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サッカーかバスケで揺れていた少年が高校選手権で日本一を勝ち獲るまで。大宮アルディージャ・南雄太インタビュー(前編)

2023.03.14

いわゆる黄金世代のGKでは最後の現役選手となった。高校1年生で全国制覇を経験し、世界大会の準優勝も味わった男は、数多の出会いと苦労と喜びの中で濃厚なキャリアを積み上げ、43歳となった今でもJリーガーとして日々のトレーニングと向き合っている。南雄太。プロ26年目のシーズンに挑んでいるレジェンドが、今までのサッカーキャリアを包み隠さず語り上げるインタビュー。前編では運命を変えた読売クラブのセレクションや、バスケかサッカーで揺れた中学時代、一気に名前を上げた静岡学園高校時代を振り返ってもらう。

サッカーキャリアのスタートは名門幼稚園サッカー部!


――今日は大いにサッカーキャリアを振り返っていただきますが、まず名門幼稚園のサッカー部出身なんですよね。

 「宝陽幼稚園です。山田卓也さんも小川佳純もそこの出身ですね。6歳の時だから年長の時にサッカーを始めたんですけど、家の裏に幼稚園があるのに、あえて宝陽幼稚園に通っていたんです。同じマンションに住んでいたお兄ちゃんたちの影響ですね。親に自転車に乗せてもらって通っていました」


――もともとサッカーをやりたいと思っていたんですか?

 「いや、幼稚園のサッカー部に入ってからですね。今とは時代が違うので、空き地があったらそれこそ近所の人たちと野球をやる時代でしたし、それまでは野球ばかりやっていました。父親がアンチジャイアンツだったので、僕もジャイアンツは好きじゃなかったかな。でも、原さんとか江川さんは良く覚えていますよ。ゴールデンでやっているから、見ていたのはジャイアンツですよね」


――幼稚園の大会ってあるんですか?

 「1年に1回だけ、関東村にメチャメチャたくさんのチームが来る大会に出ていたのは覚えていますけど、基本的には試合をするというよりは、授業の一環というか、男子は放課後に全員サッカーをやるみたいな感じでした。」


――小学生になると武蔵ヶ丘FCに入ります。

 「それこそ宝陽幼稚園のすぐそばにあった小学校のサッカーチームで、結局宝陽幼稚園で一緒にやっていた仲間が入っていく、その流れに自分も乗ったんだと思うんですよね。通学していた久我山小にも少年団のチームはあったんですけど、そっちに通っていました」


――その時はゴールキーパーじゃないんですよね。

 「全然違います(笑)。僕は小学校5年生までずっとフォワードでしたから。キーパーをやったのは4年か5年の時に、上の学年で1回だけやらされたぐらいでした」


――どういうタイプのフォワードでした?

 「昔はほとんどのチームのシステムが[4-3-3]で、その左ウイングをやっていました。別に足も特別速くはなかったですけど、点は結構獲っていたイメージはあります」

Photo: Ⓒ1998 N.O.ARDIJA

ほぼ未経験のGKで受けた読売クラブのセレクション


――小学校5年生の時に読売クラブのジュニアチームのセレクションを受けたんですよね。

 「それが僕の人生を変えました。父がセレクションの情報をサッカー雑誌で見つけてきたんですよ。当時の読売クラブが入団テストをやると。それで『オマエ、テスト受けてみろよ』と言われたんですけど、当時の読売クラブなんて東京どころか全国で一番みたいなイメージもあったので、『フィールドじゃ受からないだろう』と。それで父と2人で話して『キーパーで受けてみよう』ということになったんです。それで受かっちゃったんですよ(笑)」


――え?でも、キーパーなんてそれまで1回しかやっていないわけですよね?

