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地獄を見た男が再び「サッカーを描きたい」というモチベーションを取り戻すまで。飯尾篤史が携える“プロの書き手”としての矜持

2023.08.29

蹴人列伝 FILE.5 飯尾篤史~後編~

サッカーの世界では、あるいは世間的に見れば“変わった人”たちがたくさん働いている。ただ、そういう人たちがこの国のサッカーを支えているということも、彼らと20年近く時間をともにしてきたことで、より強く実感している。本連載では、自分が様々なことを学ばせてもらってきた“変わった人”たちが、どういう気概と情熱を持ってこの世界で生きてきたかをご紹介することで、日本サッカー界の奥深さの一端を覗いていだだければ幸いだ。

第5回でご紹介するのは各種媒体で健筆を振るうサッカーライターの飯尾篤史氏。『サッカーダイジェスト』のエースからフリーランスへと転身し、その文章を見ない日はないくらいの売れっ子ライターというイメージがある飯尾氏だが、過去にはW杯の取材を目前に控え、この仕事をやめることまで考えるような体験に見舞われたこともあった。後編ではフリーランスになった経緯や、突如としてやってきた“地獄”のような日々と、そこからどうやって復活していったかを赤裸々に話してもらおう。

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メディアの変化を目の当たりにして覚えた危機感

――そこからフリーランスになろうと思った最終的なきっかけは何だったんですか?

 「2010年に南アフリカW杯に行って、戻ってきたら編集長から『引き続き代表担当をやってくれ』と言われたんです。それまで代表担当はだいたい4年周期で変わっていたので、自分の中では『南アが終わったら外れるだろうな』と思っていたんですけど、そういう話になって、しかも監督にザッケローニさんが就任すると。もともとイタリアは好きですから(笑)、『え?あのウディネーゼとミランのザックが?』とちょっと興奮して。それで初陣のアルゼンチン戦に行って、アウェイの韓国戦に行って、カタールで行われたアジアカップも取材して優勝の瞬間を見届けました。その時点では『これはブラジルW杯までの4年も面白くなりそうだな』と思っていたんですよ。サッカーダイジェストの代表担当としてブラジルW杯に行こうと。そう思っていた時に、東日本大震災が起こるんです」

ザックジャパンの初陣となったアルゼンチン戦のハイライト動画。長谷部誠が放ったミドルシュートのこぼれ球にいち早く反応した岡崎慎司が押し込み、1-0と歴史的な勝利を掴んだ

――東日本大震災はいろいろな人のターニングポイントですよね。

 「そうですよね。そこで、『人生って何が起きるかわからないな』と思ったんです。『このままあと3年間、何となくダイジェストにいていいの?』と。2010年は日本代表とFC東京の担当しかやっていないんですけど、もともと『日本代表とFC東京の担当をしたい』と思ってダイジェストに入ったので、それが実現したわけです。上司に怒られるわけでも、原稿を真っ赤にされて突き返されることもなく、もともと好きなチームのことを自由に書けると。

 居心地はメチャメチャいいんですけど、自分の成長を考えると、それはちょっとまずいんじゃないかと。あと、次第にWEBの時代になってきた中で、ダイジェストは当時まだWEBがなかったので、その世界をまったく知らなかったんですよね。それに、その何年か前にNumberが『Number Web』を立ち上げていたんですけど、11年に入ってメルマガも始めたんです。しかも、そのメンバーが木崎(伸也)さんとか小宮(良之)さん、豊福(晋)さんといった自分と同世代の人たちだったんです。

 WEBの世界もよく知らないのに、メルマガなんてものまで始まったと。しかもそこに参加しているのが、それまでNumberの日本代表の記事を担ってきた先輩方ではなくて、自分の同世代だったということに、メディアの世界が凄く変化しているのを感じて、『自分は置いていかれるんじゃないか……』という危機感を覚えたんです。あとは、日本代表がアジアカップで優勝して、W杯予選が始まるという、まさにここからというタイミングでやめれば、業界内で話題になるんじゃないかなっていう戦略的な部分もあったし、代表担当を外れたからやめるんじゃなくて、キャリアのピークでやめたいなっていう思いもありました。

 ブラジルW杯に行きたいなら、フリーで頑張ればいいわけで、『まだ3年はあるから、今なら間に合うかもな』とも。それなりに名前を知ってもらっていたので、このタイミングでやめればいろいろな媒体が1回はチャンスをくれるだろうから、その1回のチャンスを次に繋げていけばいいかって。実際にやめたときはかなり驚かれましたし、いろいろなところが声を掛けてくれたので、結果として一番いいタイミングだったと思いますけど、やっぱり3.11で人生を考え直したことは大きかったですね」

――サッカーダイジェストでの9年間というのは、飯尾さんにとってどういう時間でしたか?

