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チーロ・インモービレの秘密。ジャー二ーマンなのに旅が苦手?

2017.10.14

Interview with
CIRO IMMOBILE
チーロ・インモービレ

昨季の23ゴールに続き、今季も7試合でディバラに次ぐ9ゴール。26歳にして延べ10チームを渡り歩いたストライカーは、ラツィオで「三度目の春」を謳歌している。トリノでセリエA得点王に輝いても、「自分が何か変わったとは思っていない」と言い切る。それはドルトムントやセビージャでの海外挑戦に失敗した後も変わらない。周囲が彼を信じて愛情を注ぎさえすれば、この男は必ず偉大な成果を成し遂げるのだ。

ナポリ出身のやんちゃ坊主

EUROの時、大卒のキエッリーニにナポリ弁のレッスンをしてやった(笑)

── ソレントのユースに所属していましたが、当時はどんなプレーヤーだったのですか?

 「サッカーに飢えていた。まあ、小さな頃からそういうガキだったんだけどさ。トッレ・アンヌンツィアータ出身のナポリ人というのもあって、ふざけたヤツというレッテルを貼られていたんだ。ある意味それはその通りだったけど(笑)。4歳の時、まだサッカースクールに登録できる年齢じゃなかったのに、オヤジがそこに入れざるを得なかったくらいだ。ボールを与えておかないと悪さばかりしていたからね。でも、それ以上にソレントにいた頃からサッカー選手としての意識が強かった。もっとうまくなりたいっていつも意欲満々だった。今に至るまで、それがオレのキャラだね。ソレントの頃は、他の誰よりもグラウンドにいた時間が長かった。とにかくボールに触っていたくて家に帰りたくなかった。それが選手として成功した理由じゃないかと思うんだ。サッカーでは完璧主義者なことがね」

── ユベントスのユースに移籍した経緯を教えてください。

 「ソレントの会長、アントニオ・カステッラーノはインテルのティフォージ(ファン)だったので、彼はオレをミラノに送り込もうとしていた。まあ、理由はそれだけでなくて、インテルが最初に交渉してきたクラブだったってのもあったんだけどね。ところが、その後インテルは様子見を始めたんだ。たぶんだけど、オレと同じ1990年生まれのいいCFが他にいたからだと思う。そう、マリオ・バロテッリのことだよ。それか、オレの権利が高過ぎたってことだろうな。理由はともかく、そこでやって来たのがオレと同じナポリ人のチーロ・フェラーラがいたユベントスで、だいたい8万ユーロ支払ってユーベのユースにさっと連れ去ったんだ」

── それからレンタルを繰り返すわけですが、ゼーマン時代のペスカーラで大ブレークしました。ゼーマンは若手を開花させる手腕に定評がありますが、彼からはどんな指導を受けたのですか?

 「オレに対しては、特に戦術面を叩き込んでくれた。どうやってスペースに入り込むのか、そしてシュートの仕方を修正しながら、CFとしてどういう動きをしなければならないのかをわからせようとしてくれたよ。あの頃のオレは、どこからだろうがシュートを打ちまくっていて、時として常識外れなポジションからもゴールを狙っていたからね。でも、ゼーマンといえば、一般的イメージとしては意外かもしれないけど、彼はとてもユーモアのある人なんだ。何事にも動じなさそうな佇まいと、もの凄く低音なあの声とはギャップがありまくりの、おかしなことをいつも言っているんだよ。みんなをいつも笑わせていて、彼のジョークのお気に入りターゲットだったのがこのオレだったんで、試合のハーフタイムにはよくイジられた。例えば、オレがすでに2ゴールを決めているのに、みんなの前でオレが試合を台無しにしているって言うんだ。あと2ゴールを決め損ねたからってさ(笑)」

── 当時のペスカーラにはベラッティ、インシーニェがいて、今思えば凄いメンバーですね。彼らとは特別な絆があるのでは?

