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還暦超えても、ゴール裏。『Foot!』初期メンバー・甲斐晶が語る“サッカーの仕事”の移り変わり

2021.10.18

蹴人列伝 FILE.1 甲斐晶(J SPORTS『Foot!』ディレクター)

サッカーの世界では、あるいは世間的に見れば“変わった人”たちがたくさん働いている。ただ、そういう人たちがこの国のサッカーを支えているということも、彼らと20年近く時間をともにしてきたことで、より強く実感している。本連載では、自分が様々なことを学ばせてもらってきた“変わった人”たちが、どういう気概と情熱を持ってこの世界で生きてきたかを紹介することで、日本サッカー界の奥深さの一端を覗いていただければ幸いだ。

第1回は『J SPORTS』の看板サッカー番組「Foot!」のディレクターを務める甲斐晶氏。立ち上げ当初から同番組の制作に携わり、還暦を超えた今でも毎週末は高校生の試合をゴール裏で撮影し続けている究極の現役テレビマンに、改めて話を伺った。

40年前から「サッカーの番組をやりたい」


――もともと甲斐さんがテレビ業界に入った理由はどういうものだったんですか?

 「『番組を作りたいな』と思ったんです。当時はテレビの専門学校が結構あって、そこに入りました。何かモノを作る仕事に携わりたくて。当時で言えばテレビは人気がありましたからね。それでフジテレビ系列の制作会社に入社しました。フジテレビの番組を作っているので、制作会社ではありましたけど、システムは一緒なんですよ。今もある“フジランド”という食堂に行けば、サイン1つ書いてツケで何でも食べられたりとか(笑)。『ひょうきん族』とか『夜のヒットスタジオ』の収録をやっていて、芸能人がわんさかいたような中で、バラエティ番組や情報番組を作っていました。

 でも、もう当時から『サッカーの番組をやりたい』と言っていましたからね。夏休みの宿題みたいなノリで『企画を出せ』と言われたので、『世界のサッカーのハイライト番組をやりたい』と提案したら、上の人たちがシーンとなってしまったりして(笑)」


――そんな環境の中で、最初にやったサッカーの仕事は何だったんですか?

 「Jリーグが開幕した時に、ソニーからJリーグのビデオが発売されたんですよ。当時は小さな制作会社にいたんですけど、30歳を過ぎていて、自分で仕事を取ってこないといけない状況だったんです。会う人会う人に『何か仕事ないですか?』と言っていると、いろいろな仕事が来たりする時代で、その中の1つで『サッカーを知っているならやってみて』と言われたのが、サンフレッチェ広島のイヤービデオの仕事でした。1993年はプロデューサーで、1994年はディレクターとプロデューサーを両方やりましたね。その年はサンフレッチェがサントリーシリーズで優勝して、チャンピオンシップでヴェルディ川崎にラモス瑠偉のループシュートで負けるんですけど、ストーリーがはっきりしていたので作りやすかったですね。だから、その時にバクスター監督、高木(琢也)さん、ハシェック、森山(佳郎)さんや森保(一)さんにもインタビューしたと思うんですよね。ハシェックはおとなしい人だったなあ。ヤマハスタジアムでカップを割ってしまった時も、近くで見ていたのも覚えています(笑)。それをまず2年やりました」


――そうすると、テレビの世界に入って10年以上サッカーに関わっていない時代があったわけですね。

 「サッカーに携わる仕事は中継の仕事か、ダイヤモンドサッカーぐらいしか世の中にないわけで、サッカーの話をする人は周りにいたんですけど、仕事をすることはなかったです。たとえば金子達仁さんは『仕事としてサッカーに携わりたい』とずっと思っていて、実際にサッカーを仕事にした人ですけど、自分にそんな認識はなかったですね。仕事ってお金を稼ぐ場じゃないですか。でも、サッカーにそれは見出せなかったですよ。『どこにそんなサッカーの仕事が落ちているんだ』と(笑)」


――テレビにおけるサッカーの仕事という意味では、やっぱりJリーグができて一変したイメージですか?

 「Jリーグもそうですし、2002年のW杯ですよね。そのおかげで今も関わっている『Foot!』みたいな番組ができたり、その前にスポーツ・アイで『オフサイド2002』という番組があって、それで海外ロケに行ったんです。スペインのアルバセテで、スペイン代表が合宿をしていて、ルイス・エンリケにインタビューしましたね。サインもしてもらったなあ。その時にスペインには反町(康治)さんがいたんですよ。金子さんもいたし、羽中田(昌)さんも大倉(智)さんもいましたね。反町さんにはエスパニョールの選手と対談してもらいました。イタリアではインテルとコモにも行きましたよ。インテルは練習場に行ったら、監督がリッピで、バッジョもビエリもサラスもいて。今から思えば凄い時代ですよね。コモは当時3部だったと思うんですけど、選手がリハビリしているのをドクターが見ていたし、練習着を洗ったり、ユニフォームを繕っているおばちゃんもいて、『3部でもこんなにいろいろ整っているのか』と思いましたね」

2002年の日韓W杯初戦、スロベニア戦でプレーするルイス・エンリケ

『Foot!』との出会いと番組黎明期


――90年代後半から2000年代に差しかかる頃って、サッカーがCS放送の主要なコンテンツになっていった時期だと思うんですけど、いわゆる今のJ SPORTSとの接点はいつ頃できたんですか?

