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サッカー選手として生きるため、 時国司は選手を“辞めた”

2019.03.20

人生を変えた選択

#3 時国司(元U-19台湾代表主将/台湾フットサル代表、現Orbis Investments日本法人代表取締役社長)

ピッチの中でも、そして外でも。一つの選択がサッカー人生を大きく変える。勇気、苦悩、後悔……決断の裏に隠された様々な想い。海の向こう側へと果敢に挑んだ選手たちに今だからこそ語れる、ターニングポイントとなった「あの時」を振り返ってもらう。

第3回は、生涯を通して「学業、ビジネス」と「サッカー、フットサル」の二足の草鞋を履きこなすために、2度にわたり 選手を“引退”しながら母国代表でのプレーとビジネスでの成功という2つの夢を実現した時国司氏に、驚きの決断の数々について語ってもらった。

■1度目の“引退”は小学4年生

 未来の代表選手のサッカーデビューは、チームメイトから言い渡された「退場」で幕を閉じた。初めてボールを蹴った小学1年生の時。ルールも知らぬまま、公園でサッカーをしている小学6年生の集団に「入れてください」と1人割って入った。

 「せっかく入れてもらったんですけど、その時の私はルールもよく知らずひたすらスライディングタックルばかりして、めちゃくちゃ嫌われて帰らされました(笑)」

 1年生3学期の転校が本格的なスタートにつながった。最初に通っていた小学校ではサッカー少年団への入団条件が3年生以上となっていたが、新天地では1年生でもチームに入ることが許されており、さっそく練習に行った。初練習に臨んだ時国の装いは、アニメ『ポパイ』が描かれたTシャツにスニーカー。コーチから「君、スパイクは?すね当ては?」と聞かれ、「何ですか?」と聞き返すほどだったという。そのため当初は端に座って見学することになった。しかし、あまりにつまらなそうにしている新入部員を見かねたコーチは、紅白戦の後半から出場させることに決めた。空いていたFWでの出場だった。結果は、まさかのハットトリック。その日から“フォワードの選手”になった。

 しかし時国のチームは、近隣の団地に住んでいる子どもたちが入るチームで、サッカー経験のないボランティアコーチが趣味の一環で教えていた。活動も週1回2時間のみ。大会に出ればいつも1回戦負けで練習試合でもしばしば0-10で大敗する、絵に描いたような弱小チームだった。負けず嫌いだった時国は、「どうやったら勝てるか」と思考を巡らせるようになった。結論は、自分で点を取ってチームを勝たせること。パスの選択肢に甘んじず、シュートレンジまでドリブルで持っていった。

 弱小チームは徐々に変わっていく。時国が3年生に上がり、背番号10を背負って臨んだ神奈川県川崎市TEPCO杯少年サッカー大会。チームは準々決勝まで勝ち上がり、最終的に順位決定戦で6位入賞を果たした。この大会、なんとチームの全ゴールを時国がマーク。のちに浦和レッズや東京ヴェルディでも活躍した相馬崇人を擁し、全国大会にも進出した南百合丘SCに敗れたものの、強豪相手にも剛直なプレースタイルで得点を奪い、一矢報いた。この大会での活躍が注目され、時国は市選抜チームに選ばれ、地元の消防署ポスターのモデルになったりと、初めてサッカーで公に認められることになる。

 しかし、時国はここで一度、サッカーの世界から姿を消した。

 「小学4年生からは中学受験の塾に行くことを決めていました。そして、サッカーはいったん辞めました。逆説的ですが、この時サッカーを辞めたのは、サッカーで母国台湾の代表に入るという夢のためでした。自分がプロで食っていけるわけはない。そのため、A代表よりもジュニアユース、ユース、五輪といった世代別代表を思い描いていました。そうすると、大学受験のための勉強に時間を取られることは避けたい。中学受験で大学付属校に入り、受験のためではなく英語やITなど自分が将来必要とする内容を中心に勉強しながらサッカーの時間も作るというアプローチがベスト、という考えでした。塾の先生から進学校を勧められても、頑なに大学付属校を志望し、早慶の付属校を受けました」

