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なぜペスカーラはゼーマンに夢を見るのか?老将がカルチョ史に残した甘美な記憶をたどる

2023.03.13

去る2月27日、セリエC(3部相当)を戦っているペスカーラは、解任したアルベルト・コロンボに代わる新監督を発表した。通算3度目の任命を受けたのは、2011-12シーズンに19年ぶりのセリエA昇格を置き土産としてローマへ去ったズデネク・ゼーマン。以降は古巣をセリエB降格の危機から救えなかった16-17途中の再登板も含め、イタリアの4クラブでいずれも解任の憂き目に遭っている御年75歳の老将に、なぜ“ビアンカズーリ”(「白と青」を指すペスカーラの愛称)は夢を見続けるのか。その理由をカルチョ史と照らし合わせながら、お馴染みの片野道郎氏に探ってもらった。

 「ズデネク・ゼーマン、ペスカーラに帰還」

 攻撃一辺倒のスペクタクルかつスリリングなサッカーでかつてセリエAに一時代を築いた老将が、11年前に伝説的なシーズンを送ったペスカーラの監督にキャリア通算3度目となる就任を果たし、話題と注目を集めている。

「“彼”が帰ってきた。おかえりなさい、ミステル!」とゼーマンの復帰を伝えるペスカーラ公式Twitter

 今から11年前の11-12シーズン、初めてこのクラブで指揮を執った時には、チーロ・インモービレ、ロレンツォ・インシーニェ、マルコ・ベラッティという20歳前後の若きタレント3人を擁してセリエBを席巻、プレーオフ圏内(6位以内)に入れば上々と言われたチームを優勝、セリエAへの直接昇格に導いた。

 のちにイタリア代表の中核を担ってEURO2020を制することになる彼ら3人が、若さと勢いに任せて持てる才能を存分に解き放ち、絶対的な主役として大きなサプライズを演出したこのシーズンは、ゼーマンの40年にわたるキャリアの中でも、特に記憶に残る輝かしい成果の一つである。すでに「過去の人」となって久しい75歳が3部リーグのチームに途中就任しただけでニュースになる(そして筆者がこうしてこの原稿を書いている)理由も、まさにそこにある。

 イタリアサッカー界において、ゼーマンはあらゆる意味で「異端」というべき存在であり続けてきた。亡命チェコ人という出自、ローマ以南という周縁の地で築いたキャリア、この国の伝統的なスタイルの対極にある極端に攻撃的な戦術、権力におもねることなく筋を通し孤高を保つその姿勢……。しかしそうでありながら、というよりもそうであるがゆえに、カルチョの歴史に極めて大きなインパクトを残してきた。

旧共産圏に由来する前衛的で科学的な哲学

 ゼーマンは1990年代のイタリアにおいて、ゾーンディフェンスとプレッシングに基盤を置く革新的な戦術の旗手として、アリーゴ・サッキと並ぶ存在だった。最後尾にリベロを置いたマンツーマンの守備的なスタイル「カテナッチョ」に象徴される守備的な戦術がまだまだ主流だった当時、ゾーンで守る4バックをハーフウェイライン近くまで押し上げ、リスクを省みずに3人、4人が前方のスペースをアタック、そこに縦パスをどんどん送り込む極端なまでに前がかりなスタイルは、「サッキのミラン」以上に過激であり前衛的であり、そして異質だった。

 その異質さの源は、旧共産圏時代のチェコスロバキアで生まれ育ったという彼のバックグラウンドに求めることができるだろう。首都プラハで裕福な耳鼻科医の家庭に生まれたゼーマンは、スラビア・プラハのアカデミーでサッカーだけでなくアイスホッケー、ハンドボールなどもプレーしつつ医学の道を志していた。しかし22歳だった68年に起こったチェコ動乱でプラハがソ連の占領下に入ると、当時セリエAのパレルモで監督を務めていた叔父チェスミール・ビクパレクを頼りイタリアに亡命、シチリア島に腰を落ち着けてスポーツの道に進むことになる。

 地元パレルモの育成コーチを10年間努め、79年にプロコーチライセンスを取得すると(この時に同期だったサッキとはその後深い親交で結ばれた)、83年にセリエC2のリカータでプロ監督としてのキャリアをスタート。パレルモ時代の教え子を集め「シチリア代表」と呼ばれたチームで84-85にC1昇格を果たし、87-88にはシルヴィオ・ベルルスコーニに引き抜かれてミラン監督に就任したサッキの推薦によりその後釜としてセリエBのパルマを率いるなど、徐々にその名を知られていく。

 あるインタビューで「私は子供の頃から『そこにポジションを取れ』と言われて育った。『その相手をマークしろ』と言われたことは一度もない」と語ったその言葉が示す通り、ゼーマンのサッカー哲学は、プラハで過ごした人生最初の20年あまりに築かれたものであり、監督としての戦術やトレーニングメソッドも、イタリアよりもむしろチェコ、そしてソ連など旧共産圏のそれにルーツを持つものだ。

 自らがボールを支配して攻撃し、相手よりも1点多く挙げて勝つというのは、1930年代のオーストリア、ハンガリーそしてチェコスロバキアで全盛を誇った「ドナウ派」以来の考え方。イタリアでは1980年代まで異端視されてきたゾーンディフェンスも、ソ連をリーダーとする旧共産圏では1960年代にすでに主流になっていた。ボールを使わない「科学的な」(と当時は考えられていた)トレーニングによって走力や持久力を個別に強化するというフィジカル重視の考え方もまた然り。そしてそれらは、シチリアというカルチョの辺境における10数年に渡る下積み時代を経て40歳を迎え、カルチョの表舞台に浮上しつつあった1980年代末の時点では、一つの確固たる理論/メソッドに結実し、すでに完結していた。……

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ズデネク・ゼーマン

Profile

片野 道郎

1962年仙台市生まれ。95年から北イタリア・アレッサンドリア在住。ジャーナリスト・翻訳家として、ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を広げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。主な著書に『チャンピオンズリーグ・クロニクル』、『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』『モウリーニョの流儀』。共著に『モダンサッカーの教科書』などがある。

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