 「今に繋がるすべてです。逆に言えばサッカー専門誌にいることで、さまざまなものを得られたギリギリの世代だとも思います。当時は週刊誌でしたし、予算もあったので、毎週Jリーグの取材に行けたし、海外出張にも行けました。担当クラブの選手に頻繁にインタビューできたし、長い文章を書く機会もあった。人脈が広がったのもそうですけど、とにかく経験を積めました。編集部員も15人ぐらいいて、お互いにライバル意識があって、ピリピリしながらも切磋琢磨していましたし、若い頃は編集長から原稿を突き返されたり、赤字を入れられたりして鍛えられましたからね。

 正直、給料は安かったですけど、ダイジェストにいて得られるものがたくさんあったので、お金のことはそんなに気にしていなかったですね。稼ぎたいならフリーになればいいわけで、今はそのための修行をしているんだっていう感覚でしたから。フリーになることを想定していたので、原稿もちょっとチャレンジしてみるわけですよ。『今回はこういうテーマで書いてみよう』とか『こういう文体でやってみよう』とか。ある程度自由にやらせてもらえたので、凄く感謝していますし、良い時代を味わわせてもらったなと」

そして、フリーランスへ。出足はごくごく好調だった

――それで実際に2012年からフリーになったわけですね。

 「そうですね。2011年10月から年末まで有給休暇と代休の消化で出社しなかったんですけど、その間から仕事の依頼をもらっていました。FC東京の担当だった関係で、城福(浩)さんと親しくさせてもらっていたんですけど、2011年の秋に城福さんに本の依頼が来た時、『飯尾くんがやめるんだったら、門出を祝うじゃないけれど、本の構成をお願いしたい』と城福さんが言ってくれて、作らせてもらったり。

 そういえば、ダイジェストをやめる時まで、僕は北條さんと1回も喋ったことがなかったんです。実際に話せば気さくな方なんですけど(笑)、当時は恐れ多くて、ちょっと怖かったんですよね。だから挨拶もできなかったですし、“打倒・北條”で代表担当をやっていたわけですから。でも、やめる時にサッカーマガジンの知り合いが、僕が北條さんを好きなことを知っていたので、会う機会をセッティングしてくれたんです。その時に僕が『サッカー世界遺産』を持っていって見せたら、北條さんがメチャメチャ喜んでくれて、そこから仲良くなって、サッカーマガジンにも書かせてもらえるようになりました(笑)。そんな感じでスタートから調子は良かったですね」

――一緒に長野インターハイへ取材に行ったこともありましたよね(笑)

 「そうそう(笑)。アレは2012年の夏でしたね。その頃は順調とはいえ、まだ余裕があったので、『つっちー、一緒に行こうよ。連れて行って』って。車でMY LITTLE LOVERのアルバムを聞きながら(笑)。懐かしいなあ」

――「やっぱり高校年代とか、そういうカテゴリーも見たいと思っているんだよ」と言って、長野に車で一緒に行って。結局、一緒にインターハイを取材したのは、アレが最初で最後でしたね(笑)

 「そこからありがたいことに仕事もどんどん増えていって、ユース年代を取材する余裕がなくなってしまって(笑)。その2年後にブラジルW杯の取材パスも取れました。フリーランスになって2年でW杯の取材パスを取れたライターは僕が初めてだったらしいんですけど、その後に大きな挫折というか、打ちのめされることが起こるんです。土屋さんはご存じだと思いますけど……」