 そして、時国は第一志望だった慶應義塾湘南藤沢中等部に合格する。

■リフティング10回から夢の舞台へ

 小学4~6年生の間、中学受験の勉強に重点を置きながらも、時国は「雨が降らない限り毎日校庭を最低30分間走る」というルールを自分に課した。そして、その日グランドを何周走ったか紙に記録していった。その結果、小学6年生の時に、川崎市連合運動会という市内の全小学生が参加する陸上競技大会で最高記録賞(1,000m)を受賞。しかし、3年間サッカーから離れていた人間がすぐに感覚を取り戻せるほど、サッカーは甘くなかった。

 「毎日走っていたので体力は落ちていない自信があり、さあやるぞ!と意気込んでいたのですが……いざリフティングをしてみたら10回くらいしかできない。これはマズいぞと(笑)。少年サッカーではとにかくドリブルで打開してシュートという視野の狭い選手だったので、リフティングとかトラップとか、全然ダメだったんですよね。ほんとひどい選手です」

 中学入学後、サッカー部での練習に加えてボールタッチなどの自主練習を取り入れ、感覚を磨いていった時国。下級生の段階から試合に出て点を取るようになると、再度冷静に目標との距離を測るようになっていった。

 「このままでは代表には届かない」

 慶應義塾湘南藤沢中・高等部は勉強重視の学校だ。グランドは多種の部活で共有、受験をくぐり抜けてきた選手たちで構成されていて、当然スポーツ推薦などない。学校としてスポーツで代表やプロ入りする選手を育成する意図はないので、部活動も大会で勝ち上がることを目的に行っているわけではない。時国は、より厳しい競争環境で切磋琢磨し、台湾サッカー協会を納得させる結果を出すため、1人FC町田(現FC町田ゼルビア)のセレクションを受け見事に合格。

 FC町田ユースでは背番号6を与えられ、走力を見込まれて主にサイドMFを担った。監督からは「お前は試合中グランドをタテに何往復したかが勝負だ」と言われた。

 「そのくらい技術がなかったんです。でも、技術がないからといって試合で貢献できないわけではないと考えていました。監督の立場に立って考えてみると、試合で使いたいのは『技術が高い選手』よりも『頼りになる選手』だと思います。相手チームの選手に『あいつと対峙するの嫌だな』と思わせる気迫でプレーするとか、そういったところで技術の差は埋められると思います」

 のちに日本代表となる阿部勇樹、佐藤寿人、佐藤勇人らを擁するジェフ市原ユース(現・ジェフ千葉ユース)と関東大会で対戦するなど経験を積み、自らの「個の力」にも徐々に自信がついていった。

 「FC町田で一定の結果を残したタイミングで、今振り返ると無謀ですが『全国高校サッカー選手権大会に出て台湾サッカー協会にアピールし、一気に台湾代表に駆け上がる』という、新たなマイルストーンを設定し、高体連にチャレンジすることにしました」

■悲願の代表入り、そして2度目の“引退”

 時国は、慶應義塾湘南藤沢高等部サッカー部入部後すぐにAチームに昇格し、2年生ながらスターティングメンバーに定着する。最上級生になると、監督の判断で時国が主将に就任した。いわゆる外様の選手が主将に就任するのは異例だが、結果を出すことへの時国の強い意志にかけた監督の英断だった。勝つことを目的としていなかったはずのチームは急速に力をつけ、桐光学園、静岡学園など、全国クラスの強豪と互角の勝負を演じることで更に成長を遂げた。全国高校サッカー選手権神奈川県予選では、予選トーナメントを突破し、200校を超える神奈川県出場校のなかで、予選トーナメント突破16校+シード校によって争われる2次予選に、創部以来初めて進出する。高卒ルーキーとしてコンサドーレ札幌に入団する奈良安剛擁する桐蔭学園に敗れたものの、この大会でチーム得点王としてゴールを重ねた活躍が地元メディアに取り上げられたことが、時国の夢への扉を開いた。この報道を見た台湾サッカー協会が、2000年のFIFAワールドユース選手権アジア予選(現FIFA U-20ワールドカップアジア予選)の代表候補メンバーに、ついに時国を選出したのだ。

 「代表候補合宿には当初50人くらい呼ばれていて、そこから半年間近くかけて段階的に最終メンバー23人まで絞り込みが行われました。ずっと目標にしてきた舞台だったので、絶対に落ちたくない、最終メンバーに選ばれたいという一心で、積極的に声を出してプレゼンスを示そうとしました」

