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ほぼ未経験のGKで入団したFC東京U-15深川。唐突すぎた青森山田への進学。ラインメール青森FC・廣末陸インタビュー(前編)

2023.08.10

廣末陸は華のあるGKだ。青森山田高校の3年時には、プレミアリーグでも高校選手権でも日本一を経験。いわゆる“鳴り物入り”のルーキーとして、中学時代を過ごしたFC東京でJリーガーとしての道を歩み出した。だが、そこからのキャリアは思ったような未来を描かない。他クラブへの期限付き移籍も経験しながら、J1とJ2でのリーグ戦出場は1試合も叶わないまま、2020年にクラブを退団。一昨年からはJFLのラインメール青森FCでプレーしている。自身にとっての“パワースポット”だと語る青森の地でいま、廣末は何を考え、どんな心境でサッカーと向き合っているのか。インタビュー前編ではサッカーを始めた小学生時代から、多くの人が彼を知ることになる高校2年生の選手権までの思い出を振り返ってもらう。

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名倉巧と安部裕葵は知っている“フォワード時代”の回想

――今日はキャリアをじっくり振り返っていただこうと思います。まずサッカーを始めたきっかけを教えてください。

 「僕はバスで幼稚園に行っていて、家へ帰る時にそのバスが来るのをみんな座って待っているんですよ。その時に園庭で幼稚園の“お残り”みたいな流れで、毎週サッカー教室をやっていたんですけど、それを見て親に『サッカーをやりたい』と言ったのがきっかけですね。それが3、4歳ぐらいの頃でした」

――小学生の時に入った中北少年サッカークラブは、地元の少年団ですか?

 「そうですね。そこには2年生の9月に入ったんですけど、幼稚園で入ったサッカー教室が小学校6年生まで幅があったので、僕が幼稚園の年長になった時には6年生の人とサッカーをやっていたんです。人数も少なかったので、上手い人は“飛び級”みたいな感じで、5、6年生と一緒にサッカーをやっていたんですね。それで僕は中北小学校に通っていたんですけど、中北少年サッカークラブは学校のチームで結構強かったらしくて、僕の父の地元の後輩の子どもがそこに入っていて、『かなり強いから来てみたら』と言われたみたいで、それで練習参加して入りました」

――サラッと「上手い人は“飛び級”みたいな感じで」とおっしゃいましたけど、それはご自身も幼稚園生の時に小6と一緒にやれるぐらい“上手い人”だったという認識で大丈夫ですか?(笑)

 「普通にやっていましたね(笑)。僕はもともと大きい方だったので。まあ正直5、6年生には通用しないですけど、コーチがそういう経験を積ませてくれたというか、かわいがってくれていた部分もあると思います。幼稚園の頃はゴムボールを使うんですけど、もう僕は4号球で普通にやっていました。ゴムボールだと飛びすぎて、教室の窓ガラスに飛んだら割れちゃうから、みたいな。その頃からキックやシュートは得意でした」

――その中北少年サッカークラブはどのくらいの強さだったんですか?

 「都大会は全部出たと思います。4年生で都大会があって、5年生でも2つの都大会があるんですけど、その1つで出られなかっただけで、6年生は全日(全日本少年サッカー大会)とひまわり杯があって、僕らの代は5つあった大きな大会のうちの4つで都大会に出て、全日だけ出られなかったんです。足立区だとぶっちぎりで優勝してしまうぐらいで、僕らの1ブロックはヴェルディレスチが強かったですし、リベルタというチームには名倉巧(V・ファーレン長崎)がいたんですよ」

――おお、のちのU-15深川のチームメイトですね。

 「そうです。あと、城北アスカというチームには安部裕葵(浦和レッズ)もいましたし、試合もよくやりましたよ」

――名倉選手と安部選手はやっぱり当時から上手かったですか?

