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救世主コウチーニョの揺らがぬ心。「セレソンでも何も変わらない」

2018.06.27

『セレソン 人生の勝者たち』 ロシアW杯特別企画


『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』は、長年ブラジル代表の密着取材を続けた藤原清美さんが膨大な取材ノートを紐解きながらレジェンドたちの成功の秘密に迫った力作だ。その中からロシアW杯でも2ゴールと気を吐くコウチーニョのパートを特別公開。ブラジルでは挫折知らずだった神童はいかにして大きな困難を乗り越え、セレソンへと羽ばたいたのか?

「イタリアで困難に出会うことは分かっていた」

 フィリぺ・コウチーニョに初めて単独インタビューを行い、じっくり話を聞いたのは2010年9月、ブラジルのヴァスコ・ダ・ガマからインテル・ミラノに移籍した直後で、フル代表にも初招集された時のことのことだった。

 当時18歳。「これだけ大きな出来事が、人生でこんなに早く起こることを、自分でも想像していましたか?」という質問から始めたほど、彼にとっての大きな夢が、次々と実現した時期だ。

「本当に、いろんなことが、すごく早くに起こっている。僕はインテルでとても幸せなんだ。みんなに歓迎してもらったし、周りの選手たちが僕をすごく手助けしてくれる。

 そして、フル代表は僕の夢だった。このチャンスは別物だし、人生の中でも1度きり。だから、このチャンスを最大限活かすために頑張っていくよ。僕はU-14から、年代別代表のカテゴリーを順番に経て来たんだ。いつでも、招集されることはすごく幸せだった。国を代表するのは、誇りに思えることだからね。

 しかも、今はフル代表で、偉大なアイドルたちと一緒にいる。だから、練習でも試合でも、もっと努力を重ねていくことだ。毎日、何かを見せなければ。毎日、一頭のライオンを倒さないといけない。一日ごとが勝負。昨日より今日、もっとやってみようと、力を入れているんだ。

 僕の夢は、W杯と五輪でプレーすること。それがそんなに先の話にならないよう、今この瞬間から、努力しないといけない」

 リオデジャネイロで生まれ育ったコウチーニョは、住んでいた団地での草サッカーで、近所に評判の天才少年。そのため、6歳で父に連れられて地域のフットサルスクールに入団し、本格的に練習に取り組むようになった。

 そこで瞬く間に成長し、7歳でビッグクラブ、ヴァスコ・ダ・ガマのフットサルに誘われた後、サッカーに転向。U-12からチームの優勝の原動力として活躍し続ける。当時の監督のアドバイスで、FWから攻撃的MFに転向し、司令塔として攻撃を組み立てるようになってからは、さらに才能に磨きがかかり、U-14からブラジル代表にも招集され始めた。

 同じ年齢のネイマールとは、U-15時代からの、セレソンのチームメイト。攻撃でコンビを組む2人は、当時から世界のビッグクラブの注目を集める存在となった。

 技術と器用さは群を抜くものの、小柄で華奢だった彼には肉体改造が必要となった。クラブでは専門家がチームを組んで取り組むほか、家での栄養面は、母が受け持った。父と2人の兄も、試合ごとに分析しては意見するなど、厳しくも温かく寄り添った。

 家族ぐるみでコウチーニョの夢を追いかけ、少年は挫折を知ることもなく、急ピッチで道を切り開いた。16歳でプロになり、すぐにセリエAの名門クラブ、インテルへの移籍も内定。FIFAによって定められた、国際移籍の可能な年齢である18歳になってすぐ、イタリアへと旅立ったのだ。

「イタリアに行くことは、もう2年前から分かっていたから、言葉を勉強していたし、準備をしていたんだ。ブラジルとは完全に違う場所で生きていくんだから、困難に出会うことも分かっていた。でも、『これがフィリぺ・コウチーニョだ』というプレーを見せられるよう、頑張っているよ」

「ピッチの外で学んでいるだけでは、先に進めない」

 しかし、早熟な少年が、初めて壁にぶつかった。シーズン序盤こそ、出場の機会を得て、そのポテンシャルを見せることもあったが、その次の試合では、存在感を発揮できずに終わる。やがて、ケガをしたこともあり、チーム内でのスペースを失っていった。

「試合に継続して出られないことが問題だった。選手は誰でも、試合でプレーすることが必要なんだ。試合に出て、リズムをつかみ、自信と信頼を勝ち取っていけば、さらに自分のプレーができるようになる。インテルでは、そうならなかった。

