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引退を決めた元磐田FW中村祐輝が今だから話す“人種差別”の真実

2017.07.18

一部のチームメイトが、あからさまに僕のことを避けるようになった

INTERVIEW with
Yuki NAKAMURA
中村祐輝
(元ジュビロ磐田FW)

2017年2月、一人のサッカー選手が若くしてスパイクを脱いだ。元ジュビロ磐田の中村祐輝はルーマニアでプロデビューを果たし、東欧のスロバキア、チェコでプレーした。しかし、2012年にスロバキア2部のリマフスカ・ソバタで自チームのウルトラスやチームメイトから人種差別を受けてクラブを退団。その後は日本に戻ってプレーを続け、29歳で引退を決断。選手キャリアを終えた今の心境、そして多くを語ってこなかった人種差別騒動について語ってもらった。

東欧へはスーツケース1つで

『とりあえず行ってくれ』って言われて行ったのがルーマニアでした

──最初に、中村さん現役引退お疲れ様でした。「人種差別」報道で注目を集めましたが、中村さんのことを知らない読者の方もいると思います。まずはサッカーを始めたきっかけを教えてください。

 「小さい頃は体が弱くて、よく風邪を引いていたんです。それで親から『体を強くするためにサッカーをやれ』って言われて、家の近くにある少年団に入ったのがきっかけでした。そういう感じだったので、最初はあまり練習をしていませんでした。でも、4年生ぐらいから急に熱が入り出して、ずっとボールを蹴っていましたね。その後は中学から高校、大学とサッカーを続けていくんですけど、本当は高校卒業後にプロになりたかったんです。高校3年の時に(浦和)レッズとジュビロ(磐田)で練習参加させてもらったんですが、当時はレッズが一番強い時で、やってみて『これはプロになれないなぁ』と痛感して。それで大学に進もうと決めました」

──国士舘大学在学中にアルゼンチンへサッカー留学していますよね。どうして海外に行こうと思ったのでしょうか?

 「小学生の時は韓国に遠征しましたし、(清水)エスパルスのジュニアユースに入っていた中学生の時にはブラジルに3週間弱行きました。高校ではユース代表に選んでもらってオランダ遠征したり、県選抜でイタリアやスペインに行ったりもしていて、小さい頃から海外のサッカーに触れることが多かったので海外への興味はあったんです。それで大学に入って、1年生から試合に出してもらってはいたんですが、コンスタントにレギュラーで出ていたわけではなくて。そんな状況で進路を考える時、周りはみんなプロに行きたいと言っていた中で、僕だけが海外に行きたいと考えていて、知り合いを通じて紹介してもらって大学4年になる前の春に行きました」

──昔から海外サッカーに触れることが多かったというお話ですが、テレビで見ることも多かったですか?

 「家ではJリーグよりもセリエAとかを観ていました。その時はユベントス中心に観ていて、FWがトレゼゲとデルピエーロで、その後イブラヒモビッチが入ってきてMFにもカモラネージやネドベドがいた頃のセリエAは印象に残っています」

――留学先にアルゼンチンを選んだ理由は?

 「アルゼンチンを選んだのは、いいFWがたくさんいるから。それだけでしたね(笑)。当時はテベスやクレスポ、バティ(バティストゥータ)がいて、今もいい選手がたくさんいます。みんな自分のスタイル、点を獲る形がちゃんとあって、しっかり点を決めますよね。ブラジルは中学の時に行っていたのと、どちらかと言うと魅せる選手が多いイメージだったので考えませんでした」

──実際に行ってみて、どんなことを感じましたか?

 「僕が行ったのは下部リーグのクラブで、3~4週間の練習参加だったので公式戦には出られませんし、プレシーズン中でシーズンに向けて体を作る時期ではあったんですが楽しかったですよ。技術的には日本と海外の選手を比べる時によく言われるように、日本人の方がボールの扱いは上手いと感じました。ただ、やっぱり向こうの人は実戦になると手の使い方とか駆け引きが上手いなと思いましたね。環境面は結構酷かったです(笑)。クラブハウスはありましたけどボロボロで、日本の大学の方がよっぽどしっかりしていましたね」

──そして、大学卒業後にルーマニアへと渡ることになります。なぜルーマニアだったのでしょうか?