 「ナグ(名倉)は本当に小さくて、テクニシャンで、今みたいなプレースタイルでした。裕葵に関しては、同じチームにもう1人上手い子がいて、そっちの方が目立っていたんですよね。今から考えると凄い選手がいたなと。その2人は僕のフォワード時代を知っているヤツらですね(笑)」

中学生からゴールキーパーを始めたきっかけ

――FC東京のアドバンススクールは深川グラウンドが会場ですよね。ここにはいつ入られたんですか?

 「小学校4年生の冬に入りました。ブロック選抜の交流戦を、深川の天然芝のグラウンドでやったんですよ。その試合に僕も参加していたので、そこで『スクールに来てみないか?』という話になったんですけど、それがちょうど木曜日だったんです。木曜日は僕らのチームの練習が休みだったので、ちょうど行けるということになったんですよね。その時もまだフォワードでした(笑)」

――ちなみにどういうタイプのフォワードだったんですか?

 「メチャメチャ点を獲る感じでした。それこそ4年生の都大会はナグと僕で得点王を分け合ったりしていましたね。とにかくシュートを打てば入る、みたいな感じでした。点を獲る感覚はあったかもしれないです。収めて、シュートを打つし、パスも結構得意で。スタミナはあまりなかったので、1試合通して活躍するのは難しかったですけどね。サッカーイコール『点を獲る』みたいな感じでした(笑)」

――そこからFC東京U-15深川に入られています。この経緯を教えていただけますか?

 「僕は中学からキーパーを始めたんですけど、アドバンススクールってキーパーがいないんですよ。フィールドの上手い子を集めたスクールなので、キーパーはみんなが交代しながらやるんですけど、自分にキーパーの順番が回ってきた時に、『結構面白いな』と思ったんですよね。

 やっぱり僕はキックが面白かったんです。シュートってあのゴールの枠内に蹴るものですけど、パスって大人で言えばピッチの100メートル×68メートルのどこに蹴っても良いわけじゃないですか。そう考えると、シュート以上にキックが生きるのはキーパーじゃないかなって。キックの種類も置きに行ったり、速いボールを蹴ったり、いろいろな弾道を蹴れますし、メッチャ楽しいなと。止めるのも実際に好きで、僕自身が点を獲るタイプだったので、『こういう時はだいたいこう来るだろ』みたいな予想とシュートが合ったりすると、それも楽しかったですし、身長も人より大きかったので、それでハマりましたね。

 中学校に上がる時に『キーパーならU-15深川の内定がもらえる』みたいな話になっていて、とにかくプロの下部組織に憧れていましたし、スクールで知り合った友達もみんな行くわけです。でも、実際に内定かどうかは直接子どもに言わないじゃないですか。それで父に呼ばれたら、『オマエ、キーパーはやりたいか?』と神妙な顔をして言われて(笑)。僕はそれまで父に『キーパーをやらせるためにスクールに行かせてるんじゃないんだ』とか言われていたんです。しかもおばあちゃんがキーパーグローブを買ってくれた時にもメッチャ怒られて、『オマエはキーパーじゃなくてフォワードだろ』とか言われたんですけど、隠れてキーパーをやったりしていたんです(笑)。

 その頃に僕自身はもうキーパーにハマっていたんですけど、父にはキーパーがどれだけ止めても、1点決めたフォワードがヒーローになるという考えもあったみたいで、『やるんだったらフォワードの方がいいんじゃないか?』とも言われたんですけど、僕は即答で『キーパーでいいからFC東京に行きたい』と言って、それでFC東京に行くことになりました」

――今から考えると、そこは人生の大きな分岐点ですね。

 「そうですね。でも、迷いは一切なかったです。それこそ『あの時、フォワードをやっていれば……』とはジュニアユースの3年間で思ったこともなかったですし、全然後悔はしていないです」

強烈なライバルと切磋琢磨し続けたFC東京U-15深川での日々

――当時のU-15深川のキーパーが3年生に伊東倖希(レイラック滋賀FC)、2年生に松嶋克哉と円谷亮介で、同級生に山口瑠伊(水戸ホーリーホック)と。このメンツ、凄くないですか。