 でも、逆に言えば、チャンスを得た時に、それに応えられたら、次もチャンスを得られる。僕が応えきれなかったから、次がなくなっていったんだ。そのループを抜け出す方法が分からなくて、苦しかったよ」

 ブラジルでは、年代別代表で一緒にプレーしてきたネイマールが、サントスで確実に成長し、ブラジルサッカーを代表する選手となっていった。コウチーニョのヨーロッパ行き、しかも世界最高峰のビッグクラブに18歳で移籍したことについて「早過ぎた」という意見が出るようになり、若手選手のヨーロッパ移籍に適した年齢について、ブラジルサッカー界やメディアでの議論のきっかけにもなった。

 インテルでは、そんなコウチーニョをブラジル人選手たちが全力でサポートした。

「僕がインテルに行った時、あそこには、とても経験豊富なセレソンの選手たちがいた。W杯でプレーしたり、優勝したことのある選手たちだ。

 ジュリオ・セーザルは、よく彼の家での食事に呼んでくれた。ルシオはいつでも近くにいて、いろいろな話をしてくれたし、アドバイスをくれた。彼自身、自分がやることに、とても真面目に取り組む人で、今でも僕がお手本にしている選手だ。彼らから得たものは、僕のプロ人生でも大きな土台になっている。」

 そんな中、コウチーニョは一大決心をした。

「ピッチの外で学んでいるだけでは、先に進めない。レンタルで他のクラブに行かせてほしいと申し出たんだ。試合に出ることが必要な時期だった。僕はプレーがしたかった。

 頑張る方法はたくさんあると思うんだ。1度引き返して、例えばブラジルに帰って、やり直すこともできる。今いる場所に留まって、チャンスを待ちながら準備をすることもできる。でも、それは考えなかった。

 あの時の僕は、自分には違った経験が必要だと思った。それは、違う国、違うクラブでプレーすることだ。今が苦しいからと言って、どこに行ってもうまくいかないわけじゃない。新しい場所で挑戦することに、不安はなかった。やってみることだよ。挑戦することだ。

 その時、スペインのエスパニョールが僕のサッカーに興味を持ってくれたんだ。“倒すべきライオン”がそこにいた。それで、4、5カ月の間、あそこでプレーしたんだけど、僕にはすごく重要なことだった。16試合に出て、5ゴールを決めた。自分をすごく良く活かせた。自分を取り戻すためにも、すごく良い経験だった」

「アイニにだけは自分を見せられる」

 そんな彼を支えた、もう1人の大事な人物が、幼なじみであり、現在は妻であるアイニだ。8歳の時、草サッカーで対戦相手の応援に来ていた1歳年下のアイニと知り合い、最初は友達に、やがては恋人同士になり、10年間の青春時代を共に過ごしてきた。

 18歳でインテルに移籍したコウチーニョは、最初は1人でイタリアへ渡ったものの、ホームシックに苦しんだ。まだ学生だったため、ブラジルに残ったアイニへの恋しさが募る。苦しい時も淡々としているコウチーニョが、彼女にだけは、辛さを吐露することができた。

 コウチーニョは彼女の両親に、彼女との関係が単なる恋愛ではないことを伝え、彼女には、結婚を前提にイタリアに来てほしいと頼んだ。彼を信じ、17歳だったアイニは、学校を中退し、家族や友達とも離れて、ミラノへ渡った。それからは、「フィリぺは良いところばかりだけど、何より信頼できる人」と語り、彼が好調な時も、苦しい時も、明るく支えながら、共に歩んでいる。

 コウチーニョの自宅を訪問し、インタビューを行う際、以前は彼が1人、ニコニコと出てきてくれたのだが、娘ができてからは、家庭的な雰囲気になった。インタビューが終了する頃には、アイニと娘のマリア、犬のウィウとメウの2匹が居間に集まって、撮影に参加してくれる。

 そうなると、コウチーニョの笑顔もさらに倍増し、温かいムードに包まれる。「飼い主がおっとりと笑顔でいると、犬までおっとりした感じになるね」と言うと、彼は笑い、まだ幼い娘が犬に抱きついてキスをする。幸せが伝わってくるようだ。

「僕はあまりいろいろなことを、表に出すタイプじゃない。だから、昔から彼女にだけかな。悲しい時に、それを隠さずにいられるのは。子供の頃から一緒にいるから、長いよね。でも、いつでも新しい気分なんだ。イタリアで僕の両親とも一緒に暮らし始めたり、住む国が変わったり、結婚したり、それで2人だけで住むようになったり、子供ができたり。僕らはいつでも新たな人生で、新たな経験をしているんだよ」

