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松井大輔、36歳の海外再挑戦。「重大じゃなかった」決断の真実

2017.10.02

人生を変えた選択

#1 松井大輔(オドラ・オポーレ/ポーランド2部)

ピッチの中でも、そして外でも。一つの選択がサッカー人生を大きく変える。勇気、苦悩、後悔……決断の裏に隠された様々な想い。海の向こう側へと果敢に挑んだ選手たちに今だからこそ語れる、ターニングポイントとなった「あの時」を振り返ってもらう。

 「いや、そんなことないですよ」

 誰もが驚いた、36歳での海外再挑戦。さぞ強い決意をもって今回の移籍を決めたのだろう――そんな返答を予期し、どう話を広げていこうかと考えながら投げかけた「今回の決断は、人生の中でも大きな選択だったのでは?」という問い。ところが、こちらの勝手な想像を、彼はあっさりと否定した。

 「この世界って、少なからず悔いを残して辞めていく人がほとんどじゃないですか。ましてや、36歳になって欧州に行くなんて人はいない。だから周りから見れば驚くことだったかもしれないですけど、自分としてはこっち(欧州)でやりたい。だから来た、って感じで」

 電話越しに聞こえてくる声には力みも迷いもなく、いたって自然体。飄々としていて、ピッチに立てば巧みな足技で颯爽と相手を抜き去る――それはまぎれもなく、誰もが知るあの松井大輔だった。

 振り返れば、彼はいつだって挑戦を続けてきた。高校生で親元を離れ鹿児島実業に進学。同世代の多くが新入社員として社会に出る23歳で、日本人選手にとって未知の舞台だったフランスへ。ルマンでは「太陽」と称される大活躍でチームの中心選手となった。さらに、必要とされればロシア、ブルガリア、ポーランドへも飛んだ。

名門サンテティエンヌでUEFAカップ(現EL)の舞台を経験(Photo: Getty Images)
ロシアのトム・トムスクでは当時CSKAモスクワに所属していた本田圭佑との“競演”が実現(Photo: Bongarts/Getty Images)
前回ポーランドでプレーしたレヒア・グダニスク所属時には、プレシーズンマッチでバルセロナと対戦した(Photo: Getty Images)

 「これまでもそんなふうに決めてきて、今回も一緒。だから『ビックリした』とか『凄いね』とか言われても、僕の中ではピンと来ないっていうのが正直なところなんです」

 とはいえ、最初の欧州挑戦時とは置かれた状況がまるで違う。年齢もさることながら、それ以上に大きな変化が、「日本に残してきている」家族の存在だ。

 「家族は割とすんなり理解してくれました。とはいえ周りの人も含め迷惑をかけてしまいましたし、いつまでも子供みたいだなって、変わらなきゃいけないのかなって思うこともあります。けど……」

 それでも松井を駆り立てたものとは?

 「こっち(欧州)はもう、YESかNOかの世界。それはサッカーに限った話じゃなくて。日本人にはそうじゃない方が良いって人の方が多いかもしれないんですけど、自分には合ってる。居心地がいいんです」

 10年間に及んだ一度目の挑戦で肌身に染みわたった、欧州の価値観。それが松井の背を押した。

 そんな松井の選択を、周囲の人間はどう受け止めたのか。「急に決まったので、相談したりする時間はあまりなかった」中、事前に相談できたのは「俊さん(中村俊輔)くらい」だった。

 松井同様、長らく海外に身を置き現在は家族を持つ中村との間で交わした会話について聞くと、これまでの報道にはなかったエピソードを聞かせてくれた。

 「最初は『やめた方がいいんじゃないか』って感じだったんです。(9月に誕生した中村の)5人目のお子さんのことも聞いていて、『大変なんだよ』って話したりもしていたので。でも、最終的には『いいんじゃないか、お前らしくて』って言ってくれました」

出発前のインタビューで「凄いとしか言いようがない」と話していた39歳の中村俊輔(10番)と(Photo: Getty Images for DAZN))