2014年5月。埼スタの記者席で目の前の景色は暗転した

――そこは今回、一番お話を伺いたかったところです。

 「W杯のパスが取れました、と。仕事も順調に増えていたんですけど、自分のキャパ以上に依頼が来るようになって。それに想定外の依頼も増えてきたんですよね。たとえば、遠藤保仁、今野泰幸、長友佑都、森重真人、中村憲剛といった選手たちの原稿依頼が来るのは想定内だったんですけど、『香川真司を書いてくれ』『大迫勇也を書いてくれ』って、どんどん依頼が来るようになって、『え?喋ったこともないけど……』って。日本代表を取材しているんだから、いろんな依頼が来るのは当たり前のことだし、喋ったことがないと言っても、インタビューをしたことがないだけで、囲み取材では話を聞いているので、今ならいくらでも書き方、切り口があるんですけど、当時は『え?何を書けばいいの?』と思ってしまって。

 それでW杯の最後の親善試合のキプロス戦が埼スタであって、そこから1週間後には代表の直前合宿の取材でアメリカに旅立たないといけないのに、手を付けてすらいないというか、何を書けばいいのかわからない原稿が溜まっていって、締め切りはどんどん迫ってくると。しかもその時、中村憲剛さんの本を書いていたんです。南アフリカW杯で不完全燃焼だった想いを、ブラジルW杯で晴らすというコンセプトだったんですけど、憲剛さんが代表から落選してしまったことも、パニックに拍車をかける要因になりました。『何を書けばいいんだろう?それ以前に、本当に出版されるんだろうか……』って。

 それでキプロス戦の試合前に、もう気持ちも重くて鬱々としていて、ここからW杯の取材に行くとは思えないぐらいの暗い気持ちで、埼スタのスタンドの端の方にこっそりと座っていたら、土屋さんが『どうしたの?表情暗いじゃん』と話しかけてきて(笑)」

ブラジルW杯に向けたトレーニングマッチ・キプロス戦のハイライト動画。前半に内田篤人が押し込んだゴールが決勝点となった

――あの時の表情は本当にヤバかったですから。事情を聞いて、試合中の90分間もずっと励まし続けて。あのキプロス戦の前に、ああなりそうな予兆はあったんですか?

 「4月に国内組だけの合宿があったんですけど、あのあたりから自分がそれほど詳しくない選手の原稿依頼が来るようになったんです。『飯尾さんは代表に強い人』というイメージがあったからでしょうね。そこまで取材したことがない選手でも、依頼が来ればやっぱり『そういう選手でも鮮やかに描かなきゃ』と思うわけですよ。期待に応えたいので。でも、それこそ『この編集者は、何を自分に求めているのか』がよくわからなくなってしまって。答えはシンプルで『飯尾さんだったら面白く書いてくれるだろう』なんでしょうけど、こっちは『その期待には応えられないな』とか、『こんな駄文を送ったら二度と声が掛からなくなるかもしれない……』とか、どんどんネガティブな方に思考が行ってしまって。

 それで何日も書けずにいると、他の原稿もどんどん溜まっていって、『ああ、もうこれは無理だな』ってパンクしてしまって。結局ブラジルW杯の本番でも、結構な数の原稿をお断りしてしまったので、『ああ、もうこの世界では生きていけないな』と思っているところで、日本代表も惨敗して、合宿地のイトゥから日本代表は帰っていて、活気がなくなったうら寂しい光景の中で、『オレの人生はどうなっちゃうんだろう……』って。そもそもイトゥって肌寒かったんですよ。その寒さが余計に身に染みたのを覚えています(笑)」

もう一度「サッカーを描きたい」と思えるようになった理由

――本当にW杯取材を目前に控えている人の顔ではなかったですし、あんな表情の人は久々に見ましたよ。

 「本当に病んでいたと思います。直前合宿があったアメリカはカンカン照りで、その気候に対しても気持ちが沈んで、W杯では日本代表も惨敗して、ミックスゾーンで長谷部(誠)とかが泣いているのを目の当たりにして、さらに胸に来るものがあって。でも、代表が勝ち進んだら勝ち進んだで、また追い込まれていたでしょうし、あれは人生で一番大変な時期でした」

――重要なのは、そこからどうやってもう一度『サッカーを描く』というモチベーションを取り戻していったかです。それが今回一番聞きたかったことなんですよ。……

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蹴人列伝

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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