サッカーの街・清水で育まれたサッカー観、一浪で入学した慶応大学、バブル絶頂期を味わったサラリーマン生活。清水エスパルス・反町康治GMインタビュー前編

日本サッカー界の中でも、ここまで稀有なキャリアを歩んだ人もそうはいまい。サッカーの街・清水で育ち、サラリーマンJリーガーとしても名を馳せ、指導者に転身後は五輪代表監督や各Jクラブの監督を歴任。現在は清水エスパルスのGMとして辣腕を振るう反町康治は、数奇な出会いに導かれながら、今もサッカーと生きる日々を過ごしている。インタビュー前編は清水で過ごした小学生時代から高校時代、一浪して入学した慶応大学時代、さらに全日空に入社するまでを中心に、自身の人生を振り返ってもらった。
もともとは浦和の出身!父の転勤で清水の地へ!
――今回はキャリアのお話をゆっくりお聞きできればと思います。まず、反町さんは清水ではなくて浦和のご出身なんですね。
「浦和の高砂小学校に通っていました。そこは萩本欽一さんが通っていた学校なんです」
――へえ、それは知らなかったです!
「田口禎則もそこですし、片山さつきさんもOGですよ。そこに小学校2年生の1学期までいて、2学期から清水に引っ越したんです。父が上野の松坂屋に勤めていたんですけど、南浦和は京浜東北線の始発が出ていたので、通勤に良かったんでしょうね。そこから静岡の松坂屋に転勤になって、それでオレも付いていく形で静岡に行ったんです」
――そこで入ったのが有度第二小学校ですね。
「そうです。松坂屋の社宅が有度山の近くにあったので、必然的に近かった有度第二小学校に通いました」
――もう当時は清水もサッカーの街ですよね。
「その初期でしょうね。大木(武)さんや(風間)八宏さん、遠藤友則さん(元ACミラントレーナー)が自分の2つ上です」
――大木さんは遠藤さんが自分の世代の清水ではナンバーワンだとおっしゃっていました。
「間違いない。ウチらの世代で一番は望月達也です。それこそ東高(清水東高校)で練習をやっている時に、『あれ?今日達也いないじゃん』という日があって、練習が終わってから家に帰って日本で開催されていたワールドユースを見たんですよ。水沼(貴史)さんとかマラドーナが出ていたあの大会(1979年大会)です。それをテレビで見ていたらハーフタイムショーがあって、そこで達也がリフティングしながらゴールを決めていたんです。それを見て、次の日からみんなが達也を『ワールド』って呼ぶようになりました(笑)」
――それは貴重な歴史の証言ですねえ。
「有度第二小学校は3年生から少年団に入れるので、そこから入ったんですけど、クラスの男の子の3分の1ぐらいは少年団に入っていましたね」
小5で『サッカー 戦術とチームワーク』という本を読み込んでいた!
――そこで指導を受けたのが小島鋼雄先生ですね。この方がサッカーを最初に教えてくれた恩師ですか?
「間違いないです。小島先生は体育の先生なので、ウォーミングアップでも運動能力を高めるようなことをやったんですよね。それと同時にオレは身体が柔らかくて器械体操部にも入っていたので、側転とかバク転もできたんです。あとはマラソン大会も4年生からは1位でしたし、一般的に見れば運動能力には優れていた方かもしれないですね。
ただ、なぜその後もサッカーを続けられたかというと、小学校の4年、5年、6年にルーツがあると思っていて、いわゆるゴールデンエイジの時に何をするかということを考えると、自分が身をもって感じていることがあるわけです。つまり、その時に習得したものが凄く役に立ったんですよ。たとえば練習が終わって、家に帰ってきてから夕飯ができるまで、団地の中で壁に向かってボールを蹴っていたんです。キャッチボールと一緒ですよ。スティーブ・マックイーンみたいに」
――たとえが反町さんっぽいです(笑)。
「『大脱走』ね(笑)。そのころ、西ドイツにオベラートという選手がいて、ワールドカップの試合を見て、『左利きカッコいいじゃん』と思って、左足の練習ばかりやっていたんです」
――反町さんは右利きですよね?
