イタリア育成崩壊の正体(後編)。奔放と創造の国で「管理される子供たち」が生まれる歪み
【特集】イタリア代表はなぜ、弱くなったのか?#3
W杯4度の優勝を誇るイタリアが、2大会連続で出場できず、北中米W杯予選でも再びプレーオフに回ることになった。だが、より深刻なのは結果そのものではない。バッジョ、トッティ、デル・ピエーロといった天才を輩出してきた「タレント大国」から、世界を驚かせる選手がほとんど生まれなくなっているという事実だ。少子化、外国人枠、若手の出場機会減――説明は出尽くした。しかし、どれも決定打にはなっていない。本特集では、成功している国ではなく、失敗している国の内側にこそ学ぶべきものがあるという視点から、イタリアサッカーが直面している問題点を検証する。
第1~3回では、著書『Oro Sprecato(無駄にされた黄金)』で国内に論争を巻き起こした「フットボール・アカデミー・イノベーション・ストラテジスト」ダニエレ・ラッリの証言を通して、イタリア育成崩壊の正体に迫る。後編では、育成の“上流”に横たわるイタリアサッカー界の思想と構造を解剖する。若手は起用されている。それでも育たない。ならば問うべきは「出口」ではない。問題は育成の“上流”、つまり当たり前だと思い込んできた思想そのものにある。
アカデミーで監督同士のチェスゲーム?
――育成、アカデミーの現場レベルに焦点を移すと、近年大きく変わってきているのがメトドロジー、トレーニングについての考え方ではないかと思います。ここは前編で出たサッキズムや学校モデルの話とも関連するところではないでしょうか。
「メソッドというテーマも、ここまでしてきた話と密接につながっています。どのようなメソッドを用いるかは、社会的、文化的な上部構造の産物です。今、トップレベルにおいて支配的な戦術はポジショナルプレーの考え方に基づくそれです。ポジショナルプレーとは何か。それは監督とそのスタッフが考える、ステレオタイプ化された計画をトップダウンでチームに落とし込むモデルです。その中で選手はもはや、監督のアイディアの単なる実行者にまで縮減されている。まさにチェスの駒です。今のサッカーは監督同士のチェスの試合です」
――エンツォ・マレスカは実際にそう言っていますね。
「昔、ローマはトッティのローマであり、バティストゥータとカッサーノのローマでした。今はガスペリーニのローマです。マンチェスター・シティはホーランドでもシェルキでもなく、グアルディオラのチームです。すべては、彼のバルセロナが『ペップのバルセロナ』として同定されたところから始まっています。私はむしろ『メッシ、シャビ、ブスケッツのバルセロナ』だと言いたい。しかしそうはならず、監督中心の文化がそこから始まりました。ポジショナルプレーは、関係性、駆け引き、ファンタジーでできているゲームを、計画の遂行というレベルに貶めてしまった。
(前編で)アカデミーはトップチームのモデルをコピーする、猿真似するという話をしましたよね。組織、施設、KPI、戦術、すべてそうです。サッカースクールでは下のカテゴリーからポジショナルなサッカーを教えようとする。小さなピッチ、少ない人数でのミニチュア版です。そこで監督は自分のサッカーを子供たちに植えつけようとする。アカデミーの指導者はモウリーニョやグアルディオラの同業者ではありません。しかし彼らは本気でそう感じている」
子供たちはロボットではない
――アカデミーの指導メソッドも、トップチームと同じくトップダウン型のものになっているということですね。
「はい。メソッドのレベルでも同じです。各年齢、各カテゴリーに、何を教えるべきか、何をできなければならないかを計画し、トレーニングメニューに組み込む。それをパスしていけば最終的には完璧な選手が完成する、という発想です。しかしこのやり方は子供たちをロボット化し、ゲームを機械的なものにします。与えられた役割や機能の遂行を求めることで、発見の喜びや創造の楽しみを奪ってしまう。
アカデミーは子供たちの場所ではありません。いや、そもそもそうだったことは一度もありません。子供たちの場所はストリートや広場だったからです。しかし私たちは、社会の変化という要因があったにせよ、大人として彼らの空間に侵入する権利があると感じて、彼らからその場所を、自由な遊びの文脈を奪い去った。アカデミーを大人が理屈で管理するものにして、子供たちを大人の自己確認に使うようになったのです。
そこで提案されるサッカーが、目先の結果をもたらすそれだというのは、だから不思議ではありません。8歳、9歳、10歳の子供たちが、トップチームと同じサッカーを、ただ小さなピッチで同じようにプレーしている。ポジションが決められ、秩序と規律を要求される。しかしそこには、逸脱する自由、閃き、奔放さ、即興性が欠けています。ボールを介して自然に結びつく関係性も生まれない。予測不可能性、意外性もない。逸脱したり奔放に振る舞ったりすれば、規律に欠けていると見做され、排除されたり矯正されたりする」
「創造性を育てる」という欺瞞
――ただ、子供たちがサッカーを遊ぶ場所がないという現実的な問題があり、大人がそれを用意しなければならないという現状もあります。
「そうした状況を理解している今の監督たちは『子供が創造性や独創性を表現できる状況を整える』という言い方を好みます。何度も聞いた物言いです。しかし、誰かがあなたに向かって『お前が自分自身を表現できる状況を整える』と言う時点ですでにおかしい。有名な俳優ジジ・プロイエッティはあるインタビューで『演技は教えるものではない。するものだ』と言っていました。サッカーも本来はそういうものです。『サッカーを教えることはできない。プレーするものだ』。あるいは、多くの場合創り出されるものです。私たちは、プレーする(=遊ぶ)、創り出す、という言葉そのものを捨ててしまいました。8歳の子供たちは、かつて私たちがストリートや広場で遊んでいたようにはプレーしていません。彼らはサッカースクールにトレーニングに行く。子供は遊ばなければならない。遊びというのは本質的に自己主導型の活動です。大人が何をすべきか指示したら、それはもう遊びではありません」
――先ほどのサッキズムにもつながってくる話ですね。
「はい。ここでまた話は、社会的、文化的な背景に戻ります。何がすべてを支配しているのか? それはコントロールの文化です。すべてをコントロール下に置かないと気が済まない。不確実性を受け入れながら進むことができない。産業や学校のように創られたアカデミーは、その枠組みを逸脱することができず、むしろ枠組みを養い続ける。そして最後にオーナーやCEOやダイレクターが来て『でもダニエーレ、創造的な選手が出ない』と言う。でも、選手を飼いならすようなやり方でアカデミーを運営しているのだから、それは必然的な結果以外ではありません。メソッドのレベルまで下りてきても、話は同じです。アカデミーの枠組みを変えないまま、メソッドだけを変えても、それは病気の原因ではなく症状に対症療法で介入するようなものです」
コントロールの文化
――メソッドを問題にするなら、まずその上にあるアカデミーの構造や枠組み自体を見直し、それに基づいて再編されなければならないということですね。エコロジカル・アプローチのような最先端のメソッドを導入するにしても、それは変わらないと。
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Profile
片野 道郎
1962年仙台市生まれ。95年から北イタリア・アレッサンドリア在住。ジャーナリスト・翻訳家として、ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を広げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。主な著書に『チャンピオンズリーグ・クロニクル』、『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』『モウリーニョの流儀』。共著に『モダンサッカーの教科書』などがある。
