楢﨑への尊敬とランゲラックとの絆。「慣れはない」名古屋最古参の武田洋平が到達した第2GKの境地
【特集】チームを陰から支えるベテランGKの矜持#1
武田洋平(名古屋グランパス)
GKは1人しかピッチに立つことができない特殊なポジションだ。注目されるのは、ピッチ上で輝く正守護神。それ以外のGKたちにスポットライトが当たることは少ない。1つのクラブにすべてを捧げ続けてきた者、数多くのクラブを渡り歩いた経験を持つ者、常に上を目指し続ける向上心を忘れない者……チームを陰から支えるベテランGKの矜持をぜひ知ってほしい。
第1回では楢﨑正剛と定位置を争い、ミッチェル・ランゲラックを支えてきた名古屋グランパスの最古参・武田洋平の第2GKとしての生き様を振り返る。
2019年に残留を選んだ決断の理由
努力も苦労も表には見せず、ただひたすらに己の道を往く。しかし孤高と言えばそうではなく、むしろチームを包み込む父親のような佇まいで仲間たちを見守っている。武田洋平とはかくも不思議で独特である。GKには“変人”が多いというのはサッカー界の1つの定説だが、武田もまさしくその系譜に連なる1人であり、だからこそ人物として興味深い。今季で名古屋グランパス9年目。最古参となった彼をチームの顔と表現して否定する者はいないだろう。前歴を見れば清水エスパルスを皮切りに期限付き移籍を含めて5チームを渡り歩いた旅人は、ここを選手としての“終の棲家”とした感もある。37歳の大ベテランとなったそのキャリアを一言で表現するのは難しく、現所属先に限って言えばそれは鍛錬と準備の日々。第2GKという不名誉な称号も、武田が背負えば悪くないものにも見えてくる。なぜならそれは、こと名古屋においては、何より難しい仕事だからだ。
少し前提を話す。つい最近、武田の口からこんなセリフを聞いた。「名古屋のサポーターはあれやね、目が肥えてるよね」。何のことかといえば、GKという職業に対する眼識があるというのである。なるほど確かに、名古屋の正守護神と言えばディド・ハーフナー、伊藤裕二というJリーグ草創期のチームを支えた名手に次いで、1999年からは楢﨑正剛が、2018年からはミッチェル・ランゲラックがその座を引き継ぐという恐るべきハイレベルな職場だった。固定制になってからの背番号1は伊藤、楢﨑、ランゲラックしか着けていないという事実がまたすさまじく、武田の知る9年間の名古屋だけでも楢﨑、ランゲラックの両巨頭がゴールに鍵をかけてきたのだから、言わんとすることは十分に理解ができた。Jリーグ史上に間違いなく名を残す2人とのポジション争いは、本音を言えばどんなキーパーだって避けて通りたい道ではないだろうか。
ただし、かつてこのチームに所属してきたGKたちの話を聞くと、勝つことだけが必ずしも、正解ではないことも感じている。たとえば武田の“先代”のセカンドキーパーであった高木義成は、楢﨑とともに行なう練習の日々に価値を見出してもいた。あの楢﨑がどうやって自分を作り上げているのか、それを知ることができるのはチームメイトの特権でもある。武田が加入した当時はジェルソンという優秀なGKコーチもおり、現在もその任に就く河野和正GKコーチの指導も練習環境として申し分ない。リーグ戦出場なしに終えた2018年、シーズンオフのイベントで聞いた「試合に出たい……」といううめきは本物だったが、翌季も今も名古屋で彼はプレーする。2019年に残留を選んだ決断の理由はこうだった。
「個々の選手のレベルが名古屋は高いのは間違いないから、というところ。そういうチームでやった方が自分のためになるかなと思って決めた。いろいろな気持ちの整理がついているかは自分でもわからんけど、勝負できる場所はどこか、勝負をするならばどこか、というところで、どこに行っても勝負はせなアカンけど、自分はもう1年ここでやってみようかなと思ったというわけ」
それはイコール、ランゲラックをはじめとするハイレベルな名古屋GKチームの中での切磋琢磨を選んだということであり、「試合に出たい」と「キーパーとして良くなりたい」という二大欲求で言えば後者をより重視した選択でもある。他ポジションに比べてキャリアの息が長く、また職人的な追求の向きも強いポジションだが、試合に出てナンボのプロフェッショナルの世界においては大きな決断とも言えた。武田のJ1出場記録は、19年のキャリアで23試合。うち名古屋では14試合である。カップ戦などでの出場機会はあっても、充実感を得られるとはお世辞にも言えない数字に、彼の覚悟を逆に感じる。争う気持ちが萎えたわけではないが、己の役割も理解はしている。そもそもが名古屋に移籍してきた時点で彼はある程度、その心づもりは固めていたとも言えた。
似て非なる技術の鍛錬と試合への準備
入団1年目、2016年に武田は7試合のJ1リーグ出場をしているのだが、それはヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)での楢﨑の負傷によって得られた出番だった。その間の武田のプレーも悪くなく、治ったからと言って即元通りというほどでもなかったが、結果は約1カ月で復帰した楢﨑にその座を取って代わられた。武田はまだ20代の頃で、めぐってきたチャンスに意欲も十分だったが、一方でこんなことも言っていたのを今でもよく覚えている。これはキーパーならでは、そして楢﨑というクラブレジェンドとの関係性ならではで、武田という選手の思慮深さ、潔さ、どこまでも尊敬できる男としての印象を強く植えつけられた出来事だった。……
Profile
今井 雄一朗
1979年生まれ、雑誌「ぴあ中部版」編集スポーツ担当を経て2015年にフリーランスに。以来、名古屋グランパスの取材を中心に活動し、タグマ!「赤鯱新報」を中心にグランパスの情報を発信する日々。