 「もちろん! それに、オレたちは今も代表で顔を合わせているからね。リヒテンシュタイン戦とドイツ戦のためのコベルチャーノ合宿で一緒になった時もそうだったけど、彼らと一緒にいると“ミラクル・ペスカーラ”時代に戻ったみたいな気になる。ブラジルワールドカップでプランデッリに代表招集されたことは、オレたちにとって今までの中で最高の喜びになった。あの大会は良くない結果で終わってしまったけど、たった2年前はセリエBのペスカーラでやっていたオレたち3人がワールドカップのための合宿で一緒に過ごしているって考えると、『すげぇことだ』って思ったもんだよ。EUROの時は、オレと同じナポリ人のインシーニェと一緒にトスカーナ人のキエッリーニに対してナポリ弁のレッスンをしてやった。キエッリーニは大卒で、片やオレたちは彼よりずっとアホなんだけど、キエッリーニのナポリ弁の発音はとてつもなくヒドいもんだったね(笑)」

── ペスカーラでの活躍でユベントスに復帰するという選択肢はなかったのですか? ジェノア移籍を決断したのはなぜ?

 「あれはオレが決めたことじゃなかった。クラブが決めたことだ。プレーできるチャンスがより多いチームでやらせた方がいいってユベントス側が判断したんだよ。ところが、ジェノアでは戦術的な面であまりハマらなくて、純CFとしては起用されなかった。でもまあ、どんな経験でも役に立つものだよ」

── その後、トリノではチェルチと強力な2トップを形成しましたが、彼とのコンビはどういう役割分担だったのですか? 当時のトリノを振り返ってみてください。

 「チェルチとは互いのテクニックが完璧にうまくかみ合ったことで強力なコンビが誕生したんだと思う。役割分担としては、そうした互いの強いところを生かしたものとなった。例えば、チェルチが深く突っ込んで行けるよう、オレがくさび役をやっていた。で、チェルチはそこからオレに向かってボールをたくさん折り返してくれた。そういうパスをもらえるとオレは得意な形に持ち込める。もしくは、スピードに乗った展開からオレにパスを出してくれることもよくあって、それもオレにとって喜ばしいアシストになっていたね。チェルチっていう選手は凄く偉大だって今でも確信している。代表を含め、その実力に見合ったキャリアを残すことはできなかったけれどね」

── このシーズンにセリエA得点王に輝きましたが、自分の中でゴールの形が確立されるなど何かつかむものがあったのでしょうか?

 「特に変わったということはなかったように思う。第一、オレはすでにペスカーラにいた時、セリエBの得点王になっているよね。トップに立ちたいという欲望があの結果を導いたとは思うけど、あのシーズンで自分が何か変わったとは思っていない。それにCFっていう仕事は、あんまり変わりようがないんだ。DFの先をいかに取るか、そしてゴール嗅覚があるか、に懸かってくる。この2つのポイントは、セリエAだろうがどこだろうが、プレーするカテゴリーは関係ない。なぜ得点王になれたかという意味で確かなことがあるとすれば、ペスカーラもトリノも、サポーターがすぐにオレに愛情を注いでくれた理想的環境だったというところだろう」

── 当時のトリノの監督であり、現イタリア代表監督でもあるベントゥーラはどんな人物ですか?

 「戦術のマエストロで、明確に物事を教えてくれる。サッカーっていうのは、ややこしく考えようとしたがる一部の人たちが思っているほど複雑なスポーツじゃないんだ。ベントゥーラは練習においてシンプルにわかりやすく説明する能力に長けている。試合は準備したものが発揮される場以外の何物でもない。そこには偶然などないんだ。もちろん、個々のテクニックや創造性というものが準備してきたものを多少凌駕する想定外のことも起こり得る。でもベントゥーラは、どういう状況になろうとも大したことではないと選手たちを言葉で落ち着かせることのできる監督なんだ。個人的には、彼とは人間関係の意味でもウマが合っている。トリノを去ってからも絆が切れることはなかった人だよ」

移籍で直面した困難

自分に適した土地とチームを選ばなければならないと学んだ

── 初の国外挑戦としてドイツ行きを決めたわけですが、ドルトムントを選んだ理由は?