 そして運命の日。最終メンバー発表。

 台湾サッカー協会が公表したリストに、時国の名前はあった。

 しかし、それだけでは終わらなかった。時国の名前はもう一カ所、別のところにも書かれていた。キャプテンの欄だ。

 「メンバーリストに自分の名前を見つけた瞬間、頭が真っ白になったのですが、キャプテンの欄にあるのを見た瞬間、さらに純白になりました(笑)」

 そして2000年4月、台湾代表は中国四川省で開催されたFIFAワールドユースアジア予選に臨んだ。当時中国はサッカー人気が高く、U-19代表の試合にもかかわらず公式記録2万人の観客が入った。台湾代表は開幕戦でインドネシア代表に3-1で勝利するなど健闘したものの、この大会アジアを制することになる中国代表に1-3で敗れ、最終予選進出は叶わなかった。キャプテンとして全試合スタメン出場した時国は、何を思ったのだろうか。

 「最終戦が終わったあと、スタンドに感謝の気持ちを込めて手を合わせたら、沢山のお客さんが一斉にバーッと立ち上がって拍手をしてくれたんです。その光景に、サッカーを始めたときから12年間目指し続けた夢が本当に叶ったんだな、とあらためて実感しました。そして、それまで指導して下さった方々や学校、クラブ、家族、色々な方への感謝の気持ちが改めて沸き起こってきました。一方で、大きな夢が叶ったことは、裏を返せば、夢から覚めるべきときがきたことを意味していました」

 ワールドユースアジア予選最終戦が終わった日の夜、時国はサッカーからの2度目の“引退”を決断した。

 「まずは家族を食わせられる力をつける。そして、もう一度サッカーの世界に戻ってくる」

■13年間、ビジネスに没頭

 慶應義塾大学経済学部に進学後、大学サッカー部への入部を辞退、サークルにも入らず、ビジネスの道に進むための勉強に集中する環境を整えた。

 大学1年生から合計11社でインターンシップを行い、ビジネスパーソンとしての修行を積んだ。

 「理論よりも実践。サッカーでも、1年分の練習よりも勝負のかかった1試合の方が大きく選手として成長することがあります。

 当時はまだインターンシップが隆盛になる前で、大学では変わり者扱いでした。学食に行っても様々なサークルが団体で席取りをしていて座る場所がない。1席空けてもらう交渉をする勇気はありません(笑)。

 『仕事なんて社会に出たら一生やるんだから、大学時代は遊んでおいた方がいい。大学時代にしかできないことをしろ』と何度言われたか数え切れません。でもそれはサッカーに例えるなら『4年後にどうせJリーグに入ってサッカー漬けになるんだから、大学4年間はサッカーはしない』という考えに等しいですよね。ビジネスの世界で勝負するための最後の準備期間だと考え、大学ではビジネスパーソンとしての修行に時間を使いました。おかげで青春ドラマのような華やかな大学生活とは無縁でしたが……」

 大学3年生になり、ゴールドマン・サックスの面接の日がやってきた。志望動機を聞かれ、「1日でも早くサッカーの世界に戻るためにここに来た。自分はサッカーで稼げる力がないので、ゴールドマン・サックスで稼いで、サッカーの世界に戻る」と答えた。それを受け入れる会社の度量もすごいが、人生をかけた面接でここまで正直に思いをぶつける学生も稀だろう。晴れてゴールドマン・サックスに入社した時国は、週末や祝日も休まず仕事をして実績を積んでいく。

 その8年後、ロンドンビジネススクールでMBAを取得し、英国の歴史ある投資ファンドOrbis Investmentの英国法人に入社する。Orbis Investmentは「職人として仕事をしろ」という文化で、一生仕事を続けられるよう健康に気を遣い、正規の勤務時間を奨励される。そして、同社での仕事が軌道に乗ってきた2013年、ついに仕事をしながらサッカーの世界に戻ることを決断する。

 「仕事を引退してからサッカーの世界に戻るという二段階アプローチに拘る必要はない。両立の道はある」

■32歳で“現役復帰”

 「実は、当初は監督としてサッカー界に戻る想定でした。MBAとFA(イングランドサッカー協会)コーチングライセンスをダブルスクールのようにして両方同時に取得したんです。