 「1回やった時に『面白いな』とは感じていましたし、練習が終わった後に遊びでグローブをハメて、シュートを止めたりはしていたんです。『キーパーグローブ、カッコいいな』とは思っていましたし、ちょっと興味はあったんですよね。それでロイシュのキーパーグローブは持っていて、その1つしかないグローブでセレクションを受けに行ったんです」


――それで受かっちゃうんですね。

 「たとえば中学生になる時のセレクションだと、読売なんてたぶん1000人ぐらい来るんですけど、学年と学年の狭間のセレクションだったので、フィールドは60人ぐらいいたのに、キーパーは僕だけだったんです。それで受かっちゃって(笑)。ちなみにその時に僕を獲ってくれたのは小見(幸隆)さんですよ。自分は後から言われたので覚えていないんですけど、小見さんに『普段からキーパーやってるの?』と聞かれて、『はい!』って答えたらしいんです(笑)。ウソついてるんですよ、全然やったことないのに。でも、読売に入れるなんて当時は夢のような話でしたからね。よみうりランドにセレクションを受けに行って、そこからがキーパー人生のはじまりです」


――夢のようなクラブに入るのに、左ウイングの選手がキーパーでセレクションに受かることがおとぎ話みたいですね(笑)。

 「そこが人生の岐路でしたね。小5の終わりでした。ただ、試合にはなかなか出られなかったんです。もともとキーパーが1人いて、その子がずっと試合に出ていたので、僕はサブでした。それこそ公式戦は出ていなかったですね」


――本格的に始めてから、キーパー自体は楽しかったんですか?

 「楽しかったですね。しかも実際に入ってみて、『ああ、フィールドじゃ無理だ。大成しないわ』と思っていました。もう周りが上手過ぎて。セレクションの時にフィールドで選ばれた15人ぐらいが、最後にゲームをやったんですよ。その時に読売のジャージを着た選手たちがぞろぞろ出てきたんですけど、170センチぐらいのメチャメチャデカいヤツも2人ぐらいいましたし、左のウイングはとにかく足が速くて、父親と『読売の中学生はレベル違うね』なんて話していて、受かって練習に初めて行ったら、その選手たちはチームメイトだったんです(笑)。一緒に行った父親も『アイツら、小学生だったのか!』って。今まで自分がサッカーをやってきた中で見たことがないぐらい上手な選手たちだったので、『これはもうフィールドはできないな』と思いましたね。それでも自分の中では読売に入れたことがとにかく大きくて、普通ではできないような場所でサッカーをやれているという、そのこと自体が嬉しかったんです」


――そのあと、小学校6年生の時に出場した『第1回サロンフットボール大会』で小野伸二を初めて目撃するわけですよね。

 「そうです。1人だけ『外国人みたいなヤツがいるな』って。風貌もそうでしたけど、メチャメチャ上手かったですし、『何だコイツ?』って。その何年後かに、高校生になって静岡に行ったら、もうとんでもない有名人でした。だって、高校に入って最初の新人戦に、入学したばかりの伸二はもうレギュラーで出ていましたからね。静岡は県大会の前にまず地区予選があるんですよ。中部地区にはそれこそ静学(静岡学園)とか清商(清水商業)とか強いチームが多いので、結局そこでも対戦して、それで県大会でまた必ずもう1回当たるので、だいたい1つの大会で全国に出るまでに2回は対戦するんですよ。その最初の新人戦の中部地区予選で清商と当たった時に、伸二はもう出ていたんです。僕らの世代では中学生ぐらいで、伸二とタカ(高原直泰)がもう一番の有名人でしたね」

同級生である小野は現在コンサドーレ札幌でプレー。43歳を迎えてもなお、その技術は錆びついていない

軸足はバスケ部の活動に置いていた中学生時代


――そのあたりはまた6年後ぐらいの話でお聞きします(笑)。中学生の時は読売ジュニアユースに昇格するわけですよね。そこでのセレクションはなかったんですか?

 「なかったですね。読売ユースSの選手は上がれたんです」


――読売ユースS!その言い方でしたね!

 「読売日本サッカークラブユースSです(笑)」


――ジュニアユースの3年間はどういう時間でしたか?