 「あの時こそが、自分のキャリアの分岐点だと考えたからだ。サッカー選手としてだけでなく、経済的な意味においてもね。ヨーロッパの最前線クラブでプレーするのは、あの時点までは中小クラブでしかプレーしたことのなかったオレにとって、俗に言う『一皮むけるチャンス』だった。その上、最先端の海外リーグ、ブンデスリーガのチームというのもそそられた。新しい環境に飛び込むことが怖いと思ったことは昔からなかった。だから、妻のジェシカと一緒に決めたんだ」

── しかし、クロップのドルトムントでは苦しい時期を過ごすことになりました。初の国外の環境に適応するのが難しかったですか? 言葉の問題もありますし。

 「ドイツ語は話せなかった。だからいつも通訳がそばにいたんだけど、戦術について説明する時、クロップはそれを好まなかった。結果、ロッカーではいつもソクラティス、オーバメヤンとイタリア語でしゃべっていた。俺は基本イタリア語しか使わなかった。とはいえ、真の問題は環境適応や言語にあったというよりは、周囲からの信頼が欠けていたところにあったと思っている。ペスカーラやトリノで感じられたフィーリングをあそこでは感じることができなかった。サッカー選手にとって、監督の構想の中に自分がいるとわかることが何よりも重要なんだ。クロップのことは尊敬している。でも残念ながら彼にとってオレはさほど重要な選手ではなかった。という前置きはあるにせよ、捨てたシーズンというほどでもなかったよ。チャンピオンズリーグ6試合で4ゴール決めることもできたしね」

── イタリアサッカーとドイツサッカーの違いを教えてください。

 「戦術とスタジアムが違うね。戦術はイタリアの方がより丁寧だ。スタジアムは、ドイツではほぼ常に満員。イタリアは悲しいかな、ほぼ常に半分しか埋まらない。いつかはその傾向が逆転してほしいね」

── スペインのセビージャにレンタルされましたが、エメリのチームでポジションをつかむことができませんでした。何が原因だと思いますか?

 「セビージャは美しい街で、言葉もイタリア語に近い。家族ともどもスペインはとても居心地が良かった。唯一、仕事だけが望んでいたようにならなかった。レアル・マドリー戦で決めた美しいゴール以外はうまく機能しなかったよ。エメリとはよくわかり合えず、プレーチャンスをほとんど与えてもらえなかった。たぶんエメリにはオレが彼のサッカーをわかるようになるまで待つ忍耐が足りなかったんだと思う。残念だよ。オレをチームに欲しがったのは彼だったということを知っているからね……」

── 言葉も環境も違うドイツからスペインと短期間に移籍して、適応がとても大変だったと想像します。当時はどんな心境でしたか?

 「ここでギブアップしてはならないと考えていたし、実際ギブアップしなかった。問題から何か正しいレッスンをくみ取ることができれば、困難は人を強くする。オレのケースがそうだった。練習で倍の努力をしなければならないことがわかったし、自分に適した土地とチームを選ばなければならないことも学んだ。人は誰であろうと自分の家と感じられる居場所がどこかにあると思うんだ。だからセリエAに、トリノに帰る決断をした。それはうまくいったよ」

イタリア帰還、再ブレイクの理由

26歳は最も実力を発揮できる年齢。エネルギーがあり、それを経験で管理できる

── トリノ復帰を決断したのは、EURO2016のイタリア代表入りのことも頭にあったのではないですか?

