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【インタビュー】アルゼンチンユース代表を立て直した男、フェルナンド・バティスタの流儀

2020.08.29

今年1〜2月に開催されたプレオリンピコ・スダメリカーノ(オリンピック南米予選)で優勝し、東京五輪の出場権をつかみ取ったU-23アルゼンチン代表。その監督を務めたフェルナンド・バティスタ(Fernando Batista)はアルゼンチン国内でもまだ認知度の低い指導者だが、アルゼンチンサッカー協会(AFA)が『Proyecto de 10 Años』(10年プロジェクト)の名の下に掲げる代表チーム強化計画を進める上で、ユース代表再建のキーマンとして選ばれた男である。

2018年12月の監督就任から約1年の間に、U-20南米選手権で準優勝してU-20ワールドカップ出場を果たし、パンアメリカン競技大会では金メダルを獲得、そしてプレオリンピコを制して母国に五輪切符をもたらしたバティスタとは、一体どのような人物なのか。1970年8月20日生まれの50歳。アルゼンチンの育成現場で長年にわたって指導にあたる彼に話を聞いた。

父、そしてペケルマンの後を追って

A代表の人材をユース代表で育てる」というサイクルを今一度

── プレオリンピコ・スダメリカーノ(2020年1月18日〜2月9日)での快進撃をきっかけにアルゼンチンのメディアもようやくあなたのことを取り上げるようになりましたが、まだまだフェルナンド・バティスタ監督について知られていない部分は多いと思います。これまでの経歴を簡単に話してもらえますか?

 「現役選手としてプレーしながら指導者の資格を取っていたので、2002年に引退してからすぐ指導の道に進みました。もともと私の父が、優れた育成プログラムを持つことで知られるアルヘンティノス・ジュニオルスの管轄下にあったクルブ・パルケでジュニア世代の監督をしていたため、私も兄のセルヒオ(※元アルゼンチン代表選手で1986年ワールドカップ優勝メンバー、指導者としてはアルゼンチン代表監督などを歴任)も自然に育成部門に興味を抱くようになったのです。引退後はまずウラカンのジュニアチームで指導にあたり、サン・ロレンソのユースで監督を務めた後、2008年から私の古巣であるアルヘンティノスで下部組織のコーディネーターを任されることになりました」

── クルブ・パルケといえば、かつてフェルナンド・レドンドファン・パブロ・ソリン、エステバン・カンビアッソといった中盤の名手たちを育て、「才能の工場」と呼ばれた名門ですよね。

 「そうです。私の父は1991年に他界するまで、パルケで才能の発掘と子供たちの育成に従事していました。当初パルケにはバスケットボールのチームしかなかったのですが、サッカーが大好きだった父が子供たちを集めてバビーフットボールのチームを作り、やがて優れた選手がいたらアルヘンティノスの下部組織に送り込むようになりました。私も今、アルゼンチンのユース代表監督をやりながら、時間がある時はパルケのアドバイザーとして協力しているんですよ」

── 「アルヘンティノスで育成に従事した無名の指導者がユース代表監督になった」という点で、あなたはかつてアルゼンチンユース代表の黄金期を築いたホセ・ペケルマンと共通していますね。今、AFAが取り組んでいるプロジェクトからは、まさにそのペケルマンがいた頃にでき上がった基盤をユース代表に取り戻そうという意図がうかがえます。

 「ホセは偉大な指導者ですが、それ以上に素晴らしい人格者で、私にとっても憧れであり模範です。A代表はリオネル・エスカローニ、U-17代表はパブロ・アイマール、U-15代表はディエゴ・プラセンテというように、そのホセの指導を受けてユース代表として世界チャンピオンになったメンバーが各カテゴリーの監督に任命されたのは、もちろん偶然ではありません。ユース部門の総括コーディネーターにベルナルド・ロメオが選ばれた理由も同じです。彼らが1990年代にU-20代表として世界チャンピオンに輝いた時の経験と学びを反映させることによって、『A代表の人材をユース代表で育てる』という当時のサイクルを今一度作り上げようと取り組んでいます。

 U-20代表とU-23代表を任されている私の場合は、次世代のA代表選手の育成はもちろん、エスカローニから『このポジションでこのようなプレーをする選手が必要』という具体的な要望があった時に対応できる、即戦力になり得る若手に経験を積ませ、彼らがいつでもコパ・アメリカやワールドカップ予選といったハイレベルの試合に参戦できるように準備を整えることが課題となります」……

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アルゼンチン代表フェルナンド・バティスタ

Profile

Chizuru de Garcia

1989年からブエノスアイレスに在住。1968年10月31日生まれ。清泉女子大学英語短期課程卒。幼少期から洋画・洋楽を愛し、78年ワールドカップでサッカーに目覚める。大学在学中から南米サッカー関連の情報を寄稿し始めて現在に至る。家族はウルグアイ人の夫と2人の娘。

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