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ウクライナ3部からリーガ得点ランクトップへ。ジローナ牽引の「チェルカース人」アルテム・ドフビクが背負うもの

2024.02.09

今季のラリーガで大旋風を巻き起こしている昇格2年目のジローナ。その牽引車の1人こそ、21戦14発で得点ランキングトップのウクライナ代表FWアルテム・ドフビクだ。かつて母国で3部落ち、国外では大ケガも乗り越えた26歳の苦労人物語を、東欧の専門家である篠崎直也氏に教えてもらおう。

 世界の多くのサッカーファンがアルテム・ドフビクのことを知ったのは、EURO2020(コロナ禍の影響で開催は2021年6月~7月)ラウンド16のスウェーデン戦だろう。その時も名前までしっかり覚えた人は多くなかったかもしれない。ウクライナがベスト8進出を決めたこの一戦で、途中出場から延長後半ロスタイムに突入した121分に値千金の決勝ゴールをヘッドで叩き込み(大会史上最も遅い時間での得点)、ユニフォームを脱いでマッチョな体にスポブラのようなGPSベスト姿で走っていたあのウクライナ代表FWである。

 その後、ドフビクを欧州の主要リーグで見ることはなかったが、今季ジローナに移籍するとチームの快進撃とともに大ブレイク。第21節セビージャ戦でハットトリックを達成すると、ついにレアル・マドリーのジュード・ベリンガムと並んで得点ランキングトップに躍り出た。今や欧州強豪クラブが獲得を狙う注目銘柄となった26歳の伏兵はこれまでどのような道を歩んできたのだろうか。その経歴を振り返ってみよう。

非エリート時代に強靭な肉体を身につけた「チェルカース人」

 ドフビクが生まれたのはウクライナ中央部、ドニプロ川のほとりにある都市チェルカースィ。16~17世紀にこの町は勇猛果敢で知られる武装騎馬民ウクライナ・コサックの拠点となり、かつてウクライナ人は「チェルカース人」と呼ばれていた時代があった。189cmでがっちりとしたドフビクの恵まれた体格はそんな誇り高きコサックの血によるものかもしれない。2014年のロシアによるクリミア併合以降、ウクライナ代表選手の多くがロシア語で会話していることに対して度々批判の声が上がっていたが、ドフビクは家庭内ではウクライナ語を話しながら育った。

 まだ歩けないうちから祖父にプレゼントしてもらったボールを蹴っていたというアルテム少年は、7歳から本格的にサッカーを始めるとすぐに才能を発揮。当時テレビではアンドリー・シェフチェンコが在籍していたACミランの試合が放送されていて、他のサッカー少年たちの例に漏れず自国のスーパースターのプレーに魅了され憧れた。ドフビクはチェルカースィのスポーツクラブでプレーを続け、65試合33得点という数字を残している。

のちにEURO2020ラウンド16のスウェーデン戦で劇的決勝弾を挙げて膝滑りするドフビクを背後に、笑顔で両手を広げて喜ぶ当時ウクライナ代表監督のシェフチェンコ

 ただし、国内の同世代のエリートたちと比べるとトップクラスの選手ではなかった。16歳の時にウクライナプレミアリーグ(1部)の古豪メタリスト・ハルキウの練習に参加したものの、膝の故障の影響もあり契約には発展せず、チェルカースィに戻る。この頃からドフビクは筋トレにより力を入れるようになり、徐々に強靭な肉体を身につけていく。

 17歳の時に国内3部の地元クラブ、ドニプロ・チェルカースィとプロ契約を結ぶと、監督交代をきっかけにシーズン半ばからレギュラーに抜擢。同クラブのボロディミル・ラシュクル会長はドフビクのデビュー当時を回想している。……

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アルテム・ドフビクジローナ

Profile

篠崎 直也

1976年、新潟県生まれ。大阪大学大学院でロシア芸術論を専攻し、現在は大阪大学、同志社大学で教鞭を執る。4年過ごした第2の故郷サンクトペテルブルクでゼニトの優勝を目にし辺境のサッカーの虜に。以後ロシア、ウクライナを中心に執筆・翻訳を手がけている。

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