 「ほとんどサッカーやっていないんですよね。バスケばっかりやっていて(笑)」


――宮前中学校バスケットボール部で。

 「そうそう。中2の途中ぐらいからサッカーよりバスケの方が楽しくなっちゃったんです。サッカーはやっぱり全然試合に出られなくて。中1になった時点で外からキーパーが2人入ってきて、同じ学年に4人になって、1人は東京選抜のヤツだったんです。もともと試合に出られなかったのに、もっと試合が遠くなって、逆に中学校のバスケ部が楽しくなっていったんですよね。1年の頃はまだサッカーがメインでしたし、『それでもいいから入ってくれ』と顧問の先生に言われてバスケ部に入ったので、幽霊部員みたいな感じだったんですけど、時間がある時にだけ行っていたのが、中2の途中ぐらいから3年生が夏前に受験でいなくなったこともあって、自分たちの年代になれば試合にも出られますし、『バスケ面白いな』って、だんだん比重がバスケの方に傾いていきました。だから、中3はほとんどサッカーをやっていないんです」


――ジュニアユースの練習には行っていたんですか?

 「いや、あまり行っていないと思います。ほぼほぼバスケしかしていなかったなと」


――じゃあ土日もバスケの試合に行くわけですか?

 「もちろん(笑)。サッカーに行っても出られないですから。だから、当時の僕のことを知っているジュニアユースの後輩たち、平本一樹とか飯尾一慶とかはそれをイジッてきますからね。『南くん、バスケしかしてなかったのにね』って(笑)」


――それでもサッカーをやめなかったんですね。

 「一応は。週に1回だけ、その時のトップチームのキーパーコーチがマルキーニョスという人で、トップが練習している天然芝のグラウンドで、ジュニアユースから上の育成の選手とベレーザの選手を集めて、中村和哉さんと一緒に教えてくれる集まりがあったんです。それは面白かったですね。天然芝でできますし、キーパーコーチに教えてもらえるしみたいな感じで、それだけは欠かさずに行っていましたけど、普通の練習はほぼほぼ行っていないです。それこそ中学の最後の方に、確か岩手遠征があって、受験とかいろいろな絡みでキーパーがいなくて、その時に3年間で初めて遠征に行ったんです。キーパーも僕しかいなかったので試合にも出られて、優勝もしたんですけど、決勝で当たった大船渡のチームに(小笠原)満男がいたんですよ。それも冬休みぐらいで、バスケ部の活動も終わっていたから遠征に行った、みたいな感じでした」

Photo: Ⓒ1998 N.O.ARDIJA

バスケを続けるか、静岡学園でサッカーを続けるか、の選択肢


――あれ?その最後の岩手遠征の前に、進路選択は終わっていたわけですよね?

 「ユースに上がれることは100パーセントないと思っていたので、まずはサッカーを続けるか、バスケを続けるか、ですよね(笑)。バスケは楽しかったですけど、やっぱり子どもの頃からやってきたのはサッカーなので、どうしようかとかなり考えていたら、当時のジュニアユースに静岡から来ていた子がいたんです。その子の父親が静岡学園の井田(勝通)監督を知っていると。僕が中1の時に静岡学園が20何年ぶりに出た選手権を父とメチャメチャ見に行っていて、『静学のサッカー、面白いね』って話していたんですけど、たぶんそういう話を父がしていたんでしょうね。その子の父親が『静学に行きたいっていう子がいる』と話を通してくれたら、夏休みに井田さんから『練習に来てみろ』と言われたんです。それで静岡まで練習に行って、初日にいきなり紅白戦だったか練習試合に『出ろ』って言われて、30分ぐらい出て、試合が終わったら井田さんが『オマエ、合格だ。ウチに来い』って。こっちからすれば『え?合格ですか?』って感じじゃないですか(笑)。『もう学校に言っとくから』と。だから、みんながここから本格的に受験勉強をするという夏休みに、もう進路が決まっちゃったんです」


――もう静学の練習に行った時点では、バスケではなくてサッカーをやろうと思っていたということですか?

