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奈良クラブを支えた男が描く夢。子供も障がい者も楽しめる場を

2018.12.06

新生・奈良クラブが目指す「サッカー」と「学び」の融合 Chapter 4】矢部次郎(奈良クラブ副社長)インタビュー


2008年に「奈良クラブ」へと名称を新たにしたクラブを名実ともに牽引してきたのは、名古屋グランパスやサガン鳥栖でプレーした元Jリーガーの矢部次郎だった。「ロウソクの灯りや懐中電灯を使ったり、街灯のある公園を探したりして練習していた」。「奈良クラブ」としての船出からJFLまでの成長の軌跡、そして副社長として新たな立場で関わることになる新体制のビジョンを聞いた。


選手兼クラブ運営者の怒涛の日々

―― まずは、奈良クラブ誕生の経緯から聞かせてください。立ち上げ前に奈良の国体の監督をされていたということですが。

 「28歳まで10年間、プロとしてJ1からJFLまで経験する中で、いずれ地元の奈良でプレーしたい、それがよりカテゴリーの高いチームであればいいなと思っていました。しかしなかなかそういうチームが生まれてこなかった。その頃は全国各所で新規チームがJに参入していて、僕が高崎にいた頃にはちょうどザスパ草津が参入したのを目の当たりにしていました。でも地元にはそうした動きがない。そうした中、グロインペイン、恥骨のケガで契約も終わり次に何をしようかと悩んだ結果、地元の奈良にサッカークラブを立ち上げたいと考えるようになりました。それで帰って来たものの、学生時代の恩師ぐらいしかサッカー関係者の知り合いがいなかったので、県内の各所を突撃訪問し始めました」


―― すごい行動力ですね。

 「いやいや、本当にすることがなかったので(笑)。そんな中で奈良の国体の監督を任されました。奈良県内の社会人チームの、草サッカーでも真剣にやっている選手たちを集めて練習していく中で、少しずつ今の奈良のサッカー事情がわかってきましたね。いくつかのクラブ関係者と夢を語りましたが、当時はJリーグを目指そうと言っても『奈良では無理だ』とほとんどの人が同じ反応でした。ただ唯一、奈良クラブの前身である都南クラブの代表の方が、『奈良にもJを目指すクラブを作る必要があると思う。任せるから頑張ってくれ』と理解してくれたんです。そこで都南クラブに加入して、2008年には奈良クラブとして県リーグを戦い始めました」


―― 国体の監督をやったからではなく、プレーしている頃からクラブを作りたいという目的を持っていたんですね。そこにはどんな想いがあったのでしょう?

 「そうですね。奈良に帰る前に決めていました。ケガもあってJリーグをクビになってこの先どうしようかなと、家族もいたのでいろんなことを考えたりして。自分のやりたいこととか、自分の得意なこととか、好きなこととかいろんなことを分析した結果、奈良でクラブを作るというところに行き着きました」


―― ほぼゼロからの立ち上げとなると、練習場所の確保や選手集めが大変だったと思います。

 「その頃の話は本当に笑い話ばかりで(笑)。まず突然Jリーグ目指そうと言われても、都南クラブの選手たち自身にそんな気はないわけです。でもみんな僕の想いや、やってきた活動を知ってくれて、『自分たちがJリーガーになれるとは思ってないけど、とりあえず協力はする。でも無理やと思ったらごめんやで』という感じでチャレンジしてくれることになって。ただアマチュアで日中の仕事もあるので、平日夜の練習にも2、3人しか集まらない。グラウンドを借りるわけにもいかず、ロウソクの灯りや懐中電灯を使ったり、街灯のある公園を探したりして練習していましたね」


―― 当時は選手兼監督という立場だったのですか?