「右利きです。でも、左足の方が正確かもしれないですね。Jリーグでのゴールも実はほとんど左足ですよ。JSL(日本サッカーリーグ)のころも含めて、左足のゴールの方が多いんです。それは小学生のころに修得したものです。だから、子どもに『サッカーが上手くなるには何をした方がいいですか?』と聞かれたら、『両足で蹴れるようになろう』と。それは自分がそういう経験をしてきたからです。その時期にとにかく左足を練習したことで、左右両足はまったく同じように蹴れるようになりましたね。
あとは小島先生がボールを上に投げて、『なるべく高いところでキャッチしなさい』というウォーミングアップをやっていて、一見サッカーに関係ないように見えるんですけど、それはボールが高く上がった時に、ヘディングをするタイミングと一緒なんです。手で取るか、頭でヘディングするかの違いだけで、その後もオレはヘディングが強かったんですよ」
――空間認知能力ってやつですね。
「そういうこと。それは自分が身をもって知りました。だから、模倣から学ぶということは全然悪いことではないと。ジュニーニョ・ペルナンブカーノやクリスティアーノ・ロナウドは無回転シュートのオリジナルみたいなところもありますけど、みんなそれを真似して蹴ったことで、多くの選手に技術的なオプションが1つ増えましたよね。オレはとにかく情報がない子供の時に、1966年のイングランドワールドカップの記録映画を見れるということで、朝イチから映画館に行ったのを覚えています。そのあとに『ダイヤモンドサッカー(静岡では『ワールドサッカー』)』を見た影響もあって、サッカーにどっぷりハマって、『上手くなりたい!』と思っていました」
――1974年のワールドカップのころが小4ですか。反町さんはクライフがとにかくお好きですよね。
「まずプロポーションがいいですからね。そのころはペレやエウゼビオをはじめとして点を獲る選手が注目される中で、クライフは何でもできるんですよ。パスもできる、ドリブルでかわすこともできる、と。彼を見て、『サッカーってボールを止めてからプレーするんじゃなくて、ワンタッチでプレーするんだ』と気付きました。あとは当時のリヌス・ミケルス監督も含めた戦術的なところで、『ああ、サッカーって単にぶつかりあって、ボールを蹴るだけじゃなくて、いろいろなことを考えながらやるんだな』というタクティカルな部分を知ったんです。そういう意味ではマセた子どもでしたね」
――だって、小5で『サッカー 戦術とチームワーク』という本を読んでいたと。それって普通に大人が読むような本ですよね?
「難しい本でした。今でも家にありますよ」
――周りにそんなところに興味を持っている子、いないですよね。
「いない。ああ、でも、1人いたな。ウチに伊達倫央(清水エスパルス育成部長)がいるでしょ。彼のお兄さんはそうでした。伊達(芳弘)さんは凄く頭の良い方で、そういう本を読んでいました。当時で2,000円ぐらいする本でしたよ」
小学生で体験したドイツ遠征とウェンブリーでの試合観戦
――オール清水には小学校4年生から入っていたんですね。
「そうです。オール清水は選抜チームで、各小学校のチームから優秀な選手を集めて、週に1回か2回練習をしていました」
――その時に中学生や高校生と一緒に練習していたんですか?
「いえ、オール清水は学年ごとです。トレセンというシステムになってから、そこに選ばれた選手が集合した中には、小学生から高校生まで入っていました。それは清水トレセンの話で、全国の選手が集まるナショナルトレセンにも実は選ばれていて、オレはそれの一期生ですから」
――ナショナルトレセンの一期生ですか!
「一番最初に集まったのは、代々木の青少年センター(国立オリンピック記念青少年総合センター)だったと思います。その時に一緒にプレーしたのが、三菱養和から来ていた山道(守彦)ですね。彼とは中1からの知り合いなんです。そこには確か仙台からだと思うんですけど、清水邦明という左利きの選手が来ていて、『こんな上手いヤツがいるんだ』と度肝を抜かれたんですけど、実はそのあとで日本代表のドクターになっていたんですよ」
――凄い!そんなことあるんですね!
「オシムさんの時の代表で再会したんです。世の中わからないものですよ」
――オール清水での経験は、やはり大きなものでしたか?