 「凄いですよね。しかも、その時はコーチとして山下渉太さんと浜野(征也)さんが来ていて、メチャメチャ厳しかったですけど、その2人につきっきりで教わったというのは本当に恵まれていたなと思います。でも、僕は身長が大きいからと思ってキーパーになったのに、みんな180センチ近い感じでしたからね。僕はジュニアユースの一番最初の練習に行った時に、瑠伊を3年生だと思って敬語で挨拶しに行っているんですよ。『いやいや、オレも1年生で今日が初めてだから』『ああ、同い年?』みたいな(笑)。瑠伊は当時ケガが多かったんですよね。僕は3年間で1回もケガをしなかったので、試合は僕が出ていましたけど、本当に良いライバル関係でした。お互いにないものを持っている感じでしたね」

FC東京U-15深川時代に廣末陸のチームメイトだった山口瑠伊。フランス、スペインのクラブを経て2022年に日本復帰を果たした

――下級生の頃は伊東くんや松嶋くんが試合に出ていた感じですか?

 「1年生の頃は倖希くんがずっと出ていて、2年生になった頃はかっちゃん(松嶋)がレギュラーで、円谷くんと僕がサブに入っていたんです。その時の監督が奥原(崇)さんだったんですよ。1年生の頃は僕らの学年に奥原さんがつきっきりで指導してくれて、その時の監督は山口(隆文)さんがやっていたんですけど、2年生から奥原さんが監督になったので、1年生の時に良かった選手を上の学年のチームに上げてくれたりした中で、僕は『なんで上げてくれたんだろう?』とずっと思っていたんですよね。関東リーグでもキーパーを2人ベンチに入れてくれたりしていたんですけど、試合には出られないじゃないですか。キーパーもサブに2人いらないだろうと。

 でも、今から思えばそういう環境に置いてくれていたんだなって。やっぱり飛び級であろうと、試合に出られないのは苦しいんですよ。1年生の試合にはずっと出ていましたし、それこそ小学校の頃もずっと試合に出ていたので、初めてベンチという経験をして、最初は正直腐ったりもしていました。『なんでオレがボトルやビデオ撮影をしなきゃいけないんだ?』って。でも、徐々にそういうことにも慣れていって、3年になって瑠伊とポジション争いをしていくんですよね。3年の時は夏のクラブユースまでスタメンを外れていたのに、帯広に行く前にあった事前合宿で調子が良くて、そのままクラブユースの全国大会もスタメンで出たんです」

――それでも、U-18には上がれなかったわけですよね。

 「今でもたまに夢に出てくるんですけど、練習だったか練習試合の前に面談があって、そこで昇格かどうかを言われるんですけど、僕の前の面談の順番が瑠伊だったんです。それで僕が1回ロッカールームに行って、荷物を置いてから監督室に行こうと歩いていたら、瑠伊が上機嫌な感じで、メッチャ嬉しそうな顔でキックの練習をしていたんですよ(笑)。その時に『あ、これは絶対に瑠伊はユースに行ったな』と思ったんです。それでその後に『オレはどうなるんだろう……』と思って面談に行ったら、当時のアカデミーダイレクターだった大熊清さんから『ユースには上がれない』と言われたんです」

大熊清ダイレクターに突然提示された“青森山田”という選択肢

 「そこで頭が真っ白になって『マジか……、どうしよう……』と。ただ、面談の前に『一応進学希望の学校を第3希望まで出してくれ』と言われていて、僕は流経(流通経済大柏)、山梨学院、関東第一の3つに決めていたんです。なのに、その希望の紙を出す前に大熊さんから『オマエ、青森山田高校って興味あるか?』って(笑)。当時の青森山田は僕が入る年に3年生になるはずだった人がやめてしまって、キーパーがいないと。だから、『良いキーパーだったら1年生からどんどん使いたいと監督が言っているらしい。オレはオマエにピッタリだと思うんだけど』と言われて、『いやいや、ちょっと待ってください。まだ気持ちの整理ができていません』と(笑)

