいなと。そこで最後まで州1部リーグでプレーしてましたね」
——ちなみにサッカーを辞める決断をしたのは……。
「最後にプレーしたチームに、(アルバロ・)レコバの控えだったって言われてる選手がいたんですよ。ファン・ダニエル・サラベリーというウルグアイの選手なんですけど。その人が全盛期を過ぎて、当時はもう40歳近くでボリビアに来てたんですけど、それなのにめちゃくちゃうまくて。タイプ的には(ファン・ロマン・)リケルメみたいな選手で、こんなヤツいるんだって一緒にプレーしながら思っていたら、ユース時代からレコバの控えだったって聞いて。全盛期はスペインの2部くらいからしか話が来なくて、その後にボリビアでプレーしてコパ・スダメリカーナとかにも出ていたんですが、最終的には州1部まで降りてきて。それを見て『こいつでそこまでなんだ』って思わされましたね。『こんなバケモノなのにそこまでか』って。そこでもう無理かなって折れた感じですね。ただもう諦めようというよりは、もうやり切ったという気持ちでした。下手な自分のことは常にわかりながらも気持ちでは負けないって感じでやってたんで、最終的にはサッカー選手としてもうやり切ったなというのが大きかったです」

サッカー愛とお笑い脳から生まれた「あるある」ネタ
——2015年に引退して、どうして芸人になろうという決断をしたんでしょう?
「本当に正直、なりたくてなったわけでもなかったんですよね。日本に帰ってきて、とりあえず何をしようかなと思ってサッカースクールの面接に行ったら『社会人経験もないのに雇えないよ』って言われちゃって。『あっ、そうか!』みたいな。パラグアイだったらサッカーを30近くまでやってても、選手キャリアを重視して雇ってくれるのを見てたんで、日本もこの感覚なんだろうなと思ってたら違いました。それを知らなかったので、これやばいなと思って、普通のお仕事はできないんだなとなったので、じゃあこっち側の世界に飛び込んでいってみようかなというのがきっかけでした」
——海外帰りで芸人をするのも大変ですよね。
「まず最初はもう先輩の芸人さんの名前を覚えるのが必死でしたね。本当にわからなかったんで」
——テレビも見てきてないですもんね。
「サンドウィッチマンさんが優勝した年(2007年)からM-1の優勝者も2015年くらいまで知らなかったんで、そこから必死でYouTubeとかを見始めて、舞台の立ち方だったり、漫才のやり方だったりを学んでいきました」
——そこで徐々に今の芸風に?
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Profile
竹内 達也
元地方紙のゲキサカ記者。大分県豊後高田市出身。主に日本代表、Jリーグ、育成年代の大会を取材しています。関心分野はVARを中心とした競技規則と日向坂46。欧州サッカーではFulham FC推し。かつて書いていた仏教アイドルについての記事を超えられるようなインパクトのある成果を出すべく精進いたします。『2050年W杯 日本代表優勝プラン』編集。Twitter:@thetheteatea
