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「天才だよ」と言われ続けたけれど――町田也真人が軽やかに駆け抜けたサッカー半生(引退インタビュー前編)

2026.02.09

2025年シーズンかぎりで、町田也真人がスパイクを脱いだ。2012年にジェフユナイテッド千葉でプロキャリアをスタートして7年、松本山雅で1年、大分トリニータで5年。最後にギラヴァンツ北九州で1年。その14年間の実績は、Jリーグ通算263試合出場31得点。カップ戦を合わせると289試合出場34得点。現役引退を機に、ボールを蹴りはじめてからのサッカー半生を、たっぷりと振り返ってもらった。

前編では、小野伸二に憧れた幼少期、気づけば“ダイヤの原石”集団だった埼玉栄高時代、盟友・庄司悦大らと出会った専修大学時代を語ってもらった。

小野伸二に憧れた少年時代は仲間とミニゲーム三昧

――古巣のジェフユナイテッド千葉で第2の人生を踏み出すことが決まったところで、心境に変化はありましたか。

 「引退後のオファーがある選手とない選手がいる中で、お話をもらったことがまず、率直に嬉しかったです。その中で誠意を持って考えた結果、ここで頑張ろうと。今はもう『サッカーを辞めるんだ』という淋しさもだいぶすっきりしてきました。あんなに辞めたくなかったのに、新しい日々に向けてワクワクしています」

――どのような仕事をするのか教えていただけますか。

 「僕は引退後は会社の中に入りたいという話をしてきました。とにかくいろんな人に会いたいと。まずスポンサー営業をやらせてもらいたいと、会社にお願いしていたんです。プロを辞めた1年目はまだプロ選手としての価値も残っていると思うので、その間に足を運びたくて。ジェフの人たちがそんな僕のお願いを聞き入れてくれました。

 同時にスクールの指導もやってみないかと言ってもらえて、1年目は慣れずに大変かもしれないですけど、動けるうちにいろいろ動きたいと、そちらにも携わることになっています」

――サッカー人生の第2章が開幕するんですね。それを前に、今日は第1章のお話を聞かせてください。まずはサッカーをはじめたきっかけから。

 「物心ついた頃から母とよく公園でボールを蹴っていたんです。幼稚園の休み時間にもいつもサッカーしてました。当時から『あれ、俺なんかちょっと上手いかも』って思ってた謎の記憶がある(笑)。僕をサッカーに誘ってくれたのは幼稚園年中クラスの同い年の子で、その彼にはいま、僕が地元の埼玉で展開させてもらっているサッカースクールの現場を任せてるんですけどね。とても信頼できる人なんです。彼がいなかったら僕のサッカー人生ははじまっていなかったかもしれません。

 小1で結構レベルの高いクラブに入ったんですけど、僕の父が少年団のコーチになったこともあり、小3の途中で少年団のほうに移りました。浦和では毎年、市トレセンの中から16人の小学生を選抜して『FC浦和』として全少(註:全日本少年サッカー大会、現・JFA 全日本U-12サッカー選手権大会)に出場するんですけど、とにかくそのメンバーに入ろうと頑張っていましたね」

――お父さんご自身もサッカーをやっていたんですよね。

 「一度、東京都選抜のメンバーに選ばれたことがあるそうで、足が速く、WGでプレーしてたみたいです。でも少年団で直接教えてくれているのに、特別に教わったことはほぼないんですよね。指導されたのは『胸トラップが出来る選手になれ』ってことくらいで、意味わからないですよね(笑)。父は僕が5年生のときから6年生の試合で使ってくれたりもしてたんですけど、他の選手たちと全く同じ扱いをされていたから『お父さんだから也真人が使われてる』みたいなやっかみは周囲からも一切出てきませんでした。

 でも、いま思えば父はよくぞ、家で何も言わなかったなと思います。僕だったら自分の子には『あのときはこうじゃない?』というようなことを絶対に言っちゃうから。そこは指導者としてすごいと率直に感じますね」