 「アルゼンチンから戻って来て、プロを目指している周りのみんなはJクラブの練習に参加していたんですが、僕は行く気になれませんでした。すんなりJクラブに入れればいいですけどそれも簡単じゃないですし、海外に行きたいと思っていたこともあったのでエージェントの人を紹介してもらったんです。そのエージェントに、代表経験もプロ経験もない僕のキャリアでも入りやすい国ということで『とりあえず行ってくれ』って言われて行ったのがルーマニアでした。持ち物はスーツケース1個でした(笑)。今では結構いますけど、当時A代表の経験もなくJリーグも経ずに海外のプロクラブに行ったのはタカくん(ルーマニア1部・アストラ所属の瀬戸貴幸選手)くらいだったんじゃないかと思います」

3カ国を渡り歩きたどり着いた1部の舞台

身をもって感じたのが、海外ではサッカーの評価の基準が全然違うってこと

──ルーマニアに渡り、2部のCFRクライオバに加入します。プロキャリアをスタートが海外のリーグとなったわけですが、いろいろと戸惑うこともあったのではないでしょうか?

 「言葉も通じない中にポンっと入ってプレーするっていうのはやっぱり凄く難しかったですね。最初はパスなんか全然回ってきませんでした。それに環境もあまり良くありませんでした。歴史がある分、施設も古くて。いちおうシャワー、お風呂、ロッカーはありましたけど、高校の部室みたいな感じでした(笑)。それに給料の遅配も当たり前で、オンタイムで払われたことはなかったですね」

──リーグのレベルはどうだったのでしょうか?

 「よく聞かれるんですが、何て言えばいいのかな……みんな自分が点を取って、自分が活躍して上に行くっていう気持ちが強いんですよね。それでチームとして戦えるかって言ったら……。チームとしては、J2の下の方のクラブとかJ3のチームでも勝てちゃうかもしれないです。

 チームはそんな感じだったんですが、監督をしてたのがベニテスが率いていたオサスサでCLに出てゴールも決めたFWのジェリー・ガネ(リオネル・ガネ)だったんです。彼は監督になったばかりでまだ動けたので、一緒にプレーしたりしながらシュートの打ち方とか手の使い方とかいろいろと教えてもらいました。監督としてはちょっと……でしたけど(笑)」

──環境的には厳しかったけれど技術的に学ぶことができ、気力の面でも充実していた?

 「いや、精神的にはキツかったですね。メンタル的にはこの時に相当鍛えられました。大学生の時もいろいろと苦労したって話しましたが、海外で一人でというのはやっぱりね。バスで片道20時間ぐらい移動して、(出場)5分くらいで帰るとかも普通にありましたから」

──CFRクライオバで1年間プレーした後、スロバキア2部のFKボトゥバ・モルダバに移籍しました。同じルーマニアではなかったのはなぜだったのでしょうか?

 「ちょっとルーマニアが嫌になり過ぎて(笑)。チームとの契約はもう1年あって残るという選択もあったんですが、何とか出たいと思って自分で動いて、新しいエージェントを探してスロバキアに入りました。プレーしたのは3、4カ月だったんですが10数試合で3、4点ぐらい取って。そうしたらチェコ人のエージェントから『チェコに連れて行ってやるよ』と声をかけられたんです」

──スロバキアでのプレーが代理人の目に留まり、移籍したのはチェコのFKビクトリア・ジジュコフ。自身初の1部リーグへのステップアップを果たしました。

 「残留争いまっただ中の下位チームではあったんですが、初めてトップリーグに上がれてうれしかったですし、ホームタウンがプラハだったので生活面も暮らしやすくなりました。サッカーに関しては、チェコは本当にもうフィジカルです。CBは190cm以上ばかり。僕はスロバキア2部からチェコ1部に行ったんで、やっぱり全然違いました。特に首位だったプルゼニはCLでミランと引き分けたりしていて、対戦しましたけど本当に強かったです。それから、隣のドイツから毎試合のようにスカウトが来ていると聞かされていました。お目当ては対戦相手のプルゼニやスパルタ・プラハ、スラビア・プラハの選手だったみたいですが、みんなドイツに行きたいという想いを強く持ってプレーしていましたね。自分としても楽しかったです」

──フィジカルが求められる環境で、プレー面で他に感じたことはありますか?

 「これはチェコに限らずなんですが、身をもって感じたのが海外ではサッカーの評価の基準が全然違うってことですね。僕はずっとCFをやってきたんですが、チェコではウイングで起用されたりしました。その時はまだ若かったので相手を抜けたりもしましたけど、スピードや突破力を全面に押し出したプレースタイルでやって来たわけではなかったので戸惑いました」

日本でも大きく報じられた人種差別

あそこまで(報道が)大きくなると思っていなかった

──その後、スロバキア2部のリマフスカ・ソバタへレンタルで加入。ここで、当時日本国内でも大きく報じられた人種差別を受けました。

「差別を受けたのは事実です。ただ、あそこまで(報道が)大きくなると思っていなかったというのも正直なところですね」

──差別を受けたのは何が原因だったのでしょうか?