“欧州仕様”への再適応

自分が思っていた以上に
忘れていたんだなって気づかされました

加入会見は様子は現地紙でも大きく報じられた

 こうして、周囲の驚きをよそに単身ポーランドへと乗り込んだ松井。ポーランドリーグ自体はレヒア・グダニスク時代に1部リーグを経験している。出発前のインタビューで「調子がいいのに試合に出られないもどかしさがあった。とにかくプレーがしたい」と話していた松井としては、すでに知っているリーグの2部であればすぐにでも順応できる――そう考えていたことだろう。だが……想像以上の困難が待ち受けていた。

 加入発表のわずか1週間後、第3節ミェジ・レグニツァ戦でさっそくベンチ入りを果たすと、70分から途中出場し“海外再デビュー”。順調なスタートを切ったかに思われた。しかしその後、第6節カトバイス戦を除きベンチメンバーにすら入ることができなかった。

 この間、いったい何が起こっていたのか。

 「デビュー戦でちょっとミスをしてまって。練習でアピールして監督の信頼を取り戻さないといけないんですけど……」

 そう話す松井の前に立ちはだかった最大の障害。それは意外にも、コミュニケーションの問題だった。

 「当初は英語で話そうと思っていたんです。でも、いざ来てみると英語を話せる人がほとんどいなくて。外国人枠が1つしかないから自分以外は全員東欧出身で、しかも2部だからそもそも英語を話せない選手ばかりだし、監督も話せない」

 練習での指示などは「(英語がわかる)セカンドコーチに聞いたりしていた」そうだが、「少し前まで、チームの輪にまったく入れていなかった」という孤独な状況。10年間にわたり海外でプレーしてきた松井からすれば、意思疎通の部分でつまずくのは完全に想定外だった。

 「ちょっと『これはヤバイな』って焦る気持ちも正直ありました」

 「さすがに心が折れかけたこともあったのでは?」との問いに、偽らざる本音が口を突いて出る。

 とはいえ、この程度でへこたれる松井ではない。

 「入って1カ月くらいそういう状況が続いてたんですけど、最近チームメイトと食事に行く機会があって。それでだいぶ打ち解けることができました。やっぱり、大事なのはこっちからどんどんアプローチしていくこと。片言のポーランド語で話しかけたり、『お前らも英語話せよ』って単語を教えたりして。ようやく楽しくなってきた、そんな感じです」

 一方で、生活面など環境への適応はまったく問題なさそうだ。「練習は2時間だけであとは比較的自由に時間を使える」オフには国外へと足を伸ばしリフレッシュ。各地に散る日本人選手たちとも連絡を取り合っている。

 「この間はプラハに行ってきました。オポーレは街は田舎ですけど近くに空港があって、パって行けちゃうんです。なので、オカちゃん(岡崎慎司)とかウッチー(内田篤人)とはこないだ『パリで会おう』って話しました。(内田篤人が移籍したウニオンのある)ベルリンなら4時間くらいで行けますし、時間ができたら行きたいですね」

 チームへと溶け込むのには手こずったものの、環境への順応は進みつつある。では、プレー面での適応はどうか。

 レヒア・グダニスク時代のインタビューで「フィジカル重視だけど、テクニックもある」と口にしていた1部と比較したリーグの印象は「局面局面が戦いって感じです。うまくはないんですけど、とにかくデカい(笑)」。その中で、レベルに関しては「どっちが上か下かというのは難しい」ものの、3年半ぶりの欧州で日本との違いを痛感しているという。

 「戸惑う部分はけっこうありましたね。例えばボールの置き方。(相手に)リーチがあるから、Jリーグでやっている時の感覚でボールを持っていると足が届いてくる。だから絶対に取られない位置を探したり、身体の使い方を工夫したり」

 だが、これこそが彼の求めていたものだ。

 「やっぱり、日本では個人じゃなくてチームとして評価される。規律が重視される中で、キャプテンをやったりもして責任感が芽生えたり、よりチームのことを考えてプレーしていた部分もありました。でも、こっちではいいプレーをして称賛されるのもミスをして責められるのもあくまで個人。ガンガン来る当たりの激しさとかも含めて『あぁ、そうだったな』って。わかっていたつもりだったんですけど、日本に戻って自分が思っていた以上に(欧州のスタンダードを)忘れていたんだなって気づかされました」