 そもそも、まずユースを落とされて、頭が真っ白な中で、とりあえず希望校は3つ出しましたけど、高校サッカーもそんなに見たことがなくて、僕はクラブユースの方が上だとずっと思っていたようなタイプだったので、正直高校は全然考えていなかったですし、選手権も生で見に行ったこともなかったんです。それこそ青森山田に入学が決まった年の、田中雄大さん(サンフレッチェ広島)の代の試合を、自分が入るからということで見に行ったぐらいで、それが最初の選手権観戦だったんです」

――なるほど。選手権にそもそも憧れがなかったわけですね。

 「まったくなかったです。クラブユースはプロの下部組織ですし、“選ばれた者”というイメージでしたから。そんな中で『青森山田はどうだ?』と言われて、『とりあえず練習参加させてください』と。それで先ほど話したクラブユースの前の事前合宿があって、その時に結構な試合数をやったんですけど、僕が出た試合は1回も負けずに、そのまま全国大会もスタートで使ってもらって、メチャメチャパフォーマンスが良かったんです。

 その前までチームは関東リーグも最下位を争うぐらいで全然勝てなくて、しかもグループステージでガンバ、モンテディオ、サンフレッチェがいたのに、僕が出てガンバとモンテディオに勝ったので、サンフレッチェ戦には瑠伊が出て、決勝トーナメントでヴェルディに勝って、冨安(健洋)がいたアビスパに勝って、次に堂安律がいたガンバにまた勝っちゃって、決勝はマリノスにやられたんですけど、その時に確か正木さん(正木昌宣・現青森山田高校監督)が試合を見に来てくれていたんですよね。それでみんなが東京に帰っていく中、僕は帯広から特急電車で8時間ぐらいかけて青森まで行ったんです(笑)」

――うわ~、帯広って北海道の中でもかなりアクセスが難しいところですからね。

 「お父さんと2人で8時間かけて青森まで行って、そのまま練習参加するかと思いきや、練習の前に黒田(剛)監督に呼ばれて『特待生で用意しているから、是非ウチに来てくれ』と。まだ練習もしていなかったので、『え?僕のプレー見ていないですよね?』みたいな感じですよね(笑)。その時にAチームの練習にも参加させてもらって、菊池流帆さん(ヴィッセル神戸)とか山下優人さん(いわきFC)がいたんですけど、メチャメチャ先輩たちが怖かったです。

 そんな人たちに『グラウンドに入ったら全員呼び捨てだから。呼び捨てにしろ』と言われたんですけど、中3の僕が絶対に呼び捨てなんかできるわけないじゃないですか(笑)。会ったこともない人たちでしたし。でも、その時に『ここはピッチのオンオフがそんなにしっかりしているんだな』って。山田はピッチ外では先輩に“さん”付けじゃないといけないですし、挨拶も上級生が来たら『こんちはっ!』みたいな感じで、凄い挨拶の仕方なんですよ。でも、ピッチに入ったらタメ口でという、そういう“人生懸けてる感”みたいなところに惹かれたんです。寮生活も楽しそうでしたし、先輩の部屋も見せてもらったら、彼女との2ショットの写真を壁に画鋲で刺していたりして、『おお、青春じゃん!』って(笑)。もうその時に山田に行くことを決めました。

 それで僕が青森に行くということで、友達が送別会を開いてくれることになって、映画を見に行ったり、カラオケに行ったりしたんですけど、そのカラオケボックスにいた時に知らない番号から電話が掛かってきて、出たらそれが正木さんで『オマエ、いつまで東京にいるんだ?』『いや、来週が中学の卒業式なので、それまではこっちにいて、そのあとで青森に行こうと思っています』『いや、もうプレミア始まるぞ。Bチームが金沢に遠征しているから、明日行けるか?』と言われて、『ちょ、ちょっと待ってください。親に相談するんで』と言って、親に話したら『行けばいいじゃん』って(笑)。