 「初めにはっきりしておかないといけないのが、相手チーム側からのそうした人種差別的なチャントとかっていうのは、ルーマニアでもスロバキアでもチェコでもどこでもあります。ただ、あの時の僕が違ったのは、チームメイトからもそういう行為を受けたんですよね。別のチームメイトから聞いた話なんですが、昔所属していたチェコとベトナムのハーフの選手が2点決めて2-2で引き分けた時に、一部のリマフスカサポーターが『今日のうちのゴールはなかったようなものだ』ってコールが起こったことがあったらしくて。もともとそういう閉鎖的なクラブだったみたいです」

──具体的にどういった行為があったのでしょうか?

 「加入当初から『良く思われてないな』っていう雰囲気はあったんです。外国人は自分だけでしたし。しかもチームが勝てなくて、そしたらある試合でチームのウルトラスが『ナカムラ●×※』って叫び出したんですね。でもスロバキア語で何を言ってるのかわからなかったので、仲の良かったチームメイトに聞いてみたら『ナカムラ出て行け』って言ってると。試合中ずーっと叫んでましたね。それから、一部のチームメイトが直接言ってくる感じではなかったんですが、あからさまに僕のことを避けるようになったんです。ますます居心地が悪くなって、そしたらクラブから呼び出されて『クラブにもこういうの(中村選手の退団を要求するメッセージ)が来てるから』っ言われて。それでもう、帰りました」

──日常生活や、他の国では人種差別行為はなかったのでしょうか?

 「相手チームからの罵声はどこでもありますけど、自分のチームからも攻撃されたのはリマフスカだけです。日常生活でもそういった差別はありませんでした」

──黒人選手やブラジル人選手が、欧州で差別的なチャントを受けたというニュースを目にしますが、ご自身以外への差別行為を目にしたり耳にしたことはありましたか?

 「僕が加入したもう一つのスロバキアのチームにはナイジェリア人がいましたけど、そういうことはなかったと思います。言葉がわからないので気づかなかった可能性もありますけど。スパルタ・プラハにいたカメルーン人選手も実力を認められてリスペクトされている印象を受けました。ですから誤解しないでもらいたいのはみんながみんな差別的というわけじゃなくて、僕が加入したのがそういうクラブだったってことです」

海外挑戦を終えた理由

書類とかの手続きがなかなか進まなくて、移籍ウインドウが閉じてしまった

──スロバキアから帰国後、ブログで海外再挑戦を表明しましたが最終的にはFC岐阜に加入しました。このあたりの経緯を聞かせてもらえますか?

 「スロバキアから帰って来て2、3カ月ぐらい日本にいたんですが、その時はまだ海外でプレーしたい気持ちがあったんです。それでチェコに連れて行ってもらったエージェントに相談して、ハンガリーにあるプスカシュというチームを紹介してもらいました。あのフィレンツ・プスカシュの功績を称えるために作られたチームで、国内の強豪ビデオトンとは姉妹関係にあります。そこで2、3週間くらい練習参加させてもらって、トルコのアンタルヤでのキャンプにも同行したんですが契約できませんでした」

──何が問題だったんですか?

 「書類とかの手続きがなかなか進まなくて、移籍ウインドウが閉じてしまったんです。向こうの監督も『欲しい』と言ってくれていたんですが……。それでもう(日本に)帰りました。新設されたばかりのクラブということもあって、素晴らしい環境だったんです。ピッチは10面くらいあって、それとは別フットサルコートやシュート練習専用のコート、ダッシュ用の坂までありました。それに、クラブハウスも年代別にありましたからね。環境面では今まで行った中で一番良かった。それだけに、かなり残念でした」

──スロバキアで受けた人種差別のトラウマはなかったんですか?

 「別になかったですよ。プスカシュにはギリシャ人とかブラジル人とか外国人選手もたくさんいたんですけど、みんなフレンドリーで優しかったです」

──移籍がうまくいかなかったことで、海外でプレーするモチベーションが下がってしまったという部分はありましたか?