 「とりあえずそんな話があったから『受けてみよう』ぐらいの感じですよね。受かるかどうかもわからないですし。それで受けたら、受かっちゃったから、『これはサッカーやるしかないな』って(笑)。今から考えると、かなりその場の流れを大事にしているというか、勢いに乗る感じが凄かったですね」

Photo: Ⓒ1998 N.O.ARDIJA


――静岡学園の井田監督は最初からインパクトありました?

 「ありましたねえ。あの人は凄いですよ。本物の異端児です。慶應大も出ているエリートですけど、銀行員時代は銀行にアロハシャツで行っていたって(笑)。ぶっ飛んでますよ。いつもティアドロップのサングラスをかけて、帽子をかぶって、髪もメチャメチャ長くて。井田さんは学校の先生ではないから、僕らとの距離感も近いですし、なかなかいない指導者ですね。

 あの人も言葉の力を持っている人だと思います。井田さんってミーティングしないんですよ。キタジ(北嶋秀朗)は市船時代に夜まで相手の分析映像を見ていたとか聞きましたけど、僕はスカウティングなんてプロに入るまで知らなかったです(笑)。『敵なんて関係ない』みたいな考え方でしたから。選手権の試合でも、ロッカールームに集まったら、井田さんが『昨日のビブスの方、スタメンな』って言って、それで終わり。それだけ(笑)。でも、清商とやる試合の前だけは『おい、ちょっと集まれ』と。『オマエら、キツい朝練やって、夏も合宿で死ぬほど走って、それは何のためにやってきたんだ。今日清商に勝つためにやってきたんだろ』と言うわけですよ。いつもミーティングなんかやらないのに。そうすると選手も『よっしゃ!やってやるぞ!』という雰囲気になるんです。そういう選手の乗せ方とか、ここぞというタイミングで言うことは凄かったですね」


――そもそも高校は親元を離れることになるわけですけど、そこには抵抗はなかったですか?

 「なかったですね。『1人暮らしなんて、超大人じゃん』って(笑)。僕が1年生の時の3年生で寮がなくなったので、下宿か1人暮らしという選択肢で、実際は1人暮らしと言っても2階と3階が全部静学のサッカー部というワンルームマンションに住んでいました。僕の上の部屋が坂本紘司で、斜め上が倉貫一毅。隣の部屋が大石鉄也で、県外から来たヤツらはそのマンションに住んでいました。高校生活は楽しかったですよ。まあ、朝練だけはキツかったですけど……」


――ああ、朝練があるんですね。

 「毎日やるんですよ。土日は試合で、月曜はオフだから、それ以外の4日間は絶対に毎朝あって、それは3年間ずっとでしたね。朝起きて、カーテンを開けて、メチャメチャ雨が降っていたら、もう嬉しくてしょうがないんです。『朝練ないぞ!』って。それでまた布団に入って寝ると(笑)」


――雨が降ると朝練はないんですね。

 「微妙な雨だとわからないので、1年が偵察に行かされて、井田さんが来ているかどうかをチェックしてくるんです(笑)。完全な土砂降りとか、もうグラウンドが使えないような雨ならないので、高校生の時は大雨が降るとメチャメチャ嬉しかったです。『やった!寝れる!』って」

ほとんど公式戦未経験の1年生GK、名門校の守護神になる


――1年生の頃はいつぐらいから試合に絡み始めたんですか?

 「インターハイに負けて、その次の練習試合でいきなり井田さんに『Aチームに入れ』って言われたんです。それまで公式戦でサブに入ったこともなかったですし、グラウンドの周りで突っ立って、声出ししていたぐらいの感じだったのに、急に試合に使われて、『え?』って。そこからはずっと出ていましたね」


――周りも「え?なんであの1年が?」という感じだったんでしょうね。

 「たぶん。その時の3年生のキーパーも、県選抜に入っていた人でしたからね。卒業後はフロンターレにも行ったはずです。そういう人もいたので、試合に出ることなんて考えてもいなかったです」