 「最初に来た時はSKY SPORTSという名前だったと思いますけど、会社の名前もよくわからなかったし、どこで放送しているのかもわかっていなかったですね(笑)。広島のイヤービデオをやっていた時に、発売はソニーだったんですけど、制作はエキスプレスという制作会社だったんです。それでエキスプレスのプロデューサーに『甲斐ちゃん、サッカーの番組やってよ』と言われて、『はいはーい』ってやり始めたのかな(笑)。最初は『Foot!』の前身の『MATCH OF THE WEEK』という番組でディレクターをやっていました。MCが金子勝彦さんで、あの人と仕事ができるというのも嬉しかったですね。それが2000年の1月だったと思います。粕谷(秀樹)さんもその頃に知り合っていますね。2週に1回のペースで番組を担当していました」


――『Foot!』は2000年8月からスタートしていると思いますが、甲斐さんはいわゆる“初期メンバー”ですよね。

 「そうですね。プレミアリーグ、セリエA、リーガ・エスパニョーラと30分の3本立てで、自分はリーガを担当しました。その頃のリーガの司会者は倉敷(保雄)さんではなくて、八塚(浩)さんがセリエAも兼任でやっていました。当初はリーガの中継も『J SKY SPORTS』ではやっていなかったかな。2001-02シーズンから中継が始まった気がします。

 最初の頃の『Foot!』はある意味で競争だと思っていました。変な言い方ですけど、プレミアとセリエもやっていた中で、『絶対オレのやっているリーグのコーナーが一番面白いぞ』と。『だって、コメンテーターもスペインにいた人しか喋ってないから』と。幸谷秀巳さんとか、反町さん、羽中田さん、現地に住んではいないけど原博実さんに番組へ来てもらって、『絶対にリーガの内容が一番濃い!』とか思っていましたね(笑)。

 要はリーガをどう表現するかという部分で、スペインがこんなに多民族国家なんだということを、当時の自分は知らなかったわけです。カタルーニャとバスクぐらいは知っていましたけど、まだ他にもガリシアとかアンダルシアとかもあって、みんな違うんだなということがわかって、それをどう表現していくかということを考えましたよね。レアル・マドリーとバルサだけやっていればいいという考え方もあるんですけど、『やっぱりバスクも紹介したいよね』って。当時はデポルティーボが強かったので、『ガリシアもやらなきゃいけないな』とか、そういう地域色をどうやって出していくかが『Foot!』で自分がチャレンジしていたことですね」


――『Foot!』で初めて行ったロケはどこですか?

 「日韓ワールドカップの前にセルタへ行きました。何で行ったかというと、日本と対戦するロシア代表のモストボイとカルピンがいたんですよ。幸谷さんと行ったんですけど、そのあとにアトレティコ・マドリーに行って、ルイス・アラゴネス監督に駐車場でインタビューしたんです」

のちのEURO2008で母国スペインを欧州王者に導くルイス・アラゴネス監督


――取材を受けないことで有名なアラゴネスさんが、顔見知りの幸谷さんには話をしたという伝説のロケですね(笑)。

 「そうそう。当時良かったことは、2002年に日本でW杯をやるということで、向こうの人も日本のマスコミが来ると喜んでいました。オレも何回も取材を受けましたから。『日本からマスコミがやってきたぞ!』と。どこに出たかは知らないですけど(笑)。だから、オレたちのインタビューにも答えてくれたんだろうなって」

原博実のスペインロケは“便乗”から始まった


――原さんと最初に行ったロケはサン・セバスチャンでしたっけ?

 「そうです。原さんは当時FC東京の監督をされていて、よくシーズンオフに外遊していたので『絶対に面白いから付いていこう』とプロデューサーの田口(賢司)さんをそそのかしてね(笑)。その時のレアル・ソシエダは強かったわけですよ。リーグでも2位に付けていて、シャビ・アロンソやニハト、コバチェビッチもいて、という時代ですよね。原さんに便乗しちゃおうという企画です(笑)」


――僕は視聴者でしたけど、「レアル・ソシエダに行く番組があるんだ!」って思いましたよ(笑)。

 「原さんにとってレアル・ソシエダというクラブは、浦和レッズの監督を解任されて、傷心の状況で練習を見に行っていたような思い出の地だったんです。友人のチキ・ベギリスタインに『レアル・ソシエダとデポルティーボを見に行った方がいいよ』と言われて、その両方に行ったんですよね」


――もちろんレアル・ソシエダの情報を知れたことも楽しかったですけど、原さんがシードル(リンゴ酒)を飲んでいたりとか、ゴハンを食べていたりとか、そういう観光をしている風景が見られたのは、やっぱり文化的なところを紹介したかったからですよね?
……

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Foot!文化甲斐晶

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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