 「はい。その頃にはケガも癒えてきていたので、アマチュア的に現役復帰という形で。マネジメント面のこともいろいろ任せられていて、試合でもプレーしながら、ベンチと交代を相談したりしていました。試合によっては監督が来なかったり、GKがいなかったり、11人ギリギリなこともありました(笑)」


―― Jリーガーだった頃と比べるとすごくギャップがあるというか、よく心が折れませんでしたね。

 「僕はプロ選手を引退してから都南クラブに入るまで1年半ほど無所属だったので、チームメイトがいて一緒にボールを蹴れるというだけですごく幸せでした。無所属の頃は、学校に放課後の部活動に飛び入りで行って子供と一緒にボール蹴ったりとかしていて。車にボールとスパイクだけ積んで、道場破りみたいにいろんな学校に行っていましたね。ほとんど不審者スレスレですけど(笑)。そんな中で地元の指導者の方に名前を覚えていただいて」


―― そりゃそうですよね。インパクトありますよねそれ(笑)。

 「僕は地元で有名な選手でもなかったので、そういう草サッカー、ストリートサッカーみたいなことしかできなかった。だから、当時は所属するクラブがあって、2、3人集まってくれるだけでもうれしかったですね」


―― その後2010年にはNPO法人も設立されました。この時は正式な代表者だったのでしょうか?

 「一応もともとの代表の方が理事長でしたが、実質的には任されていました。選手も続けていましたし、監督・コーチもやって、営業、運営、広報、スクールのコーチまで、本当に何でも屋でしたね。その頃が一番慌ただしかったかもしれないです」


―― 当時スタッフは何人くらいいたんですか?

 「その時は1人だけアカデミーコーチがいました。それ以外は選手兼スクールコーチの僕を含めて3人くらいです。事務は僕とアカデミーコーチでやっていました。Twitterの実況とかも、『矢部選手が出場します』とツイートしたら更新が止まる、みたいな感じで(笑)」


―― すごいなあ(笑)。2010年当時って所属するリーグはどこでしたっけ?

 「2008年が奈良県1部で、2009年が関西2部で、2010年から関西1部ですね。NPOになる前後まではみんな部費を払ってやっていましたし。正直その頃は練習にも人が集まらないとか、お世辞にもスポンサードしていただくようなチームではなかったなと思っていたので、営業活動はしてなかったんですけど。2010年頃から徐々に自然発生的に応援したいと言ってくださる方が増えてきて。それでちょっとずつ営業活動も始めていきました」


―― 一体1人何役なんだって話ですけど(笑)。それはどうやってこなしていたんですか?

 「こなせていたかどうかもわからないです。やっぱり全体的にやるべきことが薄まってしまっていたし、チームの伸びも小さくなってしまったのかなと思います。何にせよお金もなかったので、とにかく成果と支援、実績を残すのが先か、応援してもらうのが先かというところでいつもジレンマを抱えながら、両方同時進行でやっていましたね」


―― 僕も家族がある身なので、自分だったらどうするかなと考えながら聞いていたんですけど、収入面はいかがでしたか?

 「奈良に帰ってから1年半くらいは自分でスクールをやっていましたが、年収は100万円にも満たなかったです。清掃や倉庫での仕分け作業、いろんなアルバイトもしていました。幸い奥さんも奈良出身で実家にも近かったですし、食うこととか、屋根がなくてとか、そんな生活ではなかったですけど。NPOができてからも、助成金を少しもらえたりし始めたものの、変わらず焦っていましたね」


―― うちの奥さんだったら、許してくれないなと(笑)。

 「(笑)そうですね。僕は奥さんには頭が上がらなくて。本当に尊敬しています」


中川社長との出会い、そしてJFLへ

―― その後、2012年からGM(ゼネラルマネジャー)兼アンバサダーに就任されます。

 「2011年には関西1部リーグで初めて優勝しました。その結果、JFL昇格を懸けた全国の地域リーグの決勝大会である地域チャンピオンズリーグに出場できましたが、1次ラウンドで敗退しました。その後、当時僕も33歳になっていたので、現役を続けるかクラブ運営をやるかで中途半端になっていた部分を整えていきたいと考えた時に、後者の方がクラブのためになると思い、現役を引退しました。その際に中川さんにも相談して、『1、2年プレーを続けるより運営をやった方がいい』とアドバイスされました」


―― 中川さんとの出会いは2010年の南アフリカW杯の時だったと伺いました。

 「はい。日本対カメルーン戦の、本田圭佑が点を取った日の夜でした。共通の友人がスケジューリングしてくれたんですが、その友人がサッカーをまったく知らない方だったので、代表戦の日にかぶせてしまって(笑)。お互い、なんでよりにもよって今日なんだと思いながらご飯を食べて、その後代表戦を見に行こうということでスポーツバーに移動して」