 「繰り返しになりますけど、本当に残念だったんです。姉妹チームのビデオトンはELに出ていて、監督はパウロ・ソウザ(現フィオレンティーナ監督)でした。プスカシュは位置づけ的にそこのセカンドチームだったので選手はみんなビデオトンを目指す環境で、実際ビデオトンと試合をする機会も頻繁にあった。プスカシュで活躍してビデオトンに入って、そこからさらにステップアップして、って青写真を描いていたんですけどね。海外のサッカー自体は面白いけど、ハード面とか手続きとかそういった部分で厳しさを感じて、日本でやろうって決めました」

日本に戻り感じた海外との違い

名波さんに『おまえはサッカーを教わってきてないから』って言われました

──それでFC岐阜に加入したわけですね。

 「高校の時のコーチだった人が清水エスパルスの普及部にいたので、元エスパルスで藤枝MYFCの監督をやっていた斉藤俊秀さんを紹介していただきました。斉藤さんは快く受け入れてくれて、藤枝に入ってほしいと言ってもらったんです。ただ僕は凄くわがままで、当時の藤枝はJFLだったので『J2より上に行きたいです』と伝えました。そしたら斉藤さんは『その気持ちは尊重するから』って言ってくれて、エスパルスで斉藤さんを指導していた行徳浩二さんが当時監督だったFC岐阜を紹介してもらったんです。僕の日本でのキャリアを導いてくれたのは斉藤さんです。自分のチームに練習参加して、入ってくれと言ったら『入りません』と言った奴に次の道を示してくれた。本当に感謝しています」

──日本のプロクラブでプレーするのはこの時が初めてでした。先ほど日本と海外とのプレーの違いを話してくれましたが、適応に苦労することはありませんでしたか?

 「僕が入った時の岐阜は守ってロングボールを放り込むスタイルだったので、むしろ海外で培った、体を張ってキープして落とすプレーが生きたと思います。ただ、難しかったのがレフェリングです。日本の審判はちょっと手を使ったり、体をぶつけるとすぐに笛を吹くのでそれは苦労しました」

──その後、2015年にジュビロ磐田に加入します。

 「僕が岐阜に入って半年後に、一緒にプレーしていた服部(年宏)さんが引退することになりました。引退後はジュビロの強化部に入ると新聞で読んだので、最後の練習の時に『ハットさん、僕を獲ってくださいね』って言ってたんです、もちろん冗談っぽくですけど(笑)。それで1年後に岐阜との契約が満了になったんですけど、新しいチームがなかなか決まらなくて。そしたらハットさんが『今どんな感じ?』って電話をくれて。『まだ決まっていないです』って話したら拾ってもらったんです。ハットさんには本当に感謝しています」

ジュビロ磐田時代の中村さん(本人提供写真)

──岐阜を退団した後は海外に行くことは考えませんでしたか?

 「トライアウトを受けて、タイや欧州から練習参加の話があるという連絡はエージェントからもらったんですけど、その時はもう行く気はなかったですね。ハンガリーで移籍できなかったのが本当に残念だったので」

──当時のジュビロは名波浩さんが監督に就任して2年目でした。また違うスタイルのサッカーだと思いますが適応に苦労しませんでしたか?

 「めちゃくちゃ苦労しました。例えばFWの守備。相手を追っていくスピードとか、コースの消し方とか、角度とかそういったことを僕は教わったことがなかったので。名波さんにも『おまえはサッカーを教わってきてないから』って言われました。向こう(海外)では言葉が通じないので、細かくは教わっていません。手の使い方や体の使い方っていうのは自分で見て覚えてやっていました。DFと競り合ってボールを落としたり、ラフなボールを収めるのは自信があったんですが、細かいボールの受け方や、味方の位置を考えてスペースを作る動きだったりっていうのはなかなかね。昔はできてたと思うんです、でも海外でのプレーが長かったから。最初は本当に苦労しました」

──日本代表に選ばれた加藤恒平選手や瀬戸貴幸選手の活躍もあって、Jリーグを経ずに東欧からキャリアアップを目指す道が注目されましたが、ここまでのお話を聞いていると戦術的な部分などで必ずしもメリットばかりではないなと感じました。

 「それはありますね。CBを例にすると、ロングボールで被っちゃった時、日本の場合は『何でカバーしてないんだ?』ってなりますけど、海外だと『何で被ったんだ?』です。少なくとも僕がプレーしたチームでは、カバーとかそういうのはありませんでした。とにかく個人です。もう一つ例を挙げると、ジュビロでは相手のことを考えてパスを出す意識を徹底していました。受け手が左に相手を背負っていたら右側に出す。海外だとパスの質が悪いとかどっちに出たかとかは関係なくて、自分の懐に入って取られたら『お前が悪い』。これはどこの国でもそうでした」

──海外に出て個人の力がついたメリットと、チームとしての戦術的な部分を学べなかったことのデメリットのどちらがより大きいと感じますか?