――当時の静学はもちろんレベルも相当高かったですよね。

 「フィールドは凄かったですよ。だって、選手権で優勝しちゃうんですから(笑)。読売から行ったので、『中体連から来るヤツなんて』ってちょっと思っていましたけど、『みんな上手っ!』って。静岡は凄いなと感じましたね」


――一度試合に出てからは、もうずっとレギュラーだったわけですよね。

 「そうですね。夏の遠征も全部行きました。とにかくチームが強かったです。それこそインターハイで負けた後から試合に出始めて、選手権の決勝が終わるまでに1回しか負けてないですから。夏の群馬でトウモロコシ畑の真ん中にあるような会場で(笑)、習志野に負けた1回だけです。ノンビさん(廣山望)が衝撃的でしたね。風貌も独特ですし、メチャメチャ速くて、『見た目とプレーのギャップ、凄っ!』って(笑)。習志野は強かったですね。でも、それが唯一の負けで、どのフェスティバルに行っても優勝しましたし、選手権で優勝するまで負けた記憶がないぐらい強かったです」


――1年生の選手権予選で、もう小野伸二と高原直泰と対戦しているんですね。

 「清商は予選リーグでやって、3-3で引き分けましたね。どっちも決勝トーナメントに行って、そこで清商は清水東に負けたんです。それで決勝で静学が清水東に勝ったんですよね」


――しかし、高校1年生の選手権予選で南雄太、小野伸二、高原直泰が対戦しているって、日本のサッカー史を考えても結構凄いことですよ(笑)。

 「そうですね。横浜FCの時に監督だったハヤさん(早川知伸)さんも、清商で試合に出ていたのを覚えています。やっぱり当時の静岡は面白かったですよ。本当にレベルの高い人がいっぱいいて、年代別の代表には4、5人くらい静岡のヤツがいる時代だったので、県大会を勝ち抜くことが全国のベスト8に行くぐらいのレベルだったかなと。だから、全国に出た時に余裕がありましたよね。『清商よりは弱いでしょ』って」


――静岡に行って、1年生から選手権に出られるって、もともと考えていたプランからすると、かなりうまく行った感じですか?

 「メチャメチャうまく行きましたよ。『3年間で1回ぐらいは選手権に出られたらいいなあ』ぐらいだったのに、1年生で全国に行けて、しかも自分が試合に出るなんて想像もしていなかったです。読売の時は試合に出たことがなかったわけですから。だから、ジュニアユースの時のチームメイトからすれば、驚きでしかなかったはずですよ。テレビを見たら『え?南が出てるじゃん。ウソだろ』みたいな感じでしょうね。とにかくチームが強かったから、自分のボロが出なかったんだと思います」

人生を変えてくれた高校選手権の思い出


――結果的に日本一になる1年生の選手権は、今から振り返るとどういう大会でしたか?

 「やっぱり自分の人生を変えてくれた大会です。あれで自分の名前が世に出たわけで、それまでキーパーになってからはほとんど試合にも出ていなかったヤツが、いきなり選手権に出て、優勝までさせてもらって、優秀選手に選ばれて、高校選抜に入ったわけで、本当にシンデレラストーリーじゃないですけど、自分のキャパに追い付かないぐらい、評価が上がっていってしまっている感覚はありましたね」


――まったく知らない人が、自分のことを知っているみたいな状況にもなって。

 「しかも静岡はちょっと他の地域とサッカー熱が違うので、選手権が終わってからは凄かったですよ。人生で初めて『キャー』とか言われて(笑)。だいぶ浮かれていました。今から考えれば勘違いも甚だしかったなと」


――印象に残っている試合はありますか?