「もともとはいわゆる全少(全日本少年サッカー大会)の前身の、全国少年団サッカー大会のために立ち上げてやったチームかもしれないですね。小6の時には海外遠征もしていますから。堀田(哲爾)先生がプランニングされてドイツを回ったんですけど、それに一緒に行った中学生が大木さんや八宏さんたちでした」
――当時の小学生がドイツに遠征に行くなんて、まずないことですよね。
「ないです。ないです。ハノーファーに行ったのは覚えています。練習場に芝生のグラウンドが4面ぐらいあって、子どもながらに衝撃を受けました。でも、試合ではだいたい勝っていましたよ。ワールドカップの次の年だったので、『え?何でこんなにドイツのチームって弱いの?』と思いました。あとはのどが渇いて、水を飲もうとすると、向こうは炭酸入りの水じゃないですか。それが飲めなかったのはよく覚えています。その時のドイツは衝撃的でしたし、そのままイングランドに行って、ウェンブリーでFAチャリティーシールドマッチも見ましたよ。どうやってチケットを手に入れたんでしょうね。その試合はウェストハム対ダービー・カウンティでした。よく覚えていますよ。良い体験をさせてもらいました」
中学時代に確立された「相手の逆を突く」プレースタイル
――中学時代は清水七中ですよね。
「そうです。七中は結構強かったですよ。一中と七中と庵原中が強かったですね」
――清水一中には大木さん、風間さん、内田一夫さんに、同級生だと佐野達さんに後藤義一さんがいたんですよね。凄いメンバーじゃないですか?
「その通り。七中は有度第一小学校と有度第二小学校から選手が集まっていたんですけど、第一小も強かったんですよ。だから、タレントは揃っていました。七中の後輩は杉本(雅央)、真田(雅則)、伊達ミチ(倫央)もそうですね」
――中学時代はどういうプレーヤーだったんですか?
「ずっと身長が伸びなくて、“前へならえ”は腰に手を当てていました。凄く小さいサッカー選手で、いつも吹っ飛ばされていたので、母親は『どうやったら身長が伸びるんだろう?』と凄く心配していました。“背が伸びるスープ”とか飲みましたよ。自分ではそこまで意識はしていなかったですけどね。でも、七中の時に静岡の県大会で優勝していますし、有度第二小でも6年の県大会で優勝しているので、今思うと小中高と県を制してはいるんですよ」
――それは相当凄いですね。中学時代の反町少年は県内でも知られた存在だったんですか?
「そんなこともなかったと思いますよ。我々のころはもう達也ですよ。ああ、『ワールド』ね(笑)」
――そう呼ばれるのはもうちょっと後ですよね(笑)。
「たとえば清水市内の子どもが集まるようなマラソン大会に出ても、達也がダントツで1位です」
――ちょっと“やっかみ”みたいなものはあったんですか?
「いや、オレは自分に才能があるとずっと思ってないですからね。もしJリーグがその当時からあったとしたら、たぶんJリーガーにはなれていないと思いますよ。サッカーをやっていた人の絶対数が少なかった上に、社会人のチームでやっていたからチャンスをもらえたという感じです。それは別に謙虚な姿勢とかではなくて、客観的に見て、そうだと思います。特に足が速いわけでもないですし、そこそこボールを蹴るのが上手いぐらいですから」
――もう中学生ぐらいのころから、自分の立ち位置が把握できていたということですか?
「そういうことですね。もうとにかく相手の嫌がること、相手の逆を突くことに徹してやっていた自負はあります。だから、いろいろな人に『変わったプレーをするね』とよく言われましたよ」
セルジオ越後は清水東高校の臨時コーチを務めていた!
――中3の時にはブラジル遠征に行ったんですね。
「オール清水で行きました。あとは広島の大河FCからも何人か一緒に行きましたよ。それは堀田先生と大河FCの浜本(敏勝)先生が繋がっていたからでしょうね。その時の選手たちは高校から東海大一に行っているはずですよ」
――ああ、そうか。森島(寛晃)さんも田坂(和昭)さんも大河FCから東海大一ですからね。
「そうそう。その時にルートができたんですよ。ブラジルはインパクトがありましたね。その時の通訳がセルジオ越後さんですから」
――いやいや、それは強烈ですね。
「強烈ですよ。グアラニとパルメイラスがカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAの決勝を、ホームアンドアウェイでやったんですけど、その2試合の前座を我々がやったんです。グアラニのホームではオール清水対グアラニの下部組織のチーム、パルメイラスの下部組織とはモルンビーでやりました」
――え!モルンビーでやったんですか!
「やりましたよ。よく覚えています。その時のパルメイラスのトップチームのキーパーがエメルソン・レオンで、グアラニの17歳のセンターフォワードが、あのカレッカです。それでモルンビーでやった試合で、ボールのないところでレオンがカレッカを殴って、一発退場です」
――そんな試合を見てたんですか!
