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【横浜F・マリノス 榊原彗悟インタビュー】「良いキャリアを歩めている」。ラインメール青森での4年間を経て

2023.03.27

2023シーズン、ラインメール青森FCへの期限付き移籍から横浜F・マリノスに復帰した榊原彗悟。ジュニアユースから横浜F・マリノスに在籍し、Jユースカップでは日本一も経験。しかし、トップチームへの昇格を逃し、プレーする場を青森に求めることになる。当初は「メンタル的にも凄くキツかった」青森の地で、彼は何を経験し、どのような成長を経て古巣へと戻ってきたのか。

トップチーム昇格を逃して

――5年ぶりに復帰したF・マリノス、率直にいかがですか?

 「自分がいない間に2回もJ1王者になっていて、自分がいた時ももちろん素晴らしいクラブでしたけど、さらにひと回り大きくなったという感じが印象的ですね」

――やっぱり周囲のレベルも高いですか?

 「そうですね。素晴らしいレベルでトレーニングをやらせてもらっているので、毎日が楽しいです」

――ユースで同期だった木村卓斗選手も同じタイミングで帰ってきました。

 「ポジションが変わっているのはビックリしました。何回か明治の試合も見に行ったりしていて、その時にボランチをやっているのは見ていましたけど、自分の中ではサイドバックの選手というイメージで、まだ見慣れないところはあります(笑)」

――もともとF・マリノスとの接点はジュニアユースだと思います。小学生時代のレジスタFCではダノンネーションズカップで日本一とMVPを獲ったりと活躍されていましたが、埼玉に住んでいましたよね。

 「はい。当時F・マリノスのスカウトだった尾上(純一)さんという方がレジスタの練習を見に来てくれて、声を掛けてもらいました。最初は距離的にも凄く遠かったので、どうしようかなという想いはありましたし、他のJリーグのクラブからも話があったので、いろいろ考えたんですけど、当時はマリノスタウンという素晴らしい施設があって、トップチームを間近で見られる環境だったので、そういうところにも魅力を感じて『このクラブが良いな』と思ったのと、尾上さんにも良い話をしていただいて、レジスタの監督にも相談して、『マリノスがいいんじゃない?』という言葉も戴いたので、親には多少迷惑をかけてはしまいましたけど、最後は了承してもらいました」

――ご自宅から1時間半ぐらい掛けて練習に行かれていたんですよね。

 「はい。移動中もテスト前は勉強したりしていました(笑)。あとは同じ方面から来ているレジスタの1つ上の先輩もいて、一緒に帰ったりしていましたね。帰りの時間が遅くはなりましたけど、父が乗り換え駅で待ってくれていたりしたので、そこまで苦ではなかったです」

――ユースでは3年生の頃の活躍が印象的でした。

 「高3は充実した年だったんですけど、高1は試合になかなか絡めなかったです。でも、その時も国体がありましたし、自分が出場する場はあったので、成長できたところはあったんですけど、高2の1年は悩んだ年で、他の同級生の選手は結構試合に絡み始めているのに、自分は出られなくて、ポジションも当時はボランチをやりながら、トップ下をやりたい気持ちもあったので、いろいろと苦しんだ所はありました」

――Jユースカップでは日本一にもなりました。

 「中3でもクラブユース選手権で優勝したんですけど、ユースから一緒にやっていた仲間もたくさんいたので、そういう選手たちと日本一になれたことが嬉しかったですし、夏まではあまり良い結果を残せなかった中で、そこからチームとして凄く成長してそういう結果が出たので、凄く嬉しかったです」

――おそらくその3年生の夏頃にトップチームへは昇格できないという通達があったと思いますが、その時はどういうことを思いましたか?