 このFAコーチングライセンス取得にあたり、セントジョージズパークで2週間の合宿があったのですが、同期の受講生には各国の代表監督やコーチが多数いました。この中で、ナイジェリアU-23代表の監督を務めていたクラスメイトが『お前上手いじゃないか。俺のテストのとき、お前が実演に入ってくれないか?』と言ってくれたんです。もちろん、若い受講者の数が限られていたからというのが背景なのですが、それでもナイジェリアU-23代表の監督から褒めてもらえたことは嬉しく、無謀な夢を描くきっかけのひとつになりました。徐々に『監督の仕事は面白いけど、選手としてやれる可能性があるうちはピッチで戦いたい』という想いを抑えられなくなっていったんです。

 目標にしたのは、半年後に開かれるFA National Futsal Leagueのセレクションでした。無謀なのは明らかでしたが、チャレンジする権利だけは誰にでも平等にあるし、不合格でも失うものは何もない。これを選手としての最後のチャンスと決めて、もしこのセレクションに落ちたら指導者の道を進む。でも、イングランドリーグでプレーする自分の姿が、なぜかリアルにイメージできていたんです。それは、代表入りを目指していた中学高校の頃と同じ感覚でした。

 当時、私は現役時代より15kgも太っていましたので、チャレンジを決めた瞬間から食事制限や毎日10kmのランニングなどで体づくりしました。13年間もトレーニングしていなかったので正直かなりキツく、はじめの頃はヨボヨボのおじいちゃんにも抜かれました(笑)。また、チームに所属していなかったため、ボールを使ったトレーニングは主に公園で一人で行っていました」

 そして迎えたセレクション。

 時国は紅白戦で2得点をマークするなどインパクトを残し、合格を果たす。

 「私はなんの特長もない選手。だからこそ、ポジションがどこであれ、ゴールという結果を残すことだけは昔から意識して自分に課しています」

 時国が所属したのは、FC Enfield。監督を務めていたのは、元イングランドフットサル代表のグラント・オズボーン(Grant Osborn)。オズボーンは当初、時国をアラ(サイド)の選手として起用する構想だった。ただ、プレシーズンのトレーニングで時国は壁にぶつかる。スピードある若手選手との競争の中で、チーム内での序列は日を追うごとに下がっていった。

 「そもそも合格するはずはないと思いながら応募して、セレクション当日に実力以上のプレーをしてギリギリ受かった身です。リーグ戦でメンバー入りしようという方がおこがましいのかもしれません。でも、サッカーをしたくても13年間敢えてピッチから離れて仕事に集中する日々を送ってきて、ここで引き下がるわけにはいかないという自分がいました」

 チーム事情を自ら分析した結果、前線でキープできるタイプの選手が必要と判断した。もともとゴール前で勝負するタイプの選手。そこで時国は監督に「ピボ(フォワード)で試してほしい」と直訴した。しかし、イングランドリーグのディフェンダーの体躯は並大抵ではない。ポストプレーヤーには相応のフィジカルが求められる。177cmの時国は、トップリーグで体を張るプレーをするには大きいとは言えない。ウェイトトレーニングを増やし、避けていたプロテインも導入して、開幕までに体をつくった。これがプレシーズンマッチでの活躍につながり、イングランドリーグ開幕戦のメンバー入りを果たした。

 背番号9を与えられ、リーグ戦全試合に出場して準優勝に大きく貢献。FAカップでも決勝トーナメントまで勝ち上がった。リーグ戦に加えFAカップでもゴールを奪い、アジア人としてフットサルFAカップ史上初ゴールという金字塔も打ち立てた。いい形でシーズンを終え、既に翌シーズンの契約更新も打診を受けていたが、シーズン終了と時を同じくして、会社から香港への異動辞令が出た。

 「せっかくイングランドリーグでポジションを得ることができたのに……という気持ちは強くありました。ただ一方で、仕事も非常にやりがいがあり、またフットサルのトレーニングや試合と仕事との両立も問題なくできることがわかったので、もう一度香港で一からスタートしようと思いました」