―― 中川さんは「最初は『イケメンのJリーガーだしチャラついた奴だろう』と思っていたけど、スポーツバーで矢部さんに解説してもらいながらサッカーを観たのが面白くて意気投合した」とのことでした(笑)。

 「はい(笑)。周りが騒いでいる中で、僕と中川さんだけ次の展開を予想したり、日本の戦い方の狙いとかを淡々と話していたら、それが思いのほかウケたみたいで。それから試合にも来てくださって、まだお客さんも100人くらいの頃だったのですが、奈良クラブが点を取った時に思わず心が躍ってしまったとのことでした。この時に中川さんが地元のクラブを応援したいという意識が芽生えたと言っていましたね。それからすぐにユニフォームデザインを担ってくださるようになり」


―― 最初は、矢部さんをはじめ選手たちからすごく不評だったと伺いました(笑)。

 「もちろん意図はわかっていたんですけど、ちょっと『うわっ』と思いましたね(笑)。その前からユニフォームにせんとくんを入れたり、話題作りはしていたんですけど。ただ世論の反応を受けておいしいと思い始め、2年目からはみんな素直に着るようになりました(笑)」


―― 話題になりましたからね。

 「そうですね。2年目は特に、(当時のセレッソ大阪監督の)クルピが欲しがってくれたので。クルピが天皇杯で対戦した時に試合後の記者会見でユニフォームが欲しいって言ってくれて、プレゼントしたんですけど」


―― 水玉模様の寝巻きみたいなやつを(笑)。

 「そうです(笑)」


―― 2012年は途中から羽中田監督が辞められて、矢部さんが監督代行、その後正式に監督になられていますが。

 「監督代行をしたら、セレッソ戦以外は全部勝ってしまって」


―― その手腕は何なんですか(笑)。

 「その前の年に優勝した感覚がみんな残っていて、そのトレーニングをもう一回やり直しただけなので、僕自身が何かしたわけではなくて。その次の年は案の定コケて、マネジメントの難しさ、指導の難しさを痛感しました」


―― 2014年に地域リーグからJFLに昇格されますが、当時の状況はいかがでしたか?

 「2013年までは、やっぱり上に行くには資金不足の状況で。当時調べた結果、昇格しているクラブは最低5000万円の売上があったんですが、到底そこには追いついていない状況でした。でもいろんな人に頭を下げて協賛を増やすことができ、その結果少し予算も増え、監督を獲ったり、シュナイダーとか、J経験者のベテランを獲ることができました。そうして2014年は、ベガルタ仙台に勝ったりとか、良い流れで昇格することができました。僕もその頃は現場を監督に任せられていました」


―― GMとしての仕事に専念できていた?

 「GMといっても、実質経営もしないといけなかったので、強化と営業と広報とか、あとアカデミーのコーチもやっていましたし、クラブスタッフも2、3人だったので、結局なんでもやっていて。あと、バスの運転手も(笑)。すべてのアウェイゲームで僕がバスを運転して行きました。その頃はまだ体も動いたので練習試合にも出場していましたよ(笑)」


―― それ以前はそこに加えて監督業もあったんですよね。凄まじいですね(笑)。

 「手作りでやってきて、その間に必要なことは一通り自分でも経験したので、その経験は活きていると思います。監督の苦労もわかりますしね」


―― JFLに昇格してからクラブの周りの状況は変わりましたか?

 「J3クラブライセンスを取れるように競技場を改修してもらえたり、いろんなところで応援の輪が広がったのは間違いないです。ただ実際は足りないことも多く、ようやく今年くらいから、Jに昇格するチームの運営規模になれたという感じです。沼津さんや鹿児島さんや、今年の八戸さんとか、それくらいの規模にようやく今年追いつけました」


―― 2016年から正式にNPO法人奈良クラブの理事長に矢部さんが就任され、J3クラブライセンスを取られて、昇格する体制は整っている状況です。

 「そうですね。あとは競技成績と観客動員をクリアできれば、というところです」


―― 今年の天皇杯では名古屋とのPK騒動がありましたが、あれの反響や選手たちの反応とかはどんな感じだったんですか?