「前座の試合後にスタンドから見ていました。その前座の対戦相手のパルメイラスに、日系人選手のボランチがいたのを覚えています。名前が“KOBAYASHI”だったような……。確かに『顔が日本人っぽいな』って思いました。僕らの試合はブラジルのテレビで放送もされたんですよ。オレは背が凄く小さいのにすばしっこいということで、MVPに選ばれたんです。
試合後にインタビューも受けてトロフィーももらいましたよ。向こうで『SORIMACHI』は『ソリマキ』って読むんです。だから、試合の後に『ソリマキ!ソリマキ!』ってサインを求められたのも覚えています。ブラジルでは達也よりオレの方がクローズアップされちゃって(笑)。それこそパルメイラスから『残っていけ』とも言われましたから。セルジオさんとは高校でまた出会っていますよ。実は高校3年生の時に、数か月間セルジオさんがコーチをやっていたんです」
――え~~~?全然知らなかったです!清水東高校のコーチですか?
「やっぱり知らないか。勝沢(要)先生が腰を悪くされていた時に、清水との縁もあってセルジオさんが毎日練習に来ていたんですよ。それで凄いサッカーをやったんです。我々も『あのセルジオさんが教えてくれるんだ』と一生懸命やったんですけど、全然うまく行かなくて、しばらくしてやめられたんですよね」
2つ上の先輩・大木武と繰り返した1対1の自主練
――そんなことがあったんですね。今おっしゃっていただいたように、高校は清水東に進学されていますね。他の選択肢はあったんですか?
「うーん、なかったですね。その当時、清水の人間が静岡学園に行くのはあまりよしとはされていなかったんですよ。我々清水の中学生が公立の高校に行くとなると清水商業、清水工業、清水南、清水東なんです。東海大一は私立ですからね。サッカーは続けようと思っていたので、それで清水東が内山(勝)さんや長澤(和明)さん、志田(文則)さんの時に高校選手権に出ていた時代も知っていますし、学力もそれなりにはあって、試験を受けても受かるとは言われていたので、それもあって決めました」
――そうするとごくごく自然な流れですね。
「自然な流れです。確か達也は『みんなで清商に行って、強くしようぜ』みたいなことを言っていたんですけど、オレは一切関心がなかったです。『自分の人生は自分で決めるから』と」
――まあ、今と一緒ですね(笑)。
「そうそう。そのへんから自我の芽生えがあったわけですよ(笑)。オレは人からよく言われるようにマイペースというか、我が道を行くというか、自分の人生だから人には左右されないと。まあ、人には凄く気を遣うんだけれど……」
――わかりますよ。反町さんはそういう人ですよね。もちろん当時の清水東もレベルが高かったと思います。3年生に大木さんと遠藤さんがいたわけですよね。
「あのころの3年生はまったくレベルが違いました。スーパーでしたよ。今のエスパルスに関わっている方でも、アカデミーのバスの運転手をされている中川佳樹さんは怖かったです。だから、今も中川さんに会うとオレが直立不動で挨拶しているのを見て、みんな驚いていますよ。他にも磯部さんとか、テレビ静岡の外岡(哲)さんとか、寺内(誠一)さん、大木さん、友則さん、望月一頼さん、池田晃一さんが3年生で、かわいがってもらいましたね。2年生に内田一夫さん、高橋良郎さん、伊達さんがいて、レベルは本当に高かったです」
――1年生のころからゲームには出ていたんですか?
「いえ、当時はやかんに水を汲む“水係”をやっていました。でも、初めて公式戦に出たのが選手権の県の決勝なんですよ。藤枝東が相手で、草薙球技場でやったんですけど、それまでずっと水係だったのに、なぜかメンバーに入ったんです。当時は登録メンバーが16人で、交代枠があと1人というところで勝沢先生が『反町、来い』と。オレはもう緊張でバクバクです。だって、静岡県大会の決勝ですよ。お客さんも凄く入っていて、テレビでも生中継されていて、『え?オレでいいの?』って。それで勝沢先生に襟首のところを掴まれながら、『いいか。もう時間がない。点獲ってこい!』と言われて、『わかりました!』と言って、試合に入っていったんですよね」
――なかなか凄い話ですね。
「1年生の時は一番練習しました。大木さんは覚えていると思うんですけど、大木さんと僕と柴田(豊)というヤツの3人で、いつも1対1のトレーニングを30分ぐらいやっていました。大木さんが足の裏でいなして、ボールを取り合って。それをずっとやっていましたね。練習が終わったら近くのお店でちゃんぽんを食べて、そこから家まで40分ぐらいかけて帰ったら、もう夜の9時ぐらいで、夕飯を食べてすぐに寝るような感じでした」
――大木さんとは仲が良かったんですね。
「仲良かったですね。それこそ後輩をしごくような人もいましたけど、大木さんはそういう人じゃないので、ポケットに手を突っ込んで『やるぞ』って」
高2でインターハイ日本一に!独自のフェイントでスタンドを沸かせる!