 卒業式は出たかったですし、クラスみんなで集まろうみたいな予定もあったのに、それを全部断って金沢に行きました。僕の卒業証書は母が受け取っていますから(笑)。それで入学式の1週間ぐらい前に、もうプレミアが開幕したんです。開幕戦はアウェイの流経戦で、その試合は前半に3失点したんですけど、負けていた後半から僕が出たんです。後半は山田が2点獲って、結局2-3で負けたんですけど、そこからスタメンで使ってもらえるようになりました」

1年生から名門校でレギュラーを掴む

――開幕戦で後半から出るというのもなかなか凄い采配ですね。

 「そんなの、普通はないじゃないですか。『マジ?0-3で後半から出るの?』って。しかも相手はもともと第1希望だった流経で、応援のスタンドにメガホンを持っている人がいて、キックミスしたら煽られて、『ああ、これが高体連か。嫌いじゃないな』って(笑)。それで『高校サッカー、いいな』と思いました。

 そのあとの市船戦で僕が結構前に飛び出していたことで、相手のロングシュートが入ってしまって、一度スタメンを外されたんです。その次の試合はアイスタでのエスパルス戦で、先輩が試合に出たんですけど、また3点ぐらい取られて負けたんです。その次のコンサドーレとのアウェイゲームでスタメンに復帰して、そこからは全試合出してもらいましたね。かなり自分のことをちゃんと見てもらっていたなと思います」

――1年生のインターハイはセンセーショナルな活躍だったと思うんですね。最初の2試合でPKを5本止めましたし、初めての全国大会でベスト4まで勝ち上がったと思うんですけど、あの大会は青森山田でご自身がプレーしていく上で大きな大会でしたか?

 「僕はそもそも高校サッカーに憧れがなかったので、もう正直なところ選手権しかわからなかったんです。当時はFC東京U-18もプリンスリーグだったので、『ああ、プレミアってその上なんだ』ぐらいの感じでやっていたので、気付いたらもう夏だったという感じで、その頃は『これが全国大会だ』と考えるほどキャパも余裕もなかったですね」

――準決勝は東福岡高校に負けましたけど、あのチームはここ10年の高校サッカー史に残るようなチームだったのかなと。やっぱり強かったですか?

 「雰囲気に圧倒されていましたね。あの頃の山田は“万年ベスト16”みたいなイメージがあった中で、勝ち上がっていって、これに勝ったら決勝ということで、もうみんな平常心じゃないんです。前半は絶対にしないようなミスも出て、3失点ですよね。結局1-3で負けたんですけど、後半は良いゲームができたのに、前半はガチガチで飲まれてしまって、ヒガシのクリロナと言われていた増山朝陽くん(V・ファーレン長崎)、中島賢星くん(奈良クラブ)、赤木翼くんもいて、もう完全に袖を詰めた胸板の凄い東福岡のユニフォームに圧倒されました。

 実は山田もそれまではナイキのユニフォームだったんですけど、インターハイが終わった後に僕らも袖を詰めましたからね(笑)。あの時は高校サッカーでは東福岡以上に強いチームはないなと思いました。それこそ流経以上に勢いを感じましたし、東福岡って西のチームなのであまりやることがないんですよね。流経や前橋育英は東なので、フェスティバルとかでも当たるんですけど、九州のチームとはあまりやることがないですし、『もっとやれることがあったんじゃないかな』と試合が終わった後にメッチャ後悔しました。ただ、初めての全国大会でメダルをもらったこともありましたし、山田自体がベスト4に入ったことも久しぶりだったので、みんな結構手応えを感じていましたね」

