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バルサ・スタイルはスーパースターを拒絶するのか?システムと天才の軋みが生み出す栄光

2022.05.02

『バルサ・コンプレックス』発売記念企画#2

4月28日に刊行した『バルサ・コンプレックス』は、著名ジャーナリストのサイモン・クーパーがバルセロナの美醜を戦術、育成、移籍から文化、社会、政治まであますところなく解き明かした、500ページ以上におよぶ超大作だ。その発売を記念して西部謙司氏に、ヨハン・クライフが生み出し、アカデミーを通して一貫して受け継がれてきたバルセロナ・スタイルの構造的な問題――システムを超越する破格のタレントとどう付き合うのか――について疑問をぶつけてみた。

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すべてはクバラから始まった

 あまりにも人気があった。カンプノウ建設に踏み切らせたと言われる人物がラディスラオ・クバラだ。

 1949年、ハンガリーがソビエト連邦の支配下になるとクバラはソ連兵に扮して国境を越え、当時は米国の管轄下にあったオーストリアからイタリアへ渡っている。“グランデ・トリノ”と呼ばれた当時最強とうたわれたトリノでプレーするはずだったが、リスボンからの帰路に飛行機が墜落。トリノのメンバー31人が死亡してしまう「スペルガの悲劇」が起こる。クバラも遠征に帯同するはずだったが、息子が発熱したため行かなかった。

 バルセロナと契約したのは1950年6月だったが、公式戦に出場したのは51-52シーズンから。FIFAから1年間の出場停止処分を受けていたからだ。ハンガリーが契約不履行、軍役不履行、許可なく国境を越えた罪を訴え、FIFAはそれを呑んだ。

 51-52シーズン、クバラは19試合にプレーして26ゴール。ヒホン戦では1人で7ゴールもゲットしている。フランシス・フランコ政権は東側からの亡命者であるクバラを政治的に利用し、公開された映画(『平和を探し求めるスター』)も大ヒット。クバラが本人役を演じた。クバラの歌も流行した。バルサには4回のリーグ制覇をもたらしている。

 バルサの初期のスターとしてはジョゼップ・サミティエール(クバラを獲得したスカウトでもある)、パウリーノ・アルカンタラ、リカルド・サモラがいるが、外国人選手としてはクバラが最初だった。その数奇なキャリアとともに、圧倒的な個人能力で魅了している。

 一方、バルサにおけるスーパースターの受難はすでにこの時から始まっていた。

 エレニオ・エレーラ監督はクバラを排除しようとした。この時のエレーラはまだカテナッチョの大家ではないが。クバラは規律無視の個人主義者の上、酒場からタクシーで練習場に届けられるような男だったので、規律の鬼だったエレーラと合うわけがない。ただ、あまりにも人気が高かったため、カンプノウから遠く離れたアウェイゲーム限定でスターを干していた。

 チャンピオンズカップで、クバラ抜きのバルサはレアル・マドリーに敗れ、エレーラは解任されている。リーグ優勝しながら解任となったのは宿敵に敗れただけでなく、ファンのアイドルをないがしろにしたせいもあっただろう。

バルセロナの本拠、カンプノウの敷地内に設置されているクバラの銅像

名将バイスバイラーvs天才クライフ

 1973年、外国人選手との契約が解禁されると、オランダからヨハン・クライフがやって来た。73-74シーズン、バルサはクバラがいた時以来のリーグ優勝を成し遂げ、クライフはエル・サルバドール(救世主)と称えられる。

 ところが、75-76シーズンに西ドイツ人のヘネス・バイスバイラーが監督になると、クライフと衝突することになった。最初は良好だった2人の関係はみるみる雲行きが怪しくなり、最後はバイスバイラーが「私か、クライフか」と会長に迫る事態に。これはある程度予想がついていたはずの結末と言える。……

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Profile

西部 謙司

1962年9月27日、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、会社員を経て、学研『ストライカー』の編集部勤務。95~98年にフランスのパリに住み、欧州サッカーを取材。02年にフリーランスとなる。『戦術リストランテV サッカーの解釈を変える最先端の戦術用語』(小社刊)が発売中。