――その光景は目に浮かびますね。それで2年生の時にインターハイで日本一になると。
「さらっと決まってしまったような気がしますね。その時は2年生が半分ぐらい出ていましたよ。オレ、沢入(重雄)、達也、牧田(有史)、滝(敏晃)、キーパーはもう1年の膳亀(信行)だったんじゃないかな」
――決勝以外は結構な点差で勝っていますからね。八千代に2-0、高槻南に4-2、宮城県工に3-0、韮崎に4-2、水戸商に4-0で、決勝の今市戦が2-1です。
「今市は強かったですね。湯田(一弘)さんがいたり、大貫(啓一)さんがいて。高槻南戦の時に、オレが編み出したフェイントでお客さんがもう“たまげた”のを覚えていますよ」
――どういうフェイントですか?
「それは大木さんとの練習でよくやっていたんですけど、ボールを持っていて、クッと足の裏でボールを動かして、相手が足を出してきたら股を通すというフェイントです。あれは凄くお客さんが沸きましたね。でも、勝沢先生はそういうことをしてもあまり怒らなかったです。相手をちょっとおちょくるプレーというか」
――ああ、時代的には怒る先生もいるでしょうね。そこはちょっと清水っぽいなあ。
「そう。清水っぽい。3年のインターハイで韮崎とやった準決勝は、もうけちょんけちょんにしてやりました。その試合は高校3年間で一番良い試合だと思っています。たぶんオレも1試合で5回は股抜きをやっていますよ」
――それはあえてやったんですか?
「いや、そういうわけではないです。相手が突っ込んでくるタイプのチームだったので、それをかわすために」
――股抜き5回は凄いですね。
「いや、5回は言い過ぎたな(笑)。でも、ゴール前で2人を股抜きしましたよ。その試合を金子達仁がボールパーソンかなんかをやりながら見ていて、『反町って凄いんだなと思った』って言っていましたよ。その年の韮崎は選手権で決勝まで行きましたし、大柴剛がいて、保坂(孝)も羽中田(昌)もいて、小林慎二、ヤマケン(山本健二)もいましたね。準決勝は三ツ沢でのナイトゲームだったんですけど、韮崎に完勝でした」
――ちょっと話を戻しますけど、唯一選手権に出場することになったのが2年生の時の大会ですね。全国準優勝です。
「その大会の県予選、全然覚えていないなあ」
――決勝は浜名高校とやっていますよ。松永成立さんと池谷友良さんが出ています。
「そうだ。シゲさん(松永成立)はオレが2年の時の国体で一緒に優勝しているんです。その時の話題がまだ出てきてないな(笑)」
――ごめんなさい(笑)。栃木国体ですよね。決勝で反町さんが延長後半9分に決勝ゴールを決めたと。
「はい。ワタクシの決勝ゴールです(笑)。その時のチームもスーパーなチームでした。オレも2年生なのになぜか入れてもらって、2年は清水東からオレ、達也、沢入、清商から佐野達、佐野宏光、後藤義一。3年生は藤枝東の神尾さん、倉田安治さん、シゲさんもいて。だから、浜名との決勝も全然点が入らなくて、1-0だったかな」
――松永さんは当時から凄かったんですね。
「凄かった。シゲさんは凄かったですよ。愛知学院大に行かれたんですよね。そこには日産に行った境田(雅章)さんという左利きの天才がいたんですよ。オレはファン・ハネヘム(1974年ワールドカップのオランダ代表メンバー)って呼んでましたけど」
――だいぶ知っている名前が出てきて面白いですね(笑)。高2のころの選手権はもう首都圏開催ですし、盛り上がりも凄かったですよね。
「盛り上がり自体はあまり覚えていないですけど、西目農業の小松晃がキックオフゴールを決めたじゃないですか。駒沢でやったウチの初戦が、あの試合の前のゲームだったんですよ。試合に勝って、荷物をまとめて、帰ろうとしてバスに乗ろうとしていたら、凄い歓声が聞こえたんです。それで宿舎に帰ってからニュースを見たら、あの50メートルロングが決まっていたと」
選手権決勝で負けた古河一の右サイドバックは今……
――やっぱりディテールを覚えている人ですね(笑)。決勝の古河一戦は国立競技場ですし、お客さんも凄かったと思うんですけど、よく覚えている試合ですか?