 「難しいですけど逆に一つ言えるのは、もしジュビロみたいなチームに入ってから海外に行ってたら、僕の性格だと『これキツイよ』ってなって海外でプレーし続けられなかったかもしれません。行った時の年齢にもよるとは思いますけど。僕はジュビロに入って、名波さんはもちろんコーチのヒデさん(鈴木秀人)、(小林)稔さん、中森さんとかみなさんが『こういうふうにやるんだ』って丁寧に教えてくれました」

──ジュビロでは2年間プレーして、今年2月に引退を決意しました。プレーを続けるという選択肢はなかったのでしょうか?

 「ジュビロから契約満了を告げられて、その時は100%現役続行するつもりだったんです。代理人からもいろいろなチームが興味を持ってくれているという話を聞いていました。ただ、自分の中で線を引いていて、そこに合うオファーはなかった。海外、タイや東南アジアも考えました。ですが獲得ではなく練習参加の打診だったのでどうしても腰が上がらなくて。それで潮時かなと思いましたね。1月中に決まらなければ辞めると決めて、それで決断しました。今後はサッカーとまったく関係のない仕事をします」

──差別もですが、それだけではなく東欧でプロになって1部に上り詰めた歩みなども含めて他の選手とはまったく違う、得がたい経験をされてきたと思います。今後の人生にも生きてくるんじゃないでしょうか。

 「そうですね。厳しい環境でやって来た中で培ったメンタルの部分やサッカーで得た友達は、かけがえのないものです。例えば、中学の頃から知っている赤星くん(赤星貴文/現在タイ1部ラーチャブリーFC所属)なんかはそうですね。こんな経験をした選手はそういないですから。今振り返ると楽しかったって言えますけどね」

──中でも一番キツかったのはやっぱりルーマニアでしたか?

 「ルーマニアは民族的に難しい部分がある国でした。ヨーロッパの他の国の人がルーマニア人のことを『乞食』って呼ぶことがあるんです。そんなこと、日本にいたら絶対に知らないままでしたから。勉強になりました」

──他に海外に出て学んだこと、良かったことはありますか?

 「言葉の大切さは身に染みて感じました。基本的には英語を使っていて、特にチェコ時代に家庭教師をつけて勉強したのでグンと伸びました。ルーマニア時代はルーマニア語を積極的に覚えたんですが、(周りの反応が)全然違いましたよ。帰国後にジェイ(・ボスロイド/元磐田)とかいろんな選手とコミュニケーションを取れましたしね。人と繋がれること、人との繋がりが大事だなって思いました。帰国してからも斉藤さんに道を切り拓いてもらって、岐阜でハットさんとプレーしたことでジュビロに呼んでもらえましたからね」

──最後に、現役を続けるつもりだったということもあってちゃんとしたお別れができなかったファンの方に、あらためてメッセージをお願いします。

 「ジュビロを退団した後、『次のチームでも応援するよ』とか『どこでも行くから』って声をかけてくれたサポーターの方がたくさんいました。なのにプレーする姿を見せられなくて本当に申し訳ないと思っています。それに尽きますね。次のステージで頑張りますので、応援してくれたらうれしいです」

■プロフィール
Yuki Nakamura
中村祐輝
1987.6.4(29歳)183㎝/80kg FW JAPAN

静岡県出身。小学生低学年時に地元のスポーツ少年団でサッカーを始める。清水エスパルスジュニアユース、藤枝東高校を経て国士舘大学に進学。4年次進級前にアルゼンチン留学を経験する。大学卒業後、2010年にルーマニア2部CFRクライオバに加入。2012年にはスロバキア2部FKボドゥバ・モルダバを経てチェコ1部ビクトリア・ジジュコフに移籍した。同年に期限付き移籍でスロバキア2部MSKリフマスカ・ソバタに加入するも、人種差別に遭い退団。帰国後、2013年にJ2のFC岐阜に加入した。2015年1月、当時J2のジュビロ磐田に移籍。2シーズンプレーした後、2017年2月に現役引退を発表した。183㎝の強靭なフィジカルを生かした空中戦を得意とし、要所でのポストプレーも優れていた。

PLAYING CAREER
2010-2011 Gaz Metan CFR Craiova(ROU)
2012 FK Bodva Moldava nad Bodvou(SVK)
2012 FK Viktoria Žižkov(CZE)
2012 MŠK Rimavská Sobota(SVK)
2013-2014 FC Gifu
2015-2016 Júbilo Iwata

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中村祐輝人種差別

Profile

高橋 アオ

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