 「やっぱり鹿実(鹿児島実業)との決勝かなあ。自分のミスで追い付かれて、単独優勝できなかったので。コーナーキックを僕がパンチングしていれば試合は終わっていたのに、自分の前でヘディングで叩かれて失点したこともあったので、優勝はしたけれど凄く悔しい想いしかなかったです。あとは雨も降っていたので、メチャメチャ寒かったのは覚えています。当時はインナーなんてなくて、ユニフォーム1枚しか着ていないから、試合中に寒くてガタガタ震えていました(笑)。やっぱり準決勝と決勝、国立でやった2試合は印象的ですね。国立のピッチに自分が立っているなんて、という。正直、小学校と中学校の頃はJリーグどうこうではなくて、『選手権に出たい』と思ってサッカーをやっていたわけで、その選手権に出られて、ましてや国立まで行けて、全国優勝してしまうなんて考えてもいなかったので、やっぱり嬉しかったですよね」


――準決勝の東福岡戦が人生で初めての国立競技場でしたが、その感慨はありましたか?

 「メチャメチャありました。ちょっとフワフワしていましたね。あそこまで大きなスタジアムでやったこともなかったですし、『ああ、国立だあ』みたいな。聖地ですから。今の国立以上にその想いも強かったというか、全部大きな大会はあそこでやっていましたから。でも、あの試合はPKを止めただけでしたね」


――あの大会で優勝したことや周囲からの評価を得られたことで、より上を目指そうという意識は高まりましたか?

 「それこそこの選手権が終わった後にレイソルのスカウトの人が来てくれて、『ウチはもう正式に獲りに行きます』って、高2の頭の時点で言ってくれたんです。そこで初めて意識しましたね。『え?オレ、プロ行けんの?Jリーガーになれるの?』って。そこから高2の時はいろいろなクラブのスカウトの人が試合を見に来てくれるようになりましたね。高1の時は大学志望だったので、勉強もメチャメチャ頑張っていて、スポーツクラスとはいえ成績もクラスで一番だったんですけど、高2からほとんど勉強しなくなりました。『もういい。プロに行くから、大学は行かない』って(笑)。そこで意識が変わりましたね。

 それで高2の選手権が終わって、高校選抜で出た駒沢のニューイヤーユースの後ぐらいに、山本昌邦さんに『オマエ、代表の合宿に呼ぶから』と言われたんですけど、それも結構大きな出来事ですね。それまで代表なんて入ったことがなかったので、僕は最初勘違いしていて、自分の代の代表に呼ばれたんだと思って、『よっしゃ!初めてアンダーの代表に選ばれたわ!』と合宿に行く時に詳細の紙を見たら、メンバーがみんな年上で『こっちの代表かよ!』って。飛び級だったんですよね。しかもいきなり海外遠征だったんです。オーストラリアのアデレードに行って、マジで緊張しました。ほとんどの人がJリーガーで、高校生は(中村)俊輔くんとか古賀(正紘)ちゃんとか、大野敏隆とかキタジぐらいで、自分の代は僕しかいなくて、スーツも持っていなかったので、学ランで行きましたからね(笑)」


――いいですねえ。学生感あって(笑)。

 「スーツで集合していたみんなに、『学ランはヤバいだろ』とメチャメチャ笑われました。それで上だけ脱いでセーターになって、下はそのまま制服のズボンで行ったんですよね(笑)。ちょっとその時の立ち位置は、自分の身の丈に合っていない感じはありました。それが楽しくもあったんですけどね」

静岡学園が“走り出した”理由


――2年の選手権は、ご自身の中ではどういう大会でしたか?

 「2年の方が自分の中では活躍できたかなという想いはありました。でも、結局は準決勝で負けたので、悔しい想いしかなかったかなと」


――静学は連覇を狙う大会でしたし、きっと周囲からの見られ方も大変でしたよね。

 「その代の静学はかなり弱かったんです。それこそインターハイは地区予選で静岡高校っていう、静岡県内で一番の進学校に負けました。大会前にいろいろあって、主力が全然出られなかったんです。それにしても静高に負けるというのはさすがにありえなくて、それまで静学はほとんど走りの練習なんてなかったんですね。1年の時のチームも強かったので、走りなんてやったことがなかったのに、井田さんも何か変えなきゃいけないと思ったんでしょうね。テクニックは間違いなく静岡でも一番あるし、これで走れたら完璧じゃないか、みたいになって、突然『走るぞ』と言い出したんです(笑)

