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「私は死んでも、サンフレッチェのサポーターなんです」エディオンスタジアムのラストゲームで思い出した“自分の原点”

2023.11.29

サンフレッチェ情熱記 第7回

1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始し、以来欠かさず練習場とスタジアムに足を運び、クラブへ愛と情熱を注ぎ続けた中野和也が、チームと監督、選手、フロントの知られざる物語を解き明かす。第7回は、エディオンスタジアムのラストゲーム、試合後のセレモニーでの久保允誉会長の言葉で思い出した、2007年に刻み込まれた“ナカノカズヤの原点”について思いを馳せる。

 青山敏弘は「僕のホームは、ずっとここなんだ」とエディオンスタジアム広島について語った。野津田岳人は「エディオンスタジアム広島を離れるのが寂しくて、新スタジアムへ想いを馳せることができない」と言った。

 選手たちにとっての「エディオンスタジアム広島」は憧れの舞台であり、成長するための劇場であった。芝生はJリーグ最優秀ピッチ賞を獲得したことはないものの常に美しく整備され、雨が降っても水はたまらない。かつては芝生がいたるところではがれたり、水溜まりができたようなこともあったが、今はまったく心配などいらない。

試合前に抱いていたのは「惜別」よりも「希望」だった

 一方、サポーターの立場になってみれば、どうだったか。

 「今年で最後」だと思えば、センチメンタルな気分にもなる。来季はJリーグでも類を見ない「街なかスタジアム」での試合開催が決まっているから、郷愁にも誘われる。2012・15年の優勝もこのスタジアムでの出来事だったなと想いを馳せることも、今はできる。

 だが、単純に観戦する場所として考えれば、エディオンスタジアム広島は厳しいホームスタジアムだった。

 広島駅から直接、スタジアムに向かう公共交通機関はない。JRなら新白島駅で乗り換えてアストラムラインに乗り換えて終着駅である広島広域公園駅まで行かねばならず、トータル40〜50分は考えておかねばならない。そしてそこからは、厳しい坂道。「歩いて10分」と言われているが、多くのサポーターが「登山」と表現するように、かなりの急坂である。

 JR横川駅からシャトルバスも運行していて、道がすいている時は約20分。到着した後の「登山」も距離が半分以下に軽減され、アクセスには最も便利。だが、バスの宿命は「渋滞」だ。特にエディオンスタジアム広島がある広島広域公園付近の道路は、屈指の渋滞区間。大型商業施設ができたこともあり、クルマが全く動かない恐れが常にある。

 問題は往路よりも帰路だ。2015年、3万5000人を超える大観衆が詰めかけたチャンピオンシップ第2戦は広島の優勝で歓喜の幕を閉じた。が、ナイターで行われたこの試合の後、サポーターは長時間、足止めを食らった。渋滞でバスやクルマが全く動かず、アストラムラインも超満員。広島市中央部に戻ってきた時には終電はなくなりバスもないという「帰宅難民」が多数、出てしまった。

 このスタジアムは陸上競技場であり、サッカーを見るにはトラックが邪魔してしまう。スタンドの傾斜も緩やかで選手のプレーが遠すぎてよく見えない。記者席がアウェイ側に寄っていることもあり、「広島のホーム側でプレーしていると、何をやっているのかがわからない」と嘆く記者もいた。

 屋根もなく、雨(時に雪)が降ればサポーターはずぶ濡れ。正面スタンドにある記者席は一応、屋根がついてはいるがカバー率が低く、風が吹いてしまったら雨が降り込み、ノートやパソコンを必死で守らねばならない。

 2000年1月に創刊された紫熊倶楽部のインタビューで久保允誉社長(現会長)は、こう語っている。

 「極端に言えば、晴れた日の試合は雨の日の3倍、観客動員が違う。となると当然、『雨が降っても、観客動員に影響しない環境』を目指さないといけない。つまり屋根付きのスタジアムが必要だということになるんです」

J1第33節ホーム開催となったガンバ大阪戦後に行われたセレモニーで。サポーターに向けて挨拶する久保允誉会長(Photo: Kayo Nakano)

 アクセスが良く、トラックのないサッカースタジアムが「Jクラブを経営する上では不可欠。それは私の信念と言っていい」と久保社長は熱っぽく語った。当時、そのいい例として社長が挙げたのが、ベガルタ仙台だ。

 仙台が今もホームスタジアムとして使っているユアテックスタジアム仙台は、仙台駅から地下鉄で15分。最寄りの泉中央駅からやや下り坂の道を3分も歩けば、スタジアムにたどり着ける。サッカー(ラグビーも使用可)スタジアムで非常に見やすく、全席に屋根がついていて雨風もしのげる。

 今季、ベガルタ仙台はJ2で16位と厳しいシーズンを送ったが、それでも平均観客動員は1万2115人。1万4393人/平均の清水についでリーグ2位を記録している。コロナ禍だった2020〜22年を除き、2001年以降は平均動員1万人を割った年はない。もちろんクラブの努力もあったはずだが、素晴らしいホームスタジアムの存在を抜きにして、この数字はありえない。

 あれから24年の歳月を積み重ね、広島はようやく「街なかサッカースタジアム」(エディオンピースウイング広島)をホームとして闘えるようになる。正直、エディオンスタジアム広島に対する寂しさよりも、新スタジアムへの期待が自分自身を支配していた。

 屋根は全席を覆い、ピッチとスタンドの距離も近く、スタンドの傾斜もサッカー観戦にふさわしい見やすさがある。市内電車(広島電鉄)JR・アストラムラインの駅がいずれも徒歩圏内。郊外の人々にとって便利な広島バスセンターも近くにあり、路線バスがスタジアム敷地内に乗り入れる計画もある。クラブは堂々と「公共交通機関でお越し下さい」と言える場所だ。

 近くには原爆ドームや平和公園、広島城があり、広島のシンボルというべき太田川の美しい流れも、すぐ側にある。そして広島一の繁華街である流川や中心街となる八丁堀や紙屋町も、徒歩圏内だ。新スタジアム「エディオンピースウイング広島」は間違いなく広島のランドマークとなり、人々に愛される存在となるだろう。

 これまでの日本では「プレーヤー」の視点でスタジアムが創られることが多かったが、ここ最近ではスタジアムがプロスポーツにとっての「劇場」であると認識され、「観客」の視点から考察されることが多くなった。その代表格が広島カープの本拠地であるMAZDA ZOOM-ZOOMスタジアムであり、サッカーではエディオンピースウイング広島、そして長崎に来年完成する新スタジアムである。

 そう考えていたからかもしれない。エディオンスタジアム広島のラストマッチを迎えても、筆者はそれほど寂しい想いにはならなかった。新しいスタジアムの新しい未来と希望の方が大きかった。

久保会長の言葉で気づかされた「あの記憶」

 11月25日のラストマッチは若者たちの素晴らしい躍動と、青山敏弘や柴﨑晃誠、柏好文らベテランの味を堪能しての勝利。試合後には林卓人の引退セレモニーで涙するというドラマが、胸をついた。ただ、試合後のセレモニーの冒頭で挨拶した、久保允誉会長の言葉が、僕の胸に突き刺さった。

 「2007年のJ2降格。本当に悔しい想いをいたしました。槙野(智章)のシュートがバーに当たった時の、なんとも言えない想い。本当に悔しい思い出でありました」

 会長は2012年の初優勝よりも先に、2007年12月8日、京都との入れ替え戦に勝てず、降格してしまった屈辱について語った。……

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Profile

中野 和也

1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。

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