「リバプールでは、最初からすごく幸せだった」

 エスパニョールで活躍した後、レンタル期間を終えて戻ったインテルでは、スペインでの活躍を繰り返せず、ポテンシャルにも疑問符がつけられ始めた。その時、訪れたチャンスが、リバプール移籍だった。

「この移籍は急ピッチで起こった。新聞に出るまで、僕も知らなかったんだ(笑)。決まった時は、僕もやってみようとすぐに思えて、新たな人生に突入した。インテルでは苦しい時期が長かったけど、あそこでの経験は、僕にとって、すごく良かったんだと思う。ここへ到達するための良いことを学び、良いことをしてきたんだと信じている」

 コウチーニョはイングランドの地で、クラブ年間最優秀選手賞を2年連続で獲得したり、15-16シーズンには、UEFAヨーロッパリーグ・ベストイレブンにも選ばれた。リバプールは実質、「コウチーニョのチーム」とみなされるようになっていった。その大きな理由を、コウチーニョはここで得た信頼だと語る。

「リバプールでは、最初からすごく幸せだった。特に、移籍当時の監督だったブレンダン・ロジャーズにすごく信頼してもらえたのが、本当に大きかった。言葉でも、いつもそれを伝えてくれたし、試合に出してくれた。世界最高峰の1つであるプレミアリーグで、継続して起用してくれた。そして、ピッチでは僕を自由にプレーさせてくれた。

 もちろん、プレミアリーグのサッカーが、イタリアよりも、プレーも展開もスピーディーなのが、僕にとってやりやすい、というのもあった。だから、リバプールに来るのは、僕にとって最高の移籍だったことは確かだよ」

 信頼されていることを実感し、それが自信につながって、チームに貢献できる。それにより、さらに大きな信頼を得る。その機会を与えてくれた監督が去っても、もう迷うことはなかった。

「ユルゲン・クロップ監督が来て、僕もチームも、さらに強いメンタリティを得た。彼はハードに練習をする監督だし、練習中もすごく要求する。勝つんだというメンタリティを要求するし、いつももっと良くなることを要求する。彼の言葉は強いよ。そういう監督と一緒にやれたことを、幸せに思っている。

 それに、チームのみんなと、すごくオープンに話す人でもあるんだ。そうやって、みんなに信頼感を伝えてくれる」

 コウチーニョの話の中に多く出てくる言葉は「信頼感」「やってみる」。いつもニコニコと笑顔で、もしくは静かに淡々と話す彼が、その言葉を語る時は、表情にも語気にも、強さが増す。彼の得意なプレーについて聞いた時も、そうだ。

「左サイドからカットインしてシュート。僕は(サイドに)開いてプレーする方だから、あまりペナルティーエリアでのシュートのチャンスを得られない。だから、ロングシュートに賭けるんだ。

 うまくいかないこともある。ふかしたり、誰かに当たったり。でも、うまくいくこともあるし、自分でゴールを決められなくても、GKがセーブしたボールが、他の誰かにこぼれて、チャンスにつながることもある。

 前でプレーする僕らは、いつでもチャンスを作ったり、ゴールに向けてシュートし続けるのが重要なんだ。だから、すごく練習している。やり続けないと。時には、少し変えてみたり。もっと磨きをかけるようにと、やってみる。そういうことだよ」

 18年、コウチーニョは200億円以上の移籍金でバルセロナに加入した。最高の舞台での新たな挑戦。インテル時代、出場機会を得られずに苦しんだ時は、早過ぎるヨーロッパ移籍と論議を呼んだが、選手のキャリアの上で考えられる様々な選択肢の中で、自分の決断は正しかったと思っているかを聞いてみた。

「正しかったかどうかを話すのは難しいよね。他の選択をした場合にどうなっていたか、分からないから。でも、僕自身は良かったと思う。僕がやったこと全てに、何も後悔していない。早くにヨーロッパに行ったこと、早くにインテルに行ったこと、それで回り道をしたのかもしれないけど、イタリア、スペイン、イングランドと、違ったリーグでプレーして、違った文化を経験できた。苦しい時もあったけど、その積み重ねの上に、今の自信と信頼がある。いつでも、それ以外にはないという挑戦をしてきたつもりだ。すごく幸せだよ」

「最大の夢はいつでも、W杯で優勝すること」

 セレソンではまた、違った挑戦があった。18歳でフル代表に初招集されたものの、その後、インテルでのプレーの機会が少なかったこともあり、チャンスを失った。11年にU-20W杯こそ出場したものの、フル代表からは長く遠ざかることになった。