 香港のフットサルリーグは、香港プレミアリーグ(サッカー)のクラブが出場しており、サッカーのプロ選手がそのままフットサルの試合に出る形態であった。(例えばJリーグのクラブがそのままFリーグも戦っているような構図。)元リーガ・エスパニョーラの選手も出場しているほどで、一定のレベルが確保されていた。時国は、ウェブ検索と香港サッカー協会への電話で、香港リーグについて調べた。そして、自ら資料を作って、直接クラブに飛び込みで電話して売り込み、練習参加を経て、前年度優勝クラブであり香港フットサル代表のコーチが監督を務める香港レンジャースFCとの契約を獲得した。正式な国際移籍手続きが完了すると、背番号10を与られた。そして、早速直後のリーグ戦でスタメンで起用されゴールを記録、勝利に貢献した。これで一気にチームに溶け込んだ。結局香港レンジャースで2シーズンを戦い、2シーズン目にはキャプテンに就任した。外国人選手がキャプテンになるのは異例だ。

 「組み合わせの妙というか、チーム事情がプラスに作用しただけです。私以外はサッカーと兼任している100%プロ選手だったので、みんな足元の技術やフィジカルはあるのですが、フットサルの動きを理解しているのが私くらいという状態でした。それで監督に気に入られたのが大きかったです。キャプテン就任を打診されたときはGMと監督から「経験を活かしてチームを引っ張ってくれ」ということを言われました。私以外は100%プロ選手でしたので、仕事との二足の草鞋だった私がキャプテンになるのは内心納得いかない選手もいたと思いますが、異分子だからこそ逆に自分だけにできることがあると捉えて、少しでもチームに貢献できるよう考えました」

■再び、代表の舞台へ

 香港レンジャースFCでの活躍を受け、台湾メディアから海を越えて取材申し込みがあり、ロングインタビューが行われた。そして、この報道を見た台湾サッカー協会が動いた。2度目の”引退”から15年間の雌伏の時を経て、ついに雄飛のときはきた。2015年夏、FIFAフットサルワールドカップ(コロンビア大会)アジア予選のメンバーとして、時国はついに台湾代表に復帰した。しかも、今度はトップ代表だ。

 「1日でも早くサッカーの世界に戻る」と言って一度サッカーを辞めて仕事に没頭した18歳が、33歳になって本当に代表の舞台に戻ってきた。背番号9の背中は、ユース代表のときより更に一回りも二回りも大きくなっていた。

 「イングランドリーグや香港リーグでの経験を経て、ユース代表までの自分にはできなかったプレーができるようになりました。30歳を超えても、選手として成長できるんだなと感じました」

 モンゴルで開催された一次予選では、開幕戦で韓国代表と対戦。台湾にとって天王山だったこの試合に6-4で勝利して勢いに乗ると、中国代表に次ぐ東アジア地区準優勝で翌年2月にウズベキスタンで開催される最終予選に進んだ。

 続く最終予選では、日本代表を破ってアジア代表権を獲得しワールドカップ本戦でもベスト16入りするベトナム代表に4-5と惜敗したものの、アジアベスト16という成績を残した。時国は国際Aマッチ10試合に出場し、最終予選前に行われた日本代表との壮行試合をきっかけに、Fリーグのバルドラール浦安からも声がかかることになる。

■これからのこと

 ワールドカップアジア最終予選終了後、会社からOrbis Investments日本法人の代表取締役社長就任の辞令を受けたことをきっかけに、選手としては事実上引退した。今後に向けて、どのようなプランを描いているのだろうか。

 「まず、数年間競技と仕事の両立を許してくれた会社への恩返しと、日本の資産運用業界の変革が目標です。そして、自分の夢を実現させてくれた慶應義塾湘南藤沢中・高等部やFC町田ゼルビアそして台湾サッカー界、そこでお世話になってきた方々にも恩返しをしていきたいです。

 そのうえで、せっかくイングランドでFAコーチングライセンスを取得したこともあり、今度は指導者として誰かの夢を叶える手助けができたらと思います。

 自分自身未熟者ですが、それでも伝えられるメッセージはきっとあると思っています。才能のある人の金言は言わずもがな刺激に富んでいますが、やはりそれは天才の感覚。私のような凡人の言葉だからこそ『あいつにできたなら自分もできる』と思ってもらえるからです。また、FAコーチングライセンス取得のときにも感じたのですが、私には『なかなかできるようにならない辛さがわかる』という誇らしくない強みがあるので(笑)、分かりやすくステップを踏んで説明することができると感じています」

