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イビチャ・オシムとラルフ・ラングニックの薫陶、ベルマーレの復権、松本山雅との邂逅。そして再びサッカーの街へ…清水エスパルス・反町康治GMインタビュー後編

2025.03.12

日本サッカー界の中でも、ここまで稀有なキャリアを歩んだ人もそうはいまい。サッカーの街・清水で育ち、サラリーマンJリーガーとしても名を馳せ、指導者に転身後は五輪代表監督や各Jクラブの監督を歴任。現在は清水エスパルスのGMとして辣腕を振るう反町康治は、数奇な出会いに導かれながら、今もサッカーと生きる日々を過ごしている。インタビュー後編はサッカー界を離れようと思った北京五輪代表監督時代、ともにクラブをJ1昇格に導いた湘南ベルマーレでの3年間と松本山雅FCでの8年間、そして今後の展望を余すところなく聞いた。

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五輪代表監督就任の決め手。オシムさんから学んだこと

――アルビレックスの後に反町さんがオリンピックの代表監督になったのは相当意外だったんですよ。というのは、そのころはもうそれなりに取材もさせていただいていた中で、反町さんは日常的に選手と練習をしていたい人だと思っていたんですね。だから、「ああ、そこをやるんだ」と。

 「新潟での仕事が終わってから、半年間は解説をやっていたんです。その半年は本当に休めましたね。オリンピックの前の半年と、終わってからの半年はある程度休めました。それでドイツワールドカップにも行って、日本代表がブラジルに負けた後に、田嶋(幸三)さんから電話が掛かってきて、ミュンヘンのホテルで1回話したんです。その時に『オリンピックの監督とA代表のコーチをやってほしい』と。『そんな流れなんだな』とは思ったんですけど、そこで『A代表の監督は誰がやるんですか?』と聞いて、『オシムさんだ』と言われちゃったら……」

――まあ、言われちゃったら、ですよね。

 「『言われちゃったらなあ』と。その前に当時はまだあったJリーグのオールスターで、ファン投票で2年続けて監督に選ばれてしまったんです。その時の1回はオシムさんがコーチだったんですよ。そこでもいろいろ話をしてもらいましたし、そういう経緯もあって『この人とは絶対にやったほうがいいよな』と思いましたよね」

――言うまでもなくオリンピックの代表監督は非常に名誉なことだと思いますけど、あるいはそれと同じぐらいオシムさんと一緒に仕事ができることも、就任の決め手だったということでいいですか?

 「もちろんです。そこで自分の人生が変わっていたかもしれないなとつくづく思うのは、もしオシムさんが監督でワールドカップに出ていて、自分もそのベンチに座っていたら、日本のサッカーはどうなっていたのかなと。そこは自分の中でも凄く興味がありますし、できればワールドカップまでやってほしかったなと今でも思っています」

――オシムさんのサラエボでの葬儀にも行かれたんですよね?

 「あれも何かの縁ですよね。ちょうどJFAの技術委員長として日本代表の試合でヨーロッパに行っていて、足を伸ばせば行けるということで、コロナ禍でしたけどPCR検査も全部受けて、その証明書を持ってボスニア・ヘルツェゴヴィナに入国できたんです。そこで葬儀の時に前へ10人並ぶ中の1人に入れてもらって、スピーチもしました。横にはボバンがいて、後ろにはストイコビッチ、ミロシェビッチもいましたね」

――なかなか一言では言えないと思いますが、オシムさんから一番学んだことはどういうことですか?

 「どうだろうなあ……。どういう言い方がいいんだろう……。なんか、日本のサッカーって結構システムにこだわるところがあるじゃないですか。でも、そうではなくて“スタイル”だなと思いました。要は選手の並びなんてどうでもいいという感じですよね。どういうスタイルでサッカーをやるかをイメージさせてくれたのがオシムさんでした。

 だから、『ああ、サッカーってこういう感じなんだな』と思いましたよ。広義な意味で言うと、『数的優位で攻めて、数的優位で守る』ということです。普通に考えれば当たり前のことなんですけど、それを繋ぎ合わせるのは結局トランジションとアップダウンです。『だから、考えて走れ』と。今までのサッカーの常識や考え方を覆された感じでしたね。

 その中で選手の個性の重要性も感じながらやられているんだなと思いました。選手の組み合わせもいろいろなことを考えながらやられていましたし、トレーニングはとにかく面白かったです。それはこの間出した本にも書いていますから、それを読んでください(笑)」

――それはジェフの監督時代を見ていたころより、実際に一緒にやってよりわかったイメージですか?

 「結局トレーニングがすべてじゃないですか。ミーティングだってほとんどしないですよ。やるとしても『練習したことをやれ』で終わりです。ただ、代表でやっているのとジェフでやっているのはちょっと違うサッカーでしたね。ジェフの時は相手を見て、足の遅い大柄な選手には結城(耕造)が付いて、足の速い選手には水本(裕貴)が付いて、ストヤノフが1枚余って、数的優位を作ると。でも、攻撃になったらセンターバックだろうがどんどん前に出ていくと。それはやっぱり凄かったですよ。

 ただ、代表では何となくはやりたいことが見えつつも、すべてはわからないままに終わってしまったので、ワールドカップで最終形が見たかったです。その弟子と言われているミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ)ともまったく違いますからね。自分の中のコンセプトはあるんだけれど、個々の選手としての特性も生かすと。そこが凄いところなんですよ。コンセプトがあって、それに無理やり選手を当てはめるのではないんです」

反町GMとオシム監督

――今から振り返ると、オリンピック代表の監督をやられていた2年間はどういう時間でしたか?

 「基本的には楽観的に物事を考える方だと思いますけど、さすがにオリンピックが終わって日本に帰った時は、サッカー業界をやめようと思いました。ある新聞社の記者は心配して、焼酎の一升瓶を持って家の前まで来てくれましたよ。『飲み屋をやろうかな』とか『気象予報士になろうかな』とか、いろいろ考えていました」

――天気の話、好きですからね。山雅の監督の時も風とか天候のこと、よくおっしゃってましたし(笑)。

 「まあ、そうだな(笑)。ずっと家にいて、ふさぎ込んでいて、サッカーの試合も全然見ていなかったんですけど、ネットニュースでTSG(ホッフェンハイム)がブンデスの1部に昇格してきたばかりなのに首位争いをしていることを知って、それは凄いなと。そこでなぜか『ちょっと見に行こうかな』と思ったんです」

ドイツで取り戻したサッカーへの情熱。古巣・ベルマーレで監督復帰

――そこでホッフェンハイムに行ったことで、一度はサッカー界を去ろうと思ったところから、また情熱を取り戻すことになるわけですか?

 「そうです。『日本のホッフェンハイムを作ろう』と思ったんです」

――ちなみに急にヒゲを生やして帰ってきたのは何だったんですか?(笑)……

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Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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