 「そう考えたのは否定しない。代表はいつも目標だったからね。ちょっと味わっただけでその座を失うのは、まったくもってうれしくない話だ。ブラジルワールドカップは、再スタートの場にしようと燃えていた。オレの大会になっても良かったはずだった。でもちょっと張り切り過ぎてしまったようだ。そして少し落ち着きがなかったかもしれない。しかも暑さに苦しんでしまった。だからなおさら是が非でもコンテにフランスへ連れて行ってもらおうとトリノでは頑張ったよ。EUROでは出場時間は長くはなかったけれど、あそこにいられたことにはとても満足している」

── ラツィオに活躍の場を移した理由は?

 「自分にとってちょうどいいと感じたチームだし、ローマという唯一無二の都市にあるクラブだ。何と言ってもオレを熱烈に欲しがってくれたからだ。ラツィオは歴史ある重要なクラブで、ヨーロッパのカップ戦にちょくちょく出場している。なかなかない移籍先だと思うよ」

── ゴール量産の秘訣は何でしょう?

 「精神的に落ち着き選手として成熟して、ちょうどいい年齢になったというところかな。26歳は、サッカー選手が最も実力を発揮できる年だと言われるけど、確かにそういうところはあると思う。実際プロとしてはキャリアのちょうど半分であって、この先もまだまだエネルギーは残っているし、それを経験によって管理していけるからね」

── 青年監督であるシモーネ・インザーギはどんなタイプですか?

 「対話をする監督だね。綿密で要求が多いけど、それと同時に聞く耳を持っている。それと、彼は選手時代にFWだった。兄のピッポよりは有名じゃなかったけど、チームへの適応性はよりあったタイプのFWだったように思う。同じポジションだから、オレも彼から役に立つアドバイスをたくさんもらっているよ」

── 今のラツィオには有望な若手がそろっていますが、特に才能を感じる選手は誰ですか?

 「答えると他の選手がそうではないという意味になってしまうリスクがあるね(笑)。いい若手が本当にいっぱいいるんだけど、下部組織で監督をしていたインザーギは彼らの監督としてまさに適役だと思う」

── ラツィオ、イタリア代表も含めて今後の目標を教えてください。

 「ラツィオの選手としてチャンピオンズリーグに出ること。イタリア代表で悪くともワールドカップのセミファイナルを戦うこと。2つとも実現不可能な目標じゃないよね」

── 最後に、日本のファンに一言お願いします。

 「これからもオレを注目していてくれ。そして2018年ロシアワールドカップを楽しみにしていてくれ。そういえば日本は予選のスタートでつまずいたけど、しっかり持ち直したみたいだね。ワールドカップでは、もしかするとイタリア対日本戦で君たちと会うことになるかもね」

Ciro IMMOBILE
チーロ・インモービレ(ラツィオ/イタリア代表)

1990.2.20(27歳) 184cm/80kg FW ITALY

ナポリ県トッレ・アンヌンツィアータ生まれ。地元のクラブチームを経て、02年にソレントのユースに移籍。07-08に30得点をマークし、シーズン終了後にユベントスへと引き抜かれる。その後レンタルで3チームを渡り歩き、ゼーマン監督が率いた11-12のペスカーラでセリエB得点王に輝き、ブレイク。12年にジェノアに完全移籍し、翌年からトリノへ活躍の場を移すと、22ゴールを記録してセリエA得点王を獲得した。その実績を手土産に14年にドルトムントへ羽ばたいたが満足な働きを見せられず、翌シーズンにセビージャへレンタルで放出される。翌16年1月にはトリノにレンタルで復帰。そして昨夏、ラツィオへ完全移籍を果たした。イタリア代表デビューは2014年3月のスペイン戦。2014年W杯、EURO2016のメンバーにも名を連ねている。

PLAYING CAREER
2009-10 Juventus
2010-11 Siena on loan
2011 Grosseto on loan
2011-12 Pescara on loan
2012-13 Genoa
2013-14 Torino
2014-15 Dortmund (GER)
2015 Sevilla (ESP) on loan
2015-16 Sevilla (ESP)
2016 Torino on loan
2016- Lazio

Photos: Getty Images, Bongarts/Getty Images

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