 「悔しさはもちろんありましたけど、それこそトップに上がった(椿)直起や(山谷)侑士を見ていると、自分にまだまだ力がないことは感じていたので、仕方ないとも感じていました。やっぱり一番の弱みはフィジカルの部分で、あとはその時もボランチをやっていたので、あの体格であのポジションをやるのも、当時はちょっと厳しい部分もあって、自分の良さも生かし切れていなかったと思います」

――その次の選択肢は大学かなと思いますが、大学には進まなかったんですよね。

 「2つぐらいの大学の練習参加には行きました。その時には良い評価を戴けたんですけど、そのあとのクラブユース選手権でチームも個人もあまり良い結果が出なかったので、そこで大学側からも良い返事をもらえなかったんです。大学に行くなら、その練習参加をした2つがいいなと思っていたので、そこで大学という選択肢もなくなりました」

――そこから海外でのプレーを模索されると。

 「はい。小学生の時にアルゼンチンに2週間ほどサッカー留学したことがあって、凄く楽しかったんです。その時にいろいろ協力してくださった方が、ずっと僕のことを気にしてくれていて、トップに上がれないことがわかった時に父を通じて自分から連絡したら、いろいろ動いてくれるということで、当時の自分に明らかに足りなかったのはフィジカルの部分だったので、そういうところを強化するという意味で、『一度海外で揉まれてみるのはどう?』と言ってもらったんです。その話に対して親も『いいんじゃない』と言ってくれたので、自分でも挑戦してみようと思いました」

――それで10月ぐらいにメキシコのケレタロというクラブに練習参加したと。

 「そうです。アンダーカテゴリーのチームへの練習参加でした。やれた部分もたくさんあって、手応えは結構ありましたけど、『評価はしていただけたけど……』という感じだったんだと思います。もちろん外国人枠もありますし、自分もそこまで詳細はわからなかったですけど、オファーには至らなかったです」

「ここからもう一度這い上がろう」

――メキシコから帰国して、Jユースカップで日本一になって、そこから再びトップ昇格を懸けて、F・マリノスのトップの練習に参加するんですね。

 「はい。Jリーグの開幕前で、確かキャンプが終わった後でしたけど、F・マリノスのトップの練習に参加させてもらいました。Jユースカップで結果を残したことで、強化の方々の自分への見方も変わったのかなとは思うんですけど、開幕前だったこともあって紅白戦にも出られなかったですし、アピールする場はあまりなくて、手応えを掴むまでにも至らなかったです」

――そこからJFLのラインメール青森へ、という進路はかなり唐突な気がするのですが、ここはどういう流れだったんですか?

 「それもF・マリノスの方から連絡が来て、『ラインメールの練習に参加してみない?』と。当時、ユースの先輩の西山大雅くんもいたので、チーム自体の名前は知っていましたし、『一応参加してみよう』という感じで、2月のキャンプに参加しました」

――たぶんその1か月ぐらい前には、JFLのラインメール青森の練習に参加するなんて想像もしていなかったはずですけど、そこは自分の中で受け入れられたんですか?

 「自分の中で難しいところもあったんですけど、『とにかくサッカーができる環境にいないとダメだな』と思ったので、『行ってみようかな』と思いました」

――おそらくは縁もゆかりもなかった青森という土地に行くこと自体は、ご自身の中でどう捉えていたんですか?

 「自分はかなり寒がりなので、青森に行く時はそこだけが怖かったです(笑)」

――寒がりなんですね(笑)。加入1年目のリーグ戦は1試合も出場していませんね。この頃は苦労した時期ですか?

 「そうですね。厳しい1年でした。メンタル的にも凄くキツかったですし、あまりサッカーを楽しめなかったです。それまでは比較的トップレベルと言われるような環境でサッカーをやらせてもらってきた中で、JFLという舞台に行って、現状の自分の立ち位置を受け入れられていなかったと思います」

―そういう時期の心の支えや拠り所はどういうものだったんですか?

 「それこそF・マリノスです。『いつかはあそこに帰りたい』という想いがあったので、そのために頑張るしかないなと思っていました」

――3年目は飛躍的に出場時間も伸びて、リーグ戦初ゴールも決めています。

 「あの年は一番成長できた実感がありました。今もF・マリノスのコーチをされている安達亮さんが監督だったんですけど、あの1年で亮さんに出会えて、いろいろなことを教えてもらえたことで、本当に成長できた、忘れられない1年になりました。ボールを大事にするサッカーだったので、自分の良さをたくさん出せるスタイルだったことが大きかったですね。その中でフィジカル的にもようやく身長も伸び切ったぐらいで、まだ細さはありましたけど、JFLという大人のサッカーのフィジカルにも慣れてきて、やっと自分らしさを取り戻せたのかなと思いますし、今いる場所を自分で理解できたというか、『ここからもう一度這い上がろう』という気持ちはあったので、自然と変なプライドは取れていったのかなって」

「活躍することによってラインメールという名前を広めることができる」

――その3年目のシーズンが終わったタイミングで、F・マリノスからオファーが来るわけですよね。その事実をどういうふうに捉えたんですか?