 それで夏に波崎に行って、1日3部練で、朝からメチャメチャ走りました。キーパーも一緒に走っていましたから。でも、その年はそのぐらい弱かったのに、選手権で良い結果が出てしまったので、井田さんの中で『ああ、ウチが走れれば無敵だ』みたいになって、そこから静学の走りが当たり前になったんです。坂本くんの代が弱かったせいで、静学は走り出したんですよ(笑)。でも、結局選手権でベスト4まで行きましたからね。前の年に比べれば、箸にも棒にも掛からないような代だったのに、国立まで行ったのは凄かったと思います」


――国見との準々決勝はPK戦でした。相手のGKが都築龍太さんで、都築さんが5人目で枠を外して、最後は南選手がPKを決めて勝つという試合で。

 「あの試合も今では考えられないですけど、僕がPKを止めて、『これはオレが蹴れば絶対に入る』と思って、井田さんに『オレに蹴らせてくれ』って言いに行ったんです。しかも、次のキッカーは先輩だったんですよ。その先輩は今でも『オマエがオレのPKを奪ったんだぞ』って根に持っていますけど(笑)」

Photo: Ⓒ1998 N.O.ARDIJA


――サドンデスの8人目でしたね。

 「そうです。自分が止めて、気分良くなっちゃって、『今ならオレが蹴れば絶対に入る』と。『オレに蹴らせてくれ』と言いに行ったら、井田さんも『おお、蹴れ蹴れ』みたいになって、それで決めて勝ったので、だいぶそのころは調子に乗っていましたね。先輩のPKを奪うなんてありえないですよ」


――選手権で2年続けて国立まで行ったことは素晴らしいことです。

 「先輩たちに感謝ですよね。連れて行ってもらったんですから。当時はそんなこと、まったく思っていなかったなあ。PK戦で『オレ!オレ!』って言っちゃうぐらいですから。ふざけた後輩ですよ(笑)」


――3年生の時の選手権は県の決勝で負けたんですよね。

 「はい。静岡で3連覇するって大変なことで、僕らは王手まで行ったので、井田さんもとにかく気合が入っていたんです。僕らは藤枝東に負けたんですけど、選手権の最後の試合って“涙のロッカールーム”みたいな感じになるじゃないですか。でも、井田さんに『オマエら、結果が出なかったらどれだけ頑張っても一緒なんだ』『負けたら何の意味もないんだ』って怒られて終わりました(笑)。それが高校3年間の最後の締めでしたね。アレは泣くに泣けなかったなあ。しかも準決勝で清商に勝っての決勝でしたからね。藤枝東は選手権の前に練習試合をやって、4-0ぐらいでボコボコにしたんです。清商に勝った時点で『ああ、もう選手権に行ける』と思ってしまったので、やっぱり慢心はダメですね」

17歳で出場した“1度目”のワールドユース


――少し時系列を戻すと、先ほどのお話のように、2年の選手権が終わって、2月ぐらいにU-20日本代表に招集されて、オーストラリア遠征に行くわけですね。それは意外でしたか?

 「意外でした。しかもキーパーですよ。伸二すら呼ばれていないのに。ただ、当時はレギュレーションでワールドユースは1回出てしまうと、それ以降は出られないという話だったので、そういう事情もあって伸二やイナ(稲本潤一)は無理には呼ばなかったのかなと。その代のキーパーはみんなJリーグで試合に出ていなくて、結局僕がずっと試合に出ていたので、それで呼ばれたという話は聞いた気がします。ワールドユースも本大会の2戦目からスタメンで出ましたからね」


――初戦のスペイン戦は小針清允さんがスタメンで負けたんですよね。小針さんは読売ジュニアユースの先輩ですか。

 「雲の上の存在の人でした。練習場でも『あ、小針くんだ!スゲー!』みたいな。まさかそんな人と代表でポジション争いするなんて思ってもいなかったですし、実は直前の合宿で指を脱臼して、ワールドユースに行けるかどうかもわからなかったんです。だから、今から考えればよく選んでくれたなって。本当に予選の少し前ぐらいにやっとできるようになったので、マレーシアに行っても最初はリハビリしていましたから。それで初戦でスペインに負けて、2戦目はナイターだったんですけど、午前中にミーティングをやる前に、小針くんを昌邦さんが部屋まで呼びに来て、いなくなっちゃったんです」


――ああ、小針さんと同部屋だったんですか?