 「最初聞いた時は、いやいや冗談でしょという感じでしたね。なんで勝ったのに負けてるのかとか、マッチコミッショナーや相手監督がサインをしているのにとか。勝敗が入れ替わるのは前代未聞だったので、本当に混乱と、涙を流しているやつもいたし。すごく選手たちの心配はしましたね。その中で協会ともやり取りしながら、それこそ名古屋は僕の古巣でもあるので、当時チームメイトだった人たちが担当してくれたりして、すごく友好的に話を進められました。最終的には覆らないことに関しては、僕らも日本サッカー協会に所属している以上は協会のルールに従ってやらないといけないし、独立リーグを立ち上げるわけではないので。奈良クラブが示した表明文に感銘してくれたり、選手たちを心配してくれて頑張れという反響がすごく大きかったので、選手たちもみんなこんなに応援してくれているんだと感じて、騒動後はずっと寂しい感じでしたけど、そこで一気に元気を取り戻せました」


新体制の意味、共鳴するビジョン

―― 本当にいろんなことがありつつJFLまで来たわけですが、ここからは奈良クラブが新体制になるというところで、なぜそれを決断したのかを矢部さんにお聞きしたいです。

 「経営や組織のマネジメントを学ぶ中で、やはりトップの器以上に組織は強くならないということを感じていました。クラブは着実に成長してきましたが、近年は成績も伸び悩み、理想の実現のためには今の成長スピードでは圧倒的に足りていないことは理解していました。そこに中川さんが戦力になってくださるということで、クラブの成長を第一に考えて、決めました」


―― 矢部さんから中川さんにお願いした?

 「僕がいろいろと上手くいかないことを愚痴っていたら、中川さんが一肌脱いでくれたという感じです(笑)。今回社長は中川さんになりますが、決して僕がクラブ運営を諦めたり譲ったわけではありません。中川さんと僕の能力をかけ合わせてより大きなクラブを作っていこうと。林くんについてもそうです。ビジネスサイドとサッカーサイドを任される強力な人たちに加わってもらい、奈良クラブの組織をより強固にしていこうという狙いです」


―― 林さんは最初どのような印象でしたか?

 「彼に初めて会った時は、まだ全然フラットな状況で会ったんです。すごく賢いなという印象と、サッカーに対するまっすぐな情熱を感じました。彼と話してあらためて実感しましたが、日本のサッカーは遅れてきている。僕は、引退してから14、5年、Jリーグの現場からは離れてアンダーカテゴリーでやってきて、クラブ内でも指導からは離れた立場です。でも客観的に現場を見た時、うちのクラブがサッカー的にもまだまだ成長幅が足りないと感じていて。日本を見渡しても、良いトレーニング、サッカースタイルがそれぞれの監督、コーチに任されてしまっているという現状があります。でも林くんと話して、ヨーロッパのサッカー界ではビジョンやコンセプトがまずあって、それに基づいて行動するということが当たり前なんだとあらためて認識して。Jにそういう狙いを持って作ったクラブはあまりない。監督によって偶発的にスタイルのようなものが生まれていくことが多いように感じます。でもそうではなく、最初にクラブがビジョンを打ち立てた上でチームを作っていこうと。それって中川さんからの経営のアドバイスであり、ビジネス界では当たり前のことなのに、日本のサッカークラブ、特に現場では目の前の勝ち点に追われがちになり、実践されてこなかった。そのあたりの僕のビジョンと林くんの考えや経験が噛み合い、まさに求めていたものだと思いましたね」


―― 23歳のGMというのは前代未聞ですが、年齢は気にならなかったですか?

 「そうですね。むしろ今スポーツ界では昔の感覚で指導する人が問題になっている状況で、僕自身もそうなりかねないという危機感を持っています。なので、最前線で勉強していてかつ若いというのは良いと思いました。そう思わせたのは彼の人間性でもあります」


―― 新体制では、経営のプロでもある中川さんが経営を見て、林さんが現場を見る形になると思います。矢部さんの役割はどうなりますか?