 「最初は嬉しいという想いと同時に、やっぱりビックリしましたね。ユースを卒業してからも毎年チーム統括部の方に挨拶には行っていたんですけど、その年はクラブに呼ばれて、『毎年恒例の挨拶だな。また来年のことをちょっと話すんだろうな』と思っていたら、条件を提示された紙を出されて、『え?』という感じでした(笑)」

――ずっとF・マリノスに戻ることを支えにして頑張ってきた中で、それが実現した時というのはあまり現実味がないものですか?

 「そうですね。本当に信じられないような感じでした。その紙を渡された時も、『え?』と口に出して言ってしまって(笑)、チーム統括部の方からも『こうなると思ってなかった?』と言われました。正直『このタイミングか』というのはあったので、とにかくビックリしました」

――周囲の方もメチャメチャ喜んでくれたんじゃないですか?

 「やっぱりジュニアユース時代もユース時代も、F・マリノスを応援してくれていた方がたくさんいて、たくさんのメッセージも戴きましたし、そういう方々は僕がラインメールにいた時もずっと気にして下さっていたので、そういった方々に良い報告ができたことは良かったなと思います」

4シーズンぶりに横浜F・マリノスでプレーする榊原彗悟(写真右)

――昨シーズンの1年は期限付き移籍という形でラインメールに在籍されていましたが、やはりラインメールでプレーすることの意味を噛み締めた年でもありましたか?

 「そうですね。高校を卒業して、自分がサッカーをやる場所がない時に居場所を与えてくれたチームなので、そのクラブに恩返しするためには、やっぱりJ3に昇格させることが一番だと思っていたので、そのために頑張りましたけど、結果的に昇格できなかったことは申し訳ないなと思っています。でも、ラインメールのためにしっかりと戦えた1年だったと感じていますし、まだ恩を返し切れていない部分は、これから自分が活躍することによってラインメールという名前を広めることができると思うので、そういう意味でもまだまだ頑張りたいと思っています」

――改めてラインメール青森で過ごした4年間は、ご自身にとってどういう時間でしたか?

 「本当に大切な4年間でした。もちろんサッカーの技術やフィジカルの部分でも成長できましたし、これからもっともっと活躍した時に『あの4年間は大切だったな』とより思えるはずなので、自分にとって大事な場所でした。青森は自然も豊かで、ゴハンも美味しくて、本当に良い土地でしたし、寒がりな部分もだいぶ変わったと思います(笑)」

――おそらくは思い描いていた通りではないキャリアを辿って、今年からF・マリノスに戻ってきたわけですが、ここまでの自分のサッカーキャリアを、今はどう捉えていますか?

 「もちろんユースの時に思い描いていたものではないかもしれないですけど、凄く良いキャリアを積んでいるなとは思っています。苦しんだこともありましたけど、その分だけちゃんと成長して、試合にも出られて、こうやってJ1王者という素晴らしいクラブに帰ってくることができて、まだまだこれからですけど、今のところは良いキャリアを歩めていると思います」

――今の自分がF・マリノスで成し遂げたいことはどういうことでしょうか?

 「このクラブのために戦いたいです。僕はこのクラブが大好きなので、このクラブにタイトルをもたらしたいですし、自分もアカデミーの頃はF・マリノスのトップチームの選手を見て『こうなりたいな』と思うことがたくさんあったので、今度は自分がそう思われる立場になれるとも考えていますし、そういう夢を与えられるような存在になれたらいいなと思います」

――やっぱりF・マリノスのエンブレムの付いたウェアを着るとしっくり来ますか?

 「はい。しっくり来ますね。自分ではそう思っています(笑)」

Photos:©️Y.F.M.

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榊原彗悟横浜F・マリノス

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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