「準決勝の岡崎城西戦もかなりお客さんが入っていましたね。オレは足が攣ったことってあまりないんですけど、初めて攣ったのがその決勝でした。『あれ?なんだこれ?』って。足がピクッてなったんです。味わったことのない感覚ですよ。もう後半の残り2,3分でしたね。ああ、その時の古河一の右サイドバック、誰か知ってます?」
――え?誰ですか?
「今の流通経済大学の監督ですよ」
――ああ、中野雄二さんですか!全然知らなかった!
「当時は小宮さんでしたけどね。小宮雄二さん。オレの1つ上です。キーパーは東芝で活躍した永井(則夫)さん、フォワードには中央大に行った増田(淳人)さんと、その2人が有名でしたけど、キャプテンマークを付けていたのは小宮さんですよ。小宮さんは永井さんと一緒に法政に行ったんですよね」
――中野さんって選手権で優勝されているんですね。
「そうなんです。しかも2回もですよ。でも、あの決勝はやっぱり夢見心地だったというか、あまり自分事としては捉えられなかったですよね。客観的に見られていないというか。それを目標にやってきたわけだから、本当はもっと感慨深いものがあってもいいのかなとは思いますけど、決勝で負けてから『次の選手権では絶対に優勝してやろう』という気持ちが出てきたというか、初めて自分の中で前のめりになった気がしました。それと同時に選手権が終わってから、ファンレターも来るようになりましたし、バレンタインとかは本当に段ボールでチョコレートが届きましたよ。不二家のナッツが入っているチョコレートが一番多かったです」
――それって学校に届くんですか?
「そうです。『清水東高校、反町様』で。春の大会になるとグラウンドの周りはみんな女の子で囲まれて、スローインするたびに『すみません。ちょっとどいてください』と。そこからスターですよね。雑誌の『セブンティーン』にも写真が載ったりして。あとはまだネットもない時代なので、とにかく手紙が届くんですよ。それはそれは凄かったですよ」
――さすがに舞い上がりました?
「それからちょっと人生がおかしくなったかもしれない(笑)。でも、その時は硬派だったんですよね。失敗したなあ(笑)」
――高3の選手権は予選で清商に負けていますよね。
「清商に負けました。その時の選手権は武南が優勝したんですけど、彼らの中のある選手が決勝の後にインタビューで『おめでとうございます。日本一ですね』と言われて、『いや、日本一強いのは清水東です』と言ったらしいんです。インターハイの1回戦でやっていますからね」
――その試合は2-1で勝っていますね。
「その武南には星野晋吾がいました。ウチらの代では達也と晋吾の2人が一番上手かったかもしれないですね。一番代表の試合に出ているのは佐野達だと思います」
――反町さんの日本代表デビュー戦は、佐野さんと一緒に出ていますよね。その試合の佐野さんは退場していますけど。
「韓国との試合じゃない?ダイナスティカップ。北京でやった試合だ」
――そうです。佐野さんとホン・ミョンボさんが退場して、点を獲ったのがファン・ソンホンさんでした。ちょっと話を戻しますけど、先ほどおっしゃったみたいに2年の選手権決勝で負けて、来年こそは日本一になろうと前のめりになった中での、この3年での予選敗退は悔しい出来事ですよね。
「清水東史上でも最も強いチームだと言われていましたし、インターハイもダントツの強さで優勝しましたからね。2つ下の(大榎)克己は出ていましたし、(長谷川)健太も(堀池)巧もメンバーには入っていて、1つ下も(望月)哲也、青島(秀幸)、浄見(哲士)、梅田(和男)、膳亀がいたんですよ。ほとんど最強メンバーだと言ってもおかしくなかったです。清商との試合は清水の市営グラウンドで、向こうは全校応援、こっちは有志が集まる感じで、雰囲気は全然向こうの方が上でしたね。1点獲られて、柴田が点を獲って、最後に点を獲られたんです。その時はかなり泣きましたし、哲也に『次は任せたぞ』と言いましたね。選手権も清商の試合は見れなかったなあ」
――やはり清水東時代を振り返る上で勝沢先生の存在は語り落とせないですね。
「サッカーを教えてもらったというよりも、サッカーに向き合う姿勢には心底影響を受けています。怖かったですけど、一緒にそばを食べに行ったりしましたよ」
――在学中にですか?