■なぜ両立できたのか

 とっておいた質問を、最後にぶつけた。

 なぜ外資金融と競技を両立できたのか――。

 前者は厳しい競争と激務で有名な業界であり、そこで日本法人の代表取締役社長に就任する活躍をしながら、FAカップでのゴールやワールドカップアジア最終予選進出といった競技記録を打ち立てるのは、文武両道という域を超越している。

 「自分に才能がないことを早い段階で受け入れたからだと思います。体が大きいわけでも、足が速いわけでもないうえに、中学1年生の段階でリフティング10回しかできない技術のなさ。才能に恵まれた選手がたくさんいるのを見せつけられる日々の中で、一人ずつ追い抜いていかないと、夢は叶わない。だからこそ、人が練習していない時に1人で練習し続ける覚悟を決められた。

 仕事についてもそうです。ゴールドマン・サックスの戦略投資部は、約20人で一時期ゴールドマン・サックス日本法人の利益の約半分を稼いでいた部隊でした。そこに、高校まではサッカーばかりしていて、大学時代ビジネスの修行を積極的に行ったとはいえ投資の勉強はしておらず、もともとの頭脳レベルも足りない自分が入るのは、重戦車に竹槍で応戦するようなものでした。辛いのは長時間労働ではなく、先輩も後輩も含めて誰と比べても自分が一番頭が悪い、誰にも勝てない、このままだったらクビ、という現実と向き合いながら毎日仕事をすることでした。しかし、自分が最底辺だと自覚し受け入れたからこそ、『質で勝負できないなら量で勝負して、その積で存在価値をつくるしかない』と覚悟を決められました。必死にもがいているうちに、亀のようなスピードながら15年経って、知らぬ間に今のポジションに至ったという感覚です。早い段階から代表を目指していたサッカーとは違い、仕事では飯を食えるようになるために生き残ることで精一杯で長期目標を立てる余裕などなく、社長を目指したことなど当然一度もありません。

 一方、サッカーにしても仕事にしても自分にとって共通して大事だったのは、自分の才能のなさを受け入れ、そこから戦う覚悟を持ったこと。もし才能があったら、必死になりきれずむしろ結果が出なかったかもとすら思います。私の経験上覚悟を持って前進を続けていれば、実現のチャンスはいつか必ず巡ってきます。そのチャンスが訪れた一瞬に最高のパフォーマンスを見せられるだけの準備を数年間にわたって毎日できるかどうか。それが、夢が叶うかどうかを規定する要素だと思います。

 また、高校や大学を卒業するタイミングでストレートにプロ入りするだけがルートではないと思います。私より才能のある選手はごまんといますので、プロか仕事かという二者択一ではなく、クリエイティブに自分なりのルートをつくって目標に向かう道もあるのではないでしょうか」

■プロフィール
Tsukasa Tokikuni
時国司
(Orbis Investment日本法人代表取締役社長)
1981.7.6(37歳)177cm / 68kg FW

台湾台北市出身。FC町田ユース(現FC町田ゼルビアユース)から慶應義塾湘南藤沢高等部。1999~2000年にサッカー台湾U-19代表キャプテンとしてFIFAワールドユース選手権(現U-20W杯)アジア予選に出場。一度ピッチから離れるも、外資金融と二足の草鞋を履き2014年からイングランドFAナショナル・フットサル・リーグ、香港フットサルリーグなどでプレー。2015~2016年には台湾フットサル代表として、FIFAワールドカップアジア最終予選に進出。国際Aマッチ10試合出場。競技の第一線は退いたが各種イベント等に参加しており、3月23日には「岩本昌樹×小野大輔メモリアルマッチ」に出場する。2004年ゴールドマン・サックス証券株式会社(戦略投資部)入社。ベイン・キャピタルを経て現在は運用資産4兆円の投資ファンド、Orbis Investments日本法人代表取締役社長。2012年にロンドン・ビジネス・スクール経営学修士(MBA)を取得している(ロンドン・ビジネス・スクール・スカラー表彰)。Twitter: 時国司 Instagram: Tsukasa Tokikuni

Photo: Takahiro Fujii

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フットサル時国司

Profile

久保 佑一郎

1986年生まれ。愛媛県出身。友人の勧めで手に取った週刊footballistaに魅せられ、2010年南アフリカW杯後にアルバイトとして編集部の門を叩く。エディタースクールやライター歴はなく、footballistaで一から編集のイロハを学んだ。現在はweb副編集長を担当。