――也真人くんはどんなサッカー少年だったんですか。

 「僕が小3のとき、小野伸二さんがレッズに入ったんです。駒場のグラウンドまで見に行って、その上手さに衝撃を受けました。小野伸二さんが2年目からつけたのと同じ背番号8を、少年団でもFC浦和でもつけさせてもらって。小野伸二さんのプレーに憧れて、僕もポジションはトップ下だったんですけど、アウトサイドで出すスルーパスなんかに醍醐味を覚えるような少年でした」

小野伸二

――その時点でその後のスタイルがなんとなく決まっていたような感じですね。

 「そうですね。ずっと体も小さかったので。最初に入っていたサッカースクールが個人技を伸ばす指導に力を入れていたこともあったと思います。

 漫画の『イレブン』と『キャプテン翼』に刺激を受けて、学校から帰ったら1人でドリブルしながらグラウンドに行って、自分でノートに書いたメニューを見て練習する、みたいなことばかりやってました。プロになりたいとは思ってたけど、なれると信じていたかはわからない。とにかく日々が楽しかった。少年団の仲間たちも夏休みになると毎日、家に電話をかけてきて『朝練しようぜ、今日行ける?』って誘ってくれて。公園に人工芝のスペースがあって『今日そこ行かない?』って誘いがあって、行ってみたら他の人たちが使ってて残念、みたいなこともあったり。そうやって友達に恵まれて、つねにサッカーをする機会があって、一生ミニゲームしてるみたいな感じで。辞めたいと思ったことなんて一度もなかったですね」

“ダイヤの原石”集団だった埼玉栄高で4冠達成

――その後、いろんな選択肢がある中で、どういうふうに進路を選んでいったんですか。

 「中学に上がるときにレッズのセレクションに落ちて、トレセンの仲間たちはどうするのかなと思ってたら、みんなクラブチームに入ってるんですよ。僕、そんなにいろいろなクラブチームがあるのを知らなくて、レッズに行かない選手は全員、学校のサッカー部でやるものだと思ってたから『え、なに、誘ってよ』みたいな感じで取り残されて(笑)。

 それで、さいたま市立の白幡中学校に進んだんです。外部コーチが来てくれる熱心なチームだったので、実家の住所を学区内に移して。父の母校でもあったんですけどね。

 その学校はグラウンドが小さく、月・水・金曜日はサッカー部が使えるけど火曜日と木曜日は使えない。コートに被さるように体育館が建ってて、その角は使えないし、練習試合も出来ない。でも指導に来てくれるコーチが、ヨハン・クライフ好きでテクニカルなサッカーを志して、それで全国大会出場させてくれるような人で。僕はそのサッカーが好きだったんです。

 中学生になると、徐々に力の差が出てきますよね。僕は身体能力が低かったので、自分より体が大きくてスピードもテクニックもある選手たちが集まる県トレセンに行くのがすごく嫌だったんですよ。『うわ、自分よりすごい選手がたくさんいる』と怖くて。でも3年生のときに中体連から僕1人だけ県の選抜チームに選ばれて、関東大会に出場したんです。他のメンバーはレッズやアルディージャや街クラブのアカデミーの選手ばかりで、『え、大丈夫かな……』っておどおどしながら参加して。その中学最後の関東大会を、自分はそんなギリギリの状態で、ずっとビビりながらプレーしていた感じでした。

 でも、つい先日、引退発表した僕のところに、そのときのチームメイトが『おめでとう、お疲れ!』ってお祝いしに来てくれて、言ったんです。

……

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Profile

ひぐらしひなつ

大分県中津市生まれの大分を拠点とするサッカーライター。大分トリニータ公式コンテンツ「トリテン」などに執筆、エルゴラッソ大分担当。著書『大分から世界へ 大分トリニータユースの挑戦』『サッカーで一番大切な「あたりまえ」のこと』『監督の異常な愛情-または私は如何にしてこの稼業を・愛する・ようになったか』『救世主監督 片野坂知宏』『カタノサッカー・クロニクル』。最新刊は2023年3月『サッカー監督の決断と采配-傷だらけの名将たち-』。 note:https://note.com/windegg

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