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今こそモドリッチも連なる青の系譜を1つに!新CEOボバンのディナモ再生計画を読む

2025.05.26

炎ゆるノゴメット#17

ディナモ・ザグレブが燃やす情熱の炎に火をつけられ、銀行を退職して2001年からクロアチアに移住。10年間のザグレブ生活で追った“ノゴメット”(クロアチア語で「サッカー」)の今に長束恭行氏が迫る。

第17回では、今こそレアル・マドリー退団が決定したルカ・モドリッチも連なる青の系譜が1つになる時?2024-25シーズンを無冠で終えたばかりのディナモで、新CEOとして再建を託されているズボニミール・ボバンの計画を読む。

 4月14日、ディナモ・ザグレブのベリミール・ザイエッツ会長は、クラブのSNSを通してビッグニュースとなるメッセージを投稿した。

 「唯一無二のクラブに対する愛は国境がない。唯一無二のクラブに対する愛には障壁がない。クラブに対する愛は、そのクラブを愛するすべての人々を団結させる。

 私は今日、『青いレジェンド』にクロアチアサッカー界へと戻るよう、そして我われのディナモで活動してくれるよう呼びかけた。ズボーネ(ズボニミール)・ボバンは、我われがクラブの民主化を成し遂げた後、彼自身にとって唯一無二のクラブであるディナモの復帰要請を受け入れてくれたのだ。

 ズボーネ、おかえりなさい」

 あのボバンがCEO(最高経営責任者)として34年ぶりにディナモへ戻ってきた。正式就任は6月1日だが、復帰が発表されてからは毎節のように貴賓席でザイエッツ会長とゲームを視察し、来季に向けたチーム改革に着手している。

 ボバンのディナモ復帰が具体化したのは、とあるTVインタビューがきっかけだった。4月8日にクロアチアの民放局『RTL』の取材を受けた彼は、国内リーグの優勝争いで危機を迎えているディナモの現状を憂うと、このように秋波を送った。

 「私のすべてが(ディナモのクラブカラーである)『青』で始まり、『青』の時が流れ、『青』のために生きてきた。私のサッカーの終着駅は『青』、つまりディナモでキャリアを終えるべきだ」

 このインタビューからディナモ復帰が発表されるまで、わずか6日間のスピード展開。その間にファビオ・カンナバーロ監督が成績不振で解任され、次期SDに合意していたマウロ・レオ(前ローマSD)との契約が反故にされた。4月14日にはザイエッツ会長やズボニミール・マネニツァCEOも同席する会見が執り行われ、ボバンは感謝の言葉を何度も口にした。

 「普段は心の思うままに話しているが、今夜は話すことすべてを書き留めてきた。ディナモのために生き、ディナモのために命を捧げてきた人々を忘れたくないからだ。

 まずは私のアイドルであり、(ユーゴスラビアリーグを制した)1982年のチームのキャプテンであるザイエッツ会長に感謝を申し上げたい。彼の信頼に応え、ディナモのために闘い、全力を尽くすつもりだ。青いクラブを青い民に戻すべく、ザイエッツや(ディナモサポーターの)BBBと一緒に『ディナモの春』(※ディナモ民主化運動かつディナモ議会の最大党派)を通して歴史を築いてくれた理事会メンバー、そしてディナモを愛する人々に感謝している。

 (本来は財務の専門家であり、ボバンにCEOのポストを譲る)マネニツァにはとりわけ御礼を言いたい。彼のような立場に陥ると、(ペップ・)グアルディオラよりもサッカーを知っていると思い込んでしまいがちだが、実際はそうじゃなかった。

 そしてサポーターのみなさんにも感謝している。この数日間で私が受けた信頼と支持にしっかりと応えられるように願っている」

ボバンの会見動画。当時のディナモは残り8試合でリエカと勝ち点8、ハイデュク・スプリトと勝ち点7を離されていたが、ボバン復帰が発表されてから両チームとの差がみるみる縮まった。最後はリエカと勝ち点で並んだものの、直接対決の結果で2位に終わっている

FIFA、ミラン、UEFAの要職を経てキャリアの総決算へ

 1990年代の欧州サッカーファンにとって「ボバン」は紛れもないビッグネームだが、21世紀からのサッカーファンには彼がどれほど特別な人物なのか、きちんと説明した方がいいだろう。

 テクニックや創造性、得点力や献身性を備えるエレガントなセントラルMFで、ルカ・モドリッチ以前にクロアチアで「10番」といえばそれこそボバンの代名詞だった。もちろん、モドリッチも幼少期からボバンに憧れていた。あえて両者の相違点を挙げるのならば、ボバンは強烈なキャプテンシーを早くに示していたことだ。後天性のリーダーだったモドリッチが、先天性のリーダーだったボバンにタイプを寄せていった、と言ってもいい。

 ボバンは「ユーゴスラビア4強」の一角だったディナモに14歳で入団。16歳でトップデビューを果たすと、19歳でクラブ史上最年少(当時)のキャプテンに指名された。1987年のワールドユース(現・U-20W杯)を制覇したユーゴスラビア代表では、西ドイツとの決勝戦で先制弾を挙げ、PK戦ではラストキッカーを任されている。

 ボバンの故郷、イモツキはクロアチア愛国主義者が極めて多い土地として知られるが、彼もその例に漏れない。1990年5月13日、ツルベナ・ズベズダ戦のキックオフ前にサポーター間で暴動が起こると、ディナモのサポーターばかりが武装警官隊にやられていることにボバンは立腹し、警官の1人に飛び蹴りをした。それにより出場停止の罰則を受け、W杯イタリア大会の代表メンバー入りを逃すことになるが、今でもボバンの「飛び蹴り事件」は多くの国民がクロアチア独立闘争の象徴と捉えている。とはいえ、ボバンはディナモにタイトルを1つも残せないまま、クロアチアが独立宣言を果たしたのとほぼ同時期の1991年夏、ミランに移籍してしまった。

ザグレブ市内にはボバンが警官に飛び蹴りした場面のグラフィティが描かれている。「飛び蹴りを食らった警官はセルビア人だった」という記載がしばしば見られるが、実際に蹴られた警官はムスリム人だった(Photo:Yasuyuki Nagatsuka)

……

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Profile

長束 恭行

1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。近著に『もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚』(小社刊)。

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