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“昇格請負人”と呼ばれるプロ監督の揺るぎない信念。ギラヴァンツ北九州・小林伸二スポーツダイレクターインタビュー(後編)

2023.06.21

自身の代名詞とも言うべき『昇格請負人』という肩書は伊達ではない。大分トリニータに始まり、モンテディオ山形、徳島ヴォルティス、清水エスパルス、そしてギラヴァンツ北九州と、5つのクラブに昇格という名の歓喜をもたらしてきたのだから。だが、この男の携える信念を知るためには、それ以前に辿ってきたキャリアを理解する必要がある。初めてサッカーと出会って早50年。究極の“サッカー小僧”・小林伸二がその半生を振り返るインタビュー。後編は『昇格請負人』と呼ばれるようになっていく過程で、それぞれのクラブで感じたことや直面した苦悩について語ってもらう。

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途中就任でJ1残留を果たしたセレッソでの1年目

――トリニータの次はセレッソの監督に就任しています。

 「2003年にトリニータをJ1に残してフリーになったんですけど、2004年のシーズン途中でセレッソ大阪から話が来たんですよね。その少し前にJリーグの解説を担当したんですけど、それはセレッソが1-5でレイソルに負けた試合だったんです。『これはセレッソ大変だな』と思っていたら、直後に強化部の勝矢くんから『セレッソの監督をやってください』と連絡が入ったんです(笑)

 その時に実況で一緒だった西岡(明彦)くんに『伸二さん、まさかやる気じゃないですよね?ボロボロだったじゃないですか』と言われたんですけど、僕は『面白いんじゃないの?』って。勝矢くんも苦しんでいるだろうから、話だけ聞いてみようと思ったら『本当にやってくれないですか?』と。それで7月に四国でやる予定だった指導者講習会だけ終わらせて、セレッソの監督に就任したんです。

 あの夏に嘉人はヨーロッパに行くって言っていたんですけど、よく知っているヤツだから『オマエ、今は行くな』と。そうしたら本人が『いつもそうやって行けなくなる』と。『でも、オマエはいつか帰ってくる時のために、ちゃんとセレッソが苦しい時にJ1に残していくんだよ。そういう仕事をしてから出ていくべきなんじゃないか?』って引き止めたら、アイツはこう言ったんですよね。『伸二さん、じゃあこの時期にケガしたらどうするんだ?』って。その言葉にはドキッとしました。でも、結局セレッソに残ってくれて、最終節で新潟相手に嘉人が2点獲って勝つことができて、セレッソが残留したんですよね」

『2億を獲れなかった男』と言われたセレッソでの2年目

――セレッソでの2年目は、J1優勝に届きかけました。

 「あの年は外国籍選手に活躍してほしかったので、強化部に『外国籍選手を1つの国にしてくれ』と言ったんです。ブラジル人は家族を凄く大事にするので、できれば同じところに住んでもらって、家族を大事にした方が良いと。それは強化の梶野(智)くんが『責任を持ってやります』と言ってくれたので、日本に合うブラジル人選手をということで、ブルーノ・クアドロスは来る前から日本語を勉強していましたし、あとはゼ・カルロスとファビーニョが来たんですよね。

 あの年はキャンプから絶好調で、小野剛が監督をしていた広島に5-1で勝ったんです。ところが、リーグ戦に入ったら最初は全然ダメだったので、少し全体のラインを落としたら、ナビスコカップでクラブ史上初めて決勝トーナメントに出られたんです。それで夏のキャンプをどこにするかと考えた時に、それまでセレッソは海外に行ったことがなかったんですけど、強化部長の西村(昭宏)さんが『グアムはどう?』と。就任する前の年のキャンプは北海道でやったらしいんですけど、モリシ(森島寛晃)が『大阪の夏は暑いから、暑いところでキャンプした方が良いですよ』と言ったんです。それでグアムに行くことになって、フィジカルをやりつつ、戦術面も落とし込めて、良いキャンプができたんですよね。

 それから夏の期間は、午前中の練習を15時ぐらいに変えて、後半戦は少し守備的なところからの攻撃をやり始めたら、だんだん結果が出ていって、『なかなか負けないチームになってきたな』と思ったら、いつの間にか5位ぐらいになったんです。そんな中で1試合を残して首位になったことで、なかなか難しい最終戦になったので、トレーニングの時間をコンパクトにしたりして、プレッシャーを回避する工夫もしましたね」

――そして、運命の最終節のFC東京戦がやってくると。

 「あの試合も1点取って、取られて、勝ち越して、最後に追い付かれた試合でしたけど、あの前も勝ち切れない試合が続いたんです。それでFC東京戦も、終了直前にコーナーキックから今ちゃん(今野泰幸)に決められて、優勝できなかったんですよね。あのシーズンの目標はもともと7位以内で、結果的に5位だったので、賞金も目標よりは2000万円分多くもらえたんですけど、優勝賞金の2億円が目の前にあったので、『2億を獲れなかった男』と言われました(笑)。

 あの2005年は天皇杯が3位で、リーグ戦が5位、カップ戦が決勝トーナメント進出で、そんなシーズンは今までのセレッソになかったと言われたんです。でも、次のシーズンはベテランが多かったので、若手選手も増やして、全体の人数を増やしたシーズンでしたが、結局うまく機能させることができずに、途中で解任されました」

――J1で優勝監督になった日本人って10人しかいないんです。そこに名を連ねる可能性もあった中で、「やっぱりあの時に優勝しておきたかったな」とは今から思いますか?

 「思わないです。あの時にもしJ1の優勝を経験していれば、また違った景色が見られていたかもしれないですけど、逆にアレを獲れなかったから、よりサッカーのいろいろな見方ができるようになったんですよね。あそこでタイトルが獲れなかったから違うクラブに行けたのかもしれないですし、それはわからないです。

 優勝争いをしていたシーズンは、トレーニングでやれたことがちゃんと試合に出たんですよね。ベテランもいれば、下村東美みたいに一生懸命なヤツもいて、2年目の古橋達弥もいて、『人にはいろいろな可能性があるんだな』と。最初に指導した広島ユースの時と一緒で、『人は変わっていくんだな』と。だって、その前のシーズンは残留争いでどん底だったわけですから。もちろんその時は、何かが足りなかったからそういう結果になったんでしょうけど、僕はあそこで優勝できなかったから、その後にモンテのような際のところを求められる仕事が回ってきたのかもしれませんね。

 だって、あの年のリーグ戦は16戦負けなしでしたから、恐ろしい記録ですよ。天皇杯もオシムさんの千葉に5点も獲って勝って、ガンバとのダービーに3-1ですよ。これは準決勝で清水に勝ったら優勝できると思っていたのに、その清水に負けたんだよなあ(笑)。でも、あの優勝を逃したリーグ最終節の試合から、凄いリカバリーを見せてくれたんですよ。みんな頑張ってくれました」

父との別れを決意して就任したモンテディオ山形の監督

――2008年にモンテディオ山形で再び監督に復帰したいと思ったのは、どういう経緯からだったんですか?……

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Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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