――ただ、選手権はまさかの初戦敗退でした。

 「優勝候補だと言われながら、1回戦で中津東に負けてしまいました。アレはメチャメチャ悔しかったですね。高校生になって引退が懸かった試合というのは初めてじゃないですか。みんな試合が終わった瞬間に号泣して、あんなに怖かった先輩たちがみんな涙を流して、監督やコーチも泣いていますし、僕は気付いたら試合が終わっていたような感覚で、もう放心状態ですよね。でも、こういう先輩たちがいる中で、自分は試合に出ているんだなって思いましたし、もっとやれたんじゃないかとか、いろいろ感じた部分はありました。しかも、僕は人生であの試合以外のPK戦に負けたことがないんですよ。悔しかったなあ」

「もうFC東京とやる試合は、全部メチャメチャ気合が入っていました」

――2年生になってすぐに年代別代表に選ばれましたね。

 「韓国遠征で大学生と試合するトレーニングキャンプに初めて呼ばれました。その時のキーパーコーチが浜野さんだったんです」

――そうですか!やっぱり年代別代表に選ばれたことは嬉しかったですか?

 「自分にも徐々に自信を得て、手応えもあった中で、まず1年の冬にナショナルGKキャンプに呼ばれたんです。そこでいわゆる代表に入るような人たちと一緒になって、自分の得意なことも通用しましたし、自分の可能性を凄く感じられるようになったんです。僕は中学の頃から代表とは無縁で、『何でオレは呼ばれないんだろう?』と思いながらずっとやってきたので、かなり嬉しかったですね。まだトレーニングキャンプだったので、日の丸の付いたユニフォームでの試合はなかったですけど、かなり特別な想いはありました。

 その時に柳貴博くん(FC琉球)も一緒に選ばれていて、僕の深川の1つ上の先輩でしたし、いろいろと良くしてもらっていたので、『こんなところでまたFC東京の人と一緒にやれるんだな』と思いましたね。その時は上の学年の代表で、2個上の早生まれまでいたチームだったので、小島亨介くん(アルビレックス新潟)もいたんですけど、いろいろなキーパーコーチに教わることにも、代表のキーパーからも刺激も受けながら、という感じでした」

――プレミアでFC東京U-18とホームでやったゲームが7月12日ですね。これが自分が上がれなかったチームと初めて対戦した試合でしたが、やっぱりメチャメチャ気合が入っていましたよね?

 「もうFC東京とやる試合は、全部メチャメチャ気合が入っていました。僕は結局ユースに上がれなかった人間なので、『これで負けたら本当に“負け組”だ』と思っていましたし、これで勝てば『ユースに行かないで山田に来て良かった』と思えますし、僕はもう反骨心だけでやってきたので、『絶対に見返してやる』と。

 FC東京のみんなに『ユースに上げれば良かった』と思わせるために必死に頑張ってきたので、波多野豪や山口瑠伊がユースでやっている以上にキツいこともやってきたはずだし、『ここで負けてしまったら、それも何の意味もない』というぐらいのメンタリティでずっとやってきたので、やっとFC東京がプレミアに上がってきてくれて、最高の舞台で試合ができると。僕がお世話になったジュニアユースの頃のスタッフも試合を見に来てくれますし、『ここで勝たないといつ勝つんだ』って。たぶん選手権の決勝より気合が入っていましたね。本当にそれぐらいの試合でした」

――結果的にはFC東京U-18とは4回対戦して、そのうちの3回に出場していて、全部勝っていると思うんですけど、最初の試合が一番気合が入っていましたか?

 「いや、全部等しく気合は入っていました。本当に死ぬほどキツいことをしてきて、どこと試合をやる時もそうなんですけど、『オレらの方が絶対サッカーに人生を懸けてるし、やりたくないこともやってるんだから、絶対に負けるわけがない』というメンタルでやっていたので、負けたら今までやってきたキツいことも意味がなくなってしまいますし、それを否定されるわけじゃないですか。とにかくその正しさを証明するために、必死にやっていましたね」

――相手のキーパーが波多野豪だったということも、やる気を掻き立てられましたか?