 14年W杯の夢は実現しなかったが、その大会でのブラジルの大敗の後、新時代を築くために、当時のドゥンガ監督が期待を寄せた選手の1人となった。しかし、リバプールでの好調を、セレソンに持ち込めない。何度か招集され、出場してゴールを決めるところまでいくが、ドゥンガに強い印象を残すことができず、再びセレソンから遠ざかる。

 クラブでは活躍しても、セレソンではその実力を発揮できない選手はこれまでにも数多く存在する。そういう「クラブの選手」の1人という烙印も押されかけた。

 その状況を大きく変えたのが、16年6月、現在のチッチ監督の就任だ。チッチ体制になって1回目の招集でリストに入り、最初の2試合で途中出場、3試合目からはスタメンとなり、それ以降、監督の特別な戦略上の意図がない限り、そのポジションを明け渡したことはない。彼があれほど求めていた信頼が、チッチによってもたらされたのだ。

――フィリぺは10年からフル代表にいるけど、今回こそは、定着するための、しかも、レギュラーとしてプレーするための、セレソン復帰となりました。その要因は何だったんでしょう。

「毎回、招集されるたびに、ベストを尽くして頑張ろうとしてきたんだけど、時には、それがうまくいかないこともある。

 自分では分からないこともあるけど、言えるのは、新しい監督が来て、もっとチャンスが得られるようになったということ。継続的にプレーできるというのは大きいよ。そのチームの中でどうプレーするのが良いのか、自分自身でもつかめる。そして、何より監督の信頼を感じられると、もっとずっとプレーしやすくなるんだ。

 僕だけじゃない。チッチは次の試合で何が起こるか、そのために、僕ら1人1人にどういうプレーを求めるか、その準備として、どういう練習をするか、ということを、その試合のスタメンの選手だけじゃなくて、選手全員に話してくれるんだ。

 そんなふうに、みんなに信頼感を伝えてくれるから、全員が自分の重要性を感じられる。それは、チームにとってすごく良いことだ。それぞれが自信を持って、自分なりにベストを尽くせるからね。自信と信頼というのは、人生における何についても、大事なことだと思う。サッカーにおいても、すごく大事なんだ。それが、僕やチームにとって、大きな強さの源になっている。

 そして、もちろん僕らも、自分のスペースを得るために頑張っている。セレソンに行くチャンスがあるのは、いつでも名誉なこと。そして、行ったら、いつでもハードに頑張るんだ。試合に出られるのは、幸せなこと。プレーできるのは、いつでも良いものだよ」

――あなたはクラブでもセレソンでも、求めてきたことをほとんど叶えつつある。こうして話しているだけで、その自信のようなものが感じられます。あなたの人生は大きく変わったけど、それでも、あなたの人間性は、何も変わらないようですね。親しみやすい人柄も変わらない。

「僕は同じだよ。クラブが変わっても、プレーや生活する場所が変わるだけ。セレソンでプレーしているからといって、人間性が変わる理由もない。とても落ち着いている。僕の兄弟も両親もそういう感じで、妻もそうだ。みんなで何も変わらず生きているから、僕もこういう人間でいられるんだと思う」

――今、あなたのプロ人生の最大の夢と目標は?

「日々の目標はいつでも、クラブで自分の価値を見せて、その先にあるセレソンで、国を代表するということ。毎日ライオンを倒していれば、目の前に新たなチャンスが訪れる。そのチャンスに献身して、できるだけ良く活かすこと。

 僕の夢は、全ての子供がそうであるように、まずはプロのサッカー選手になることだった。その次が、セレソンに到達し、国を代表してプレーすること。そして、最大の夢はいつでも、W杯で優勝すること。そのために挑戦し続けることだよ」

PHILIPPE COUTINHO
フィリペ・コウチーニョ

1992年6月12日生まれ、リオデジャネイロ州出身。早くから天才プレーヤーと注目を集め、2010年、18歳でセリエAのインテル・ミラノに移籍し、同年にブラジル代表デビューも飾る。エスパニョールへの期限付き移籍を経て、13年からプレミアリーグのリバプールに活躍の場を移し、主力選手としてチームを引っ張った。18年、約220億円の移籍金でバルセロナへ。


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Photos: Getty Images

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セレソンフィリペ・コウチーニョブラジル代表

Profile

藤原 清美

2001年、リオデジャネイロに拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特にサッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のTV・執筆等で成果を発表している。W杯6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTube『Planeta Kiyomi』も運営中。