「そうです。だから、近寄りがたくはなかったですね。曲がったことが嫌いな人なので、凄く一生懸命やっていれば評価してくれました。この間出した本(『「サッカーを語ろう」 日本サッカー協会技術委員長1457日の記録』/小学館)の“あとがき”で、いただいた手紙を紹介しましたけど、ああいう人です」
鎌倉で送った浪人生活。そして、一浪の末に慶応大学へ
――高校卒業後の1年間は浪人生活ですね。これはもともとどこの大学に行こうとしていて、どこに落ちたんですか?
「ウチの父親は早稲田の政経学部で、オレも早稲田に行こうと思っていたんです。でも、自分の学力的に早稲田に行くなら、教育学部体育学科という体育の先生になる人向けの学科だったんですね。オレは学校の先生になるつもりはなかったので、そこは違うかなと。一方でインターハイが終わったころから、慶応のサッカー部の関係者から『是非ウチに来てくれ』と言われていたので、『じゃあ、行きたいです』と言ったら、『ただ、受験で合格しないとダメですよ』と言われて、『わかりました。頑張ります』と。
一方で関西のある大学からは推薦枠で熱烈に誘われていたんです。ただ、自分の中では『大学に行く=上京』ということしか頭になかったので、その話は断って、慶応に行こうと思って勉強し始めたんですけど、そんなちょっと勉強してすぐに受かるような大学ではないわけで、結局受けたけど落ちました。
それで、2次募集で法政大学に受かったんです。武蔵小杉にあった法政大学のサッカー部の寮も見に行ったんですけど、いろいろ考えた末に浪人を決意したんですよね。この事情を知っている法政大学出身の水沼さんには会うたびに『あ、法政を蹴ったヤツだ!』と嫌味を言われました(笑)」
――まあ言われるでしょうね(笑)。浪人生活は静岡で送っていたんですか?
「鎌倉です。稲村ケ崎に母方の祖母と祖父が住んでいたので、そこから代々木ゼミナールに通っていました」
――メッチャ勉強しました?
「メッチャ勉強しました。当時は書いて覚えるしかないので、今でもちょっと右手の人差し指が右側に曲がっているんですよ。一切ボールは蹴らなかったですね。ビーチに行って海に入ったのも1回ぐらいで。そういえば定期券を落としたことがあったんですよ。それを拾ったのが高校サッカーファンの女性で、警察に届けてくれたんですけど、手紙が入っていて『私のお気に入りの選手が反町さんで、定期を拾ったら名前が書いてあってビックリしました』って(笑)」
――それで一浪して、どこに受かったんですか?
「慶応をはじめ、早稲田、立教、青学も受かりました」
――その中から何で慶応大学法学部政治学科を選んだんですか?
「本来の目標がそこだったからです。どこから聞いたかわかりませんが、早稲田のサッカー部のマネージャーから実家に電話があったんですけど、『行きません』と断ってしまいました」
とにかく楽しかった4年間。「大学生がやるべきことは全部やりました」
――慶応に入学した時は、もうサッカー部に入るつもりはなかったんですよね?
「そうですね。でも、コーチに東京のアパートまで来られてしまったので」
――最初はテニスサークルに入っていたという情報は掴んでいます(笑)。
「日吉の坂を上っていくと、いろいろなサークルからいっぱい勧誘されるわけです。そこでテニスサークルのところに名前を書いちゃいました。夏はテニス、冬はスキーのサークルです(笑)」
――見事にチャラい!(笑)
「当時は『ふぞろいの林檎たち』が始まるぐらいのころですよね。慶応の同級生に二谷友里恵がいますから。ほら、石黒賢と一緒に出ていた『青が散る』で有名になって」
――ごめんなさい。全然わからないです(笑)。それで結局コーチがアパートまで来てしまったと。
「その時にたまたま引っ越ししたばかりで母も来ていたんですよ。東横線の学芸大学駅から歩いて、目黒通りの方に行ったあたりのアパートでしたね」
――そうなると、さすがに断れなかったですか?