 「そうです。今だったら察することもできますけど、当時は何も考えていなかったですし、小針くんが呼ばれて、『何の話だろうなあ』とか思っていたら、帰ってきた小針くんに『昌邦さんが呼んでるぞ』と言われて、『何ですか?』と聞きに行ったら、『今日スタメンで行くから』と。『えええ~?ここで?』と思いながら、『わかりました』と言って部屋に戻ったら、スタメンを外された小針くんがいるわけで、メチャメチャ気まずかったですよ」


――2人部屋ですか?

 「2人部屋です。超気まずかったですけど、小針くんは本当に優しい人だったので、そこは凄く助かりましたね。それでコスタリカ戦に出て。詳しくは覚えていないですけど、僕のプレーは相当ひどかったと思いますよ。ハーフタイムに俊輔くんから怒られたのは覚えています。でも、そこから4試合も出ましたからね」

のちに中村俊輔とは横浜FCでもチームメイトとなることに

“ジョホールバル”はワールドユース組が先に経験していた!


――やっぱり世界大会の雰囲気は、普段の試合と全然違いましたか?

 「そうですね。『世界って凄いな』と思いました。やっぱり規格外の選手っているもので、最後はガーナに負けたんですけど、ガーナの選手たちは身体能力がとんでもないですし、スペインの選手たちも本当に上手かったですし、余裕なんてこれっぽっちもなかったですね」


――でも、高校3年の6月にそんな体験をできるなんて凄いことですよね。

 「そうなんですよね。でも、準々決勝のガーナ戦で先制点を獲られたのが、僕のミスだったんです。脇から後ろにポロッとこぼれてしまって、ライン上で止めたはずなのに、ゴールにされてしまって。『入ってねえよ』と思いましたし、今だったらゴールラインテクノロジーで見れば絶対に入っていなかったですけど、自分がキャッチミスしているのもあって、あまり強くは言えなかったです。追い付いたんですけど、最後はVゴールで負けたんですよね。そういえば試合の会場はジョホールバルでしたよ。だから、日本代表がワールドカップ出場を決めた時に、『あそこの会場だ!』と思いましたから」


――ジョホールバルだったんですね。あの時の日本代表より先に試合していたと(笑)。

 「そうですね。試合しただけですけど(笑)。ワールドユースは2回とも面白かったですね。勝って、次の試合会場の街へ移動していったりするのも良かったなあ。いろいろなところに行って、いろいろな相手と試合をする感じ、楽しかったです。1回目もそうですけど、やっぱり2回目に自分たちの代で行った時は、『ああ、オレら強いかも』って思いました。1回目は本当にギリギリな感じがありましたけど、2回目は『日本強くね?』『小野伸二上手くね?世界でも伸二よりうまいヤツ、いないじゃん』って。スペインだけはちょっと別格でしたけど、他のチームは全然でしたね」


――そもそも2回目はレギュレーションで出られないはずだったんですよね。

 「そうです。だから、アジアユースも出ていないですし、大会直前でレギュレーションが変わって、僕と永井(雄一郎)くんが出られるようになったんです。それは本当に嬉しかったですよ。ガーナ戦は自分のミスで負けたので、『これは借りを返すチャンスだ』って。しかも伸二もタカもいて、『オレらの世代は凄いな』とは思っていましたけど、その実力は世界に出てみないとわからなかったので、ワールドユースに出て初めて『ああ、やっぱり凄いんだな』と感じました」

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南雄太

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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