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純粋すぎるほど純粋だった「広島のダイヤモンド」柏木陽介。サンフレッチェの番記者から贈る言葉

2023.11.13

11月1日、FC岐阜から柏木陽介の2023シーズン限りでの現役引退が発表された。サンフレッチェ広島ユース時代から彼の成長を見守ってきた中野和也氏に、「広島のダイヤモンド」と呼ばれたレフティへの素直な想いを綴ってもらった。

「ネガティブな少年」を支えていた強い覚悟

 「陽介は、いつも、泣いていた」

 広島ユースで柏木陽介を育てた森山佳郎監督(現U-17日本代表監督)の言葉である。

 「特に1年生の時は、よく泣いていましたね。『僕は下手だから、実家に帰らせてください』って、何度も言っていました」

 15歳の柏木には、自信の欠片もなかった。

 「広島ユースの練習に、ついていけない。1タッチでのプレーもできないし、ポゼッションもミスばかり。レベルが違いすぎる」

 無理もない。彼が加入した2003年の広島ユースは、高校年代最強のチームだった。

 平山相太や兵藤慎剛、中村北斗など錚々たるメンバーが揃っていた高校サッカー史上に残る最強チーム・国見高や名門・帝京高に大勝。広島経済大にも10-2という大差での勝利を飾り、日本クラブユース選手権とJユースカップの2冠に輝いたほどの実力チーム。公式戦では負けたのは2度だけで、1敗は闘莉王がプレーしていた水戸ホーリーホック(天皇杯)。つまり高校年代には高円宮杯準決勝の静岡学園戦しか負けていないのだ。

 3年生に田坂祐介(元川崎F)や田村祐基(元広島)、そして2年生には髙萩洋次郎、髙柳一誠、前田俊介、森脇良太、桒田慎一朗、佐藤昭大ら、プロ選手を大量に輩出した伝説のチームだ。

 同級生には、槙野智章がいた。自他ともに認めるポジティブモンスターである同期と違い、柏木はネガティブを身体で表現していた少年。5歳の頃からプロになりたいと思っていたが、自分よりも上手い選手に出会うと、途端に下を向いた。

 「俺、やっぱり無理だ、プロになるなんて」

 練習で打ちのめされ、寮の部屋で涙にくれた。情けなくて、仕方がなかった。でも、冷静になるといつも「頑張らんとあかん」という意志が心に浮かぶ。

 彼は、母子家庭だった。母が1人で、3人の子供を育てていた現実を、2番目の子供である陽介はよく知っていた。

 「広島ユースに入る時も、お金で迷惑をかけてしまった。絶対にプロになって、親孝行するんだ。だからここで、逃げ出すことはできないんだ」

 柏木家がいかに、お金で苦労したか。著作である『自信が過信に変わった日 それを取り戻すための2年間』の巻末に掲載された、母・清美さんの告白で筆者はその現実を知った。

 スパイクは土用の一足しかなかった。みんながジュースを飲んでいるのに、柏木は飲めなかった。部屋には先輩からもらった三段ボックスしかなかった。

 そういう状況にあった彼は、卒業後にプロになれなかったら就職すると母親に告げていた。大学に行く余裕は、なかったからだ。

 必死で努力した。高校3年生でプロになった髙萩がプレーしていたボランチのポジションを2年生でとり、日本クラブユース選手権・高円宮杯と2冠に輝いた。あまりに強過ぎて、公式戦でほとんど負けたことがない。JユースカップのタイトルをPK戦で失った時は、1つの事件だった。

 高校3年になり、槙野とともにチームを牽引した。タイトルは獲れなかったが、柏木個人の評価はうなぎのぼり。スピードはそれほどでもないが誰よりも走り、ドリブルも切れ、精密な左足を武器にしたアイディアのあるプレーは大きな注目を集めた。高校3年時にはナビスコカップ(当時)にも出場。早々にトップチーム昇格も内定した。

Photo: Kayo Nakano

直面した「プロの壁」、沢田コーチの激励

 2006年初頭の広島ユース卒団式、母に「ありがとう」と感謝を告げた。これでプロだ。どんどん活躍して稼いで、「おかんに楽をさせてやりたい」と思った。

 だが、彼はいきなり、大きな壁にぶつかる。

 3月29日、フクダ電子アリーナ。ナビスコカップの千葉戦で先発を言い渡された。プロ入りして初のビッグチャンス。だが、彼は「活躍するんだ」という決意よりも「ミスしたらどうしよう」という想いに囚われた。

 周りの先輩からは「ミスしてもいいから」と言われていたのに、ピッチに入るとそんな言葉はどこかに飛んでいった。ファーストタッチでミスしたことで、恐怖は頂点に達した。

 「ボールよ、来るな」

 ボールプレーヤーであるはずの柏木なのに、そんなことばかりを考えていた。ボールが来なければミスすることはない。

 当時の千葉はイビツァ・オシムが指導していた時代。実際、ホームでのナビスコカップ・千葉戦では前半だけで4失点をくらい、リベロで先発した槙野はボロボロにされている。だが、彼は決して「ボールよ、来るな」とは思っていなかった。

 「ダメだ。全てが一歩、遅れている」

 プレーすればするほど、柏木は萎縮した。その姿を見た小野剛監督(当時)は14分、ボランチでプレーしていた柏木を、左サイドにポジションを移した。

 「よかった。ボランチだとボールが来てしまうから……」

 だが、ほとんどやったことのないサイドでいいプレーができるわけもない。42分、柏木は交代を告げられた。ハーフタイムを待たずしての交代だ。

 仲間たちが戦っている中、誰もいないドレッシングルームで、若者はシャワーを浴びた。熱いシャワーが身体を、顔を打ちつける。その中で、ルーキーは泣いた。泣き続けた。

 「俺は……なんて……ダサいんだ」と。

 涙は、止まらなかった。

 「きっと広島を背負って立つ」と森山佳郎が期待した柏木陽介の評価は、地に落ちた。サテライトの試合でもベンチスタート。小野監督が途中退任し、望月一頼監督に替わっても、状況に変化なし。チームは降格圏に沈み、望月監督は徹底的な堅守速攻のサッカーを貫くことで打開を図った。守備に課題を抱えていた柏木にとってチャンスの芽すら、なかった。

 そんな時、沢田謙太郎コーチ(現広島育成部長)が声をかけた。広島ユースのコーチとして森山監督を支えてきた沢田コーチは、柏木に厳しい言葉を投げかける。……

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サンフレッチェ広島柏木陽介

Profile

中野 和也

1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。

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