「サッカーをやること自体はそんなに嫌ではなかったですけど、大学生活を謳歌したいとも思っていましたからね。まあ、そのあとで練習に行きましたよ」
――当時の慶応は東京都リーグの1部ですよね。正直、それまでの反町さんがプレーしていた環境と比べると、なかなか難しいレベルだったんじゃないですか?
「1年生の時に慶早戦に出ましたから。『慶早戦に1年生が出るのは何十年ぶりだ』と言われました」
――しかも1年浪人しているわけですからね。
「その時にサッカーマガジンに載った写真では、頭にパーマをかけていますよ。もう大学生としてのびのびしていましたから。当時のアパートのポストに20パーセントオフの“パーマ券”が入っていたので、それを持って学芸大学駅前の3階かなんかの美容院でパーマをかけて。ちょうどその時にサッカーマガジンに特集されたんですよ。『浪人して慶応に入ってきたホープ』みたいな感じで」
――2年生で関東2部に昇格して、3年生は2部で戦っていたわけですね。この大学での4年間はどういう時間でしたか?
「楽しかったですよ。1人暮らしで青春を謳歌しました。サッカーも勉強も一生懸命やっていましたけど、それ以外もディスコに行ったり、合コンをやったり、大学生がやるべきことは全部やりました」
全日空に入社。銀座で実感したバブルの絶頂期
――ちなみにこの慶応での4年間で、「サッカーで上を目指そう」という気持ちにはなっていないわけですか?
「なっていないですね。もともと大学に入って、一般企業に就職して、サラリーマン生活を歩むというのがすべてでした。本当にそれがすべてで、『だから浪人をしたんだ』と自分にも言い聞かせていました。大学4年生の時に、三菱重工サッカー部の監督だった大仁(邦彌)さんから『おい、反町。オマエ、三菱でやる気あるか?』と聞かれたので、『ないです』と。その時は藤口(光紀)さんが慶応の監督になられていたので、『藤口さん、どう思います?』と聞いたら、『まあオマエは無理だろうな』『ですよね。わかりました』と。それでグローバルな仕事をしたかったので、三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅などの商社が就職ランキングの上位ということもあって、そういうところを受けようと思っていた中で、全日空も受けたんです。ちょうど全日空が初めて海外進出したグアム線の就航が、面接を受けていた半年前のことだったので、勢いがありましたね。1次試験はほぼ受かりましたけど、2次試験からは各企業のスケジュールがバッティングしていく中で、丸紅には受かりました」
――全日空に入社した決め手は何だったんですか?
「全日空の上役の方に諸橋さんという慶応のサッカー部OBの方がいらっしゃったんですけど、会社訪問時にその諸橋さんと人事部長と、全日空の本社がある霞が関ビルでお会いすることになって、『どこか受かっているのか?』と聞かれたので、『丸紅から内定をもらっています』と言ったら、諸橋さんが『それはオマエ、丸紅へ行けよ』と。それを聞いて『わかりました。全日空に行きます!』と(笑)」
――反町さんっぽいエピソード過ぎますね(笑)。
「またこの時にコーヒーを出されたんですけど、オレはお茶とか紅茶派なので、そのコーヒーを飲まなかったんですよ。それでいろいろお話してもらって、『ありがとうございました』と帰ろうと思ったら、諸橋さんが『オレはオマエみたいにコーヒーを飲まないヤツを評価する』と」
――僕にはちょっとわからない世界ですけど(笑)、ウマが合ったんでしょうね。
「そうでしょうね。諸橋さんのお父さんは三菱商事の会長さんですよ。だから、会社に入った1年目から半年に1回くらい銀座に呼ばれて、凄く高いステーキをご馳走になったら、次は高級クラブに行くんです。もうバブルの絶頂期ですから。あの時代は凄かったなあ。誕生日のお祝いでクラブに行って、『今日誕生日なんですよ』と言うと、シャンパンは出てきますし、そのころの銀座はアルマーニのネクタイとかを売っているお店が夜遅くまで空いていたんですけど、それをみんなが買ってきてくれて、ネクタイを10本ぐらいもらえるんです。凄く、凄く、良い時代でした(笑)」
――若いころにバブル時代を大いに楽しんだんですね。
「楽しんだと思います。今とは全く違う世界です。もうあんな時代は来ないでしょうね」



Profile
土屋 雅史
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!