 「僕はその両方を見ていきます。奈良の特性として、例えばアカデミーの選手たちがみんなガンバ、セレッソ、サンガ、ヴィッセルや県外の強豪校に取られるんですね。奈良に残っている16歳の子は20番目以降の選手になってしまう。そういう土地柄の中で逆転現象を起こしていきたいですし、そのあたりの地域の空気感や、これまでの応援してくださったスポンサーさん、サポーター、自治体等との繋がりを大事にしていきたいと思っています」


―― ここまでの奈良クラブの歩みは矢部さんそのものですからね。

 「そもそもクラブを作りたいと思った理由が、自分が育ててもらったサッカーを通じて真の意味で成長できるクラブを作りたかったからです。経営者や監督の感覚だけが基準で、毎年方針が変わり、そのクラブ固有のものがない――ではなくて、地域の子供たちが成長できて、みんなが憧れて、上手い下手や境遇の違いは関係なく誰もが楽しめる、なおかつ強いというクラブを作りたかったというのが始まりだったので。生まれつき障がいを持っている方もいるし、そういう人にとっても楽しめるクラブにしたいと思っています」


―― 電動車椅子サッカー部門等、下部組織もかなり早いタイミングから作られていますよね。

 「トップカテゴリーでサッカー選手になれる人はサッカー競技者の0.1%、もしくはそれ以下という統計があります。それ以外の99.9%の人たちや選手たちがちゃんと社会で活躍できるように成長させたいということを考えています。仮にプロになれたところでいずれは引退するし、そういう選手が社会で生きていけるベースを作れる組織にしたい。それこそ中川さんが最初に僕に抱いた印象のように、『サッカー選手はチャラい』というようなネガティブな印象を持たれてしまうのではなくて、『やっぱり奈良クラブでサッカーやっていただけある』『奈良クラブで学びたい』と言われるような文化を作っていきたいと思っていて。それがサッカーの価値やスポーツの価値を高めることになりますし、サッカーをする意味、サッカーを選ぶ意味にもなると思うので。努力する習慣、学ぶ習慣を他のジャンルにも生かせるようなサッカーのあり方を作り上げていきたいと思います。それはトップチームだけでなく、アカデミー組織や障がい者スポーツでも取り組めますから」


―― 矢部さんは奈良出身ですが、奈良ならではの地域性を反映したクラブカラーというのは、どういうことをイメージされていますか?

 「奈良はかつて都があり、災害も少なく、守られている土地です。その影響かとにかく穏やかで争いが少ない。また教育水準が日本一高くて、勉強熱心な真面目な土地柄です。しかし産業を大阪や京都に取られており、県民の3割が県外で就業・就学してしまっている。優秀な人材が流出してしまう土地なんです。そんな環境でも、クラブの中で選手を育成して、優秀な選手を取られてもどんどんアカデミーから次が出てくる、個々の能力が多少劣っていてもチームワークやゲームモデルで世界と戦える、そんなクラブカラーにしていきたいですね」


―― もともと矢部さんは下部組織にこだわってクラブを作られていたと思うんですけど、そこには引き続き注力していくのでしょうか?

 「そう思っています。林くんもそこには理解があって、アカデミーの方もどんどん見ていきたいと言ってくれています。トップからアカデミーの一貫した教育をしっかりと実現して、奈良クラブらしいサッカーを実現したいです」


―― 最後に、矢部さんが今後の奈良クラブに期待すること、具体的な目標について一言お願いします。

 「5年でJ2、10年でJ1というのはみんなで言っています。その中で、スタジアム、練習場、クラブハウスを整備していき、さらに選手たちが様々な教育を受けられてプレーヤーとしても人としても成長できるような環境を作りたいです。もっと広く地域の人たちと触れ合ったり、サッカーの技量だけでない、みんなが親しめるようなクラブ作りをしていきたいです」


Edition: Mirano Yokobori, Baku Horimoto

Profile

浅野 賀一

1980年、北海道釧路市生まれ。3年半のサラリーマン生活を経て、2005年からフリーランス活動を開始。2006年10月から海外サッカー専門誌『footballista』の創刊メンバーとして加わり、2015年8月から編集長を務める。西部謙司氏との共著に『戦術に関してはこの本が最高峰』(東邦出版)がある。