 「もう相手自体がFC東京なので、キーパーが豪だろうと瑠伊だろうと、絶対に負けたくないと。気が狂いそうになるぐらい、とにかく気合が入っていました」

“廣末陸”を世間に印象付けた2年の高校選手権

――2年の選手権は“廣末陸”という選手の名前を多くの人が知るきっかけになった大会なんじゃないかなと思うのですが、ご自身はこの大会をどう振り返りますか?

 「あの大会は神谷優太さん(清水エスパルス)が注目されていた印象がありましたね。でも、確かにあの頃は代表にも入れるようになっていましたし、小川航基くん(NEC/オランダ)とのPKもありましたしね。でも、最後はナグにやられるんですよ(笑)」

青森山田時代の廣末陸

――そうなんですよね。準決勝の國學院久我山戦は劇的な負け方で。皮肉なものですね。

 「澁谷雅也(FC大阪)も小学生から知っていましたしね。その頃は昔からのチームメイトや対戦相手にいる友達と試合するのが凄く楽しくなってきていたんです。中学生の時はそんなになかったんですけど、高校生になってからはそういう機会が凄く増えてきて、それは僕の中でモチベーションを上げる1つの材料でしたね」

――3回戦の桐光学園戦はかなりインパクトがありましたけど、ご自身にとっても高校生活の中でも印象に残っている試合ですか?

 「高校生活の全部の試合の中で、あの試合の桐光が一番強いと思いました。正直、試合内容も含めて僕らに勝てる要素は1つもなかったので。原山海里さんのロングスローがなければ絶対に勝っていないですよ(笑)。試合中には決定機をバーにも当てられましたし、それを考えれば何もできなかった80分でした。

 でも、『選手権ってこういうものなんだな』って。ちょっとしたことで勝敗は変わるというか、もう奇跡じゃないですか。あんな試合を探せと言われても探せないぐらいの試合ですし、僕も小川航基くんのPKを止められましたからね。代表でもPKの練習はやっていたので、向こうは相当やりにくかったと思いますし、試合中のPKも外していますから。アレを試合中に決められていたら、ハットトリックでしたからね。あの試合は絶対にメチャメチャ点を獲る能力が誰よりも高いことをみんながわかっているはずなのに、それでも小川航基くんにやられるという衝撃はありました」

――でも、あの試合は原山海里の方が衝撃でしたよ(笑)

 「アレからロングスローが流行りましたからね(笑)。プロでもやり始めたぐらいですから。アレは凄かったです」

――準決勝で名倉選手がいた國學院久我山に負けたとはいえ、3位になったわけじゃないですか。それまではなかなか青森山田が選手権であそこまで行くことは多くなかった中で、その結果は自信になりましたか?

 「その年のプレミアは2位だったんですけど、プレミアであれだけ戦えていて、選手権で負けたことはメチャメチャ悔しかったですし、その時も僕らは優勝候補と言われていて、久我山はダークホースだったじゃないですか。あそこまで行くって思っていた人は少なかったはずですし、僕らも久我山が来るイメージはなかったんです。それにロスタイムで僕らも良い想いをしてきた年だったので、最後にロスタイムでやられるかって。

 あの時の失点はスローモーションみたいでした。コーナーキックのこぼれから、シュートを打たれて、『全然取れる』と思って、左に動いた瞬間にコースが変わって、もうそれを眺めているだけ、みたいな。もうアレは忘れられないですね。しかも埼スタで、あれだけ観客も入っている中で、ロスタイムにやられて。だから、その次の年は『ロスタイムで絶対にやられないぞ』という教訓を刻んでいました。あの試合も半分ぐらいが2年生だったので、次の年にとっては良い経験でしたけど、優勝できると思っていたので、メチャメチャ悔しかったです。知っている人間に負けるのが一番悔しいですよ(笑)」

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Photos: Getty Images

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廣末陸青森山田高校

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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