 そして、そうやって忘れていた感覚を取り戻していくことは、試合を見た時の感じ方にも影響しているという。

 「この間、ちょうど同じ日に行われた日本対オーストラリアとフランス対オランダを見たんですけど、やっぱり当たりの強さ、激しさが全然違うなって。フランスの中盤とか凄い選手ばかりじゃないですか。正直、来年のW杯で対戦したとして日本がフランスに勝てるイメージが浮かびませんでした」

自身は南アフリカW杯で全4試合に先発、日本を背負い世界と戦った(Photo: Getty Images)

 加えて、戦術的な部分でも欧州を離れていたこの3年半の間に大きく変わっていた。

 「格上の相手とやる時、以前だとベタ引きして手数をかけずにカウンターっていうのが普通でした。でも、今はしっかり守るチームでも、攻める時にはしっかり繋いでいこうって意識がありますね。うちでも最終ラインからサイドに展開して、っていうのを練習からしっかりやっています。自分がいたころとは全然違う、どんどん進んでいるなって感じです」

 忘れていたもの、そして変わったもの。“戻って来た”実感を噛みしめ日々を過ごしている松井。順風満帆なスタートとは行かなかったものの、それもまた彼の闘志をかき立てる。

 「苦労はしましたけど、チームにも馴染めてようやくスタートラインに立てたかなと。まずは練習からしっかりアピールして、監督の信頼を取り戻す。やれる自信はあるので」

※ ※ ※

その言葉を裏付けるように、このインタビューを行った直後、第9節ビギリ・スバルキ戦で久々にベンチ入りを果たした松井は60分に投入され6節ぶりにピッチに立つと、続く第10節スタル・ミエレク戦でついに移籍後初先発を果たし64分までプレー。チームの1-0勝利に貢献した。

燃え尽きるまで――松井の冒険は、ここからが本番だ。

■プロフィール
Daisuke MATSUI
松井大輔

(オドラ・オポーレ)
1981.5.11(36歳)175cm / 64kg MF JAPAN

京都府京都市山科区出身。小学生の頃から京都府、関西の選抜チームに選ばれるなど抜きん出た才能を発揮し、地元を離れ進学した鹿児島実業高校3年生時に全国高校サッカー選手権大会準優勝を経験した。卒業後は地元の京都パープルサンガに加入。2002年にクラブ初のタイトルとなる天皇杯制覇を成し遂げ、2003年6月には日本代表デビューを果たしている。アテネ五輪出場後の2004年夏、フランスのルマン移籍を発表し海外リーグに挑戦。初年度に2部所属だったクラブを1部昇格へと導くなど中心選手としてチームを牽引し「ルマンの太陽」と呼ばれた。2008年にステップアップしたサンテティエンヌではUEFAカップ(現EL)の舞台を経験。その後は欧州各国に活躍の場を求め、フランスのグルノーブル、ディジョンのほかロシアのトム・トムスク、ブルガリアのスラビア・ソフィア、ポーランドのレヒア・グダニスクでプレーした。2014年、ジュビロ磐田に加入し10年ぶりにJリーグ復帰。2014シーズンには主将を務め、翌2015にはクラブの1部復帰に尽力している。そして2017年8月、ポーランド2部オドラ・オポーレへの移籍を発表。再び海外リーグに身を置くことを決断した。日本代表では通算31試合1ゴール。2010年の南アフリカW杯では全試合に先発出場し決勝トーナメント進出に貢献している。

PLAYING CAREER
2000-04 Kyoto Purple Sanga
2004-08 Le Mans (FRA)
2008-09 Saint-Étienne (FRA)
2009-11 Grenoble (FRA)
2010 Tom Tomsk (RUS)
2011-12 Dijon (FRA)
2012-13 Slavia Sofia (BUL)
2013 Lechia Gdańsk (POL)
2014-17 Júbilo Iwata
2017- Odra Opole (POL)

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ポーランド松井大輔

Profile

久保 佑一郎

1986年生まれ。愛媛県出身。友人の勧めで手に取った週刊footballistaに魅せられ、2010年南アフリカW杯後にアルバイトとして編集部の門を叩く。エディタースクールやライター歴はなく、footballistaで一から編集のイロハを学んだ。現在はweb副編集長を担当。

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