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レバンドフスキの、知られざる半生。旧知のポーランド人記者が明かす真実

2018.06.18

「日本の敵」のキーマン:ポーランド編

ポーランドの絶対的エースとして、ロシアW杯で日本の前に立ちはだかるロベルト・レバンドフスキ。柔と剛を兼ね備えた世界最高峰のCFは、お世辞にも列強国とは言えない東欧の地からいかにして現在の地位にまで上り詰めたのか。ポーランド人記者が紡ぐ、知られざる物語。

「ロベルト」に込められた意味

 父のクリストフはこう言っていた。

 「生まれてくるのが男の子なら、アーノルドと名付けたい」

 学生時代に柔道の欧州チャンピオンになったことがあり、かつ国内4部リーグでサッカー選手としてプレーした経験もあるスポーツマンのクリストフは、将来のことを見越して生まれてきたかわいい息子に、外国に行ってもすぐに覚えてもらえる名前をつけたがった。

 そんなクリストフに、母のイボナはこう提案した。

 「じゃあ、ロベルトはどうかしら。英語だと『ボブ』って愛称になるから」

 こうしてロベルトという名を授かったレバンドフスキは、「ボブ」をポーランド語風にした「ボベック」(小さなボブの意)と呼ばれ、小学校で体育教師を務める両親と姉のミリナにかわいがられながら、ポーランドの首都ワルシャワ近郊の街ブレシノですくすくと育った。

 父は柔道家かつサッカー選手で、母はバレーボール選手。その遺伝子を引き継いだレバンドフスキは、運動ならなんでもできた。子供の頃、アトランタ五輪金メダリストのパベウ・ナストゥーラを指導したボイチェフ・ボロビアクの下で2、3回、柔道の指導を受けたことがある。その時、名伯楽はこう言ったそうだ。

 「ロベルトには才能がある。続けてほしい」

 だが、彼が柔道を続けることはなかった――すでにサッカーに夢中になっていたからである。

 地元のチームでサッカーを始め、1997年にバルソビアという小さなクラブへ加入する。ところが、この時クラブには1988年生まれ世代のチームがなかった。そのため、自分より体の大きい、2歳年上世代のチームに混ざりプレーすることとなった。

 おとなしい性格で、高校生になっても同世代の多くが手を出すアルコールやタバコに興味すら示さなかったレバンドフスキは、家族との夕食の時にも、テーブルの下にボールを置き、足で転がして遊んでいた。

 当時、ポーランドの教師の給料は良くなかった。決して裕福とは言えなかったが、それでも両親はレバンドフスキが家族で休暇を過ごす代わりに他の子たちと一緒にサッカーキャンプへと参加できるよう、費用1000ズウォティ(約3万2500円)を工面するなど全面的にサポートした。

[上段左]幼少の頃のアルバムの写真にも愛称“ボベック”の文字 [上段右]9歳で加入したバルソビア時代のもの。手前左から2番目がレバンドフスキ。1カテゴリー上のチームだったため、彼より大柄な選手が多い [下段左]飛躍のきっかけをつかんだズニチュ・プルシュクフでは所属した2シーズンともにリーグ得点王に輝いた [下段右]1部リーグデビューを果たしたレフ・ポズナニ時代。移籍直前の09-10シーズンに得点王を獲得している

死別と挫折、そして飛翔

 家族に愛を注がれ育ち、間もなく大人になろうかというレバンドフスキだったが、試練の時が訪れる。2005年、クリストフががんを発症。翌年3月に受けた手術の甲斐もなく、同年4月に還らぬ人となってしまう。レバンドフスキがまだ17歳の時だった。イボナは、悲しみに暮れてほしくないという想いからミリナをアメリカの大学へ進学させた(現在は帰国し、弟から贈られたワルシャワのアパートメントに住んでいる)。

 そしてレバンドフスキは、名門レギア・ワルシャワのテストを受けセカンドチームに加入を果たす。ワルシャワ近郊で育ったレバンドフスキにとって、名門レギアでプロになるのがずっと夢だった、ところが……「才能が足りない」と言われ、プロ契約をあっさりと断られてしまった。

 父の死と憧れのクラブからの“落第”に直面したレバンドフスキだったが、決してくじけることはなかった。3部リーグのズニチュ・プルシュクフへ加入するとともに、ワルシャワの体育教育大学に入学し勉強を始める。ズニチュ・プルシュクフでの2年間で、レバンドフスキは59試合に出場し36ゴールを記録。チームも1年目に2部、2年目は1部に昇格した。そして、その活躍が1部のレフ・ポズナニの目に留まるのだ。

 そしてこの頃、レバンドフスキのその後の人生に関わる、重要な出来事があった。2013年に結婚することになる最良のパートナー、アンナとの出会いである。

 大学に入学した直後、レバンドフスキは新入生たちのために用意された合宿に参加。そこに、空手選手だったアンナもいたのだ。この合宿が行われたのはポーランドの北東部のマズーリ地方で、多くの湖と森が広がる風光明媚な場所である。ロベルトとアンナは後に、この特別な想い出の地に家を建てた。休暇になると、そこで水上オートバイに乗ったり、車を走らせたりして過ごすのである。

 レフ・ポズナニ加入が決まったレバンドフスキは、大学を休学しポーランド西部の街ポズナニへ向かった(この大学を卒業するのは2017年10月のこと。W杯行きを決めた翌日、卒業証書を手に微笑むレバンドフスキの写真が世界中に広まった)。

 レバンドフスキは1年目に14得点、2年目には18得点を決めてリーグ得点王に輝く。そんな息子のプレーを、イボナははるばるワルシャワから毎試合欠かさず駆けつけて見守った。

 そして、ポズナニのスタジアムのスタンドにいたのは彼女だけではなかった。当時ドルトムントを指揮していたユルゲン・クロップが、パーカーのフードをかぶって目立たないよう、ひっそりとレバンドフスキのプレーを注視していた。彼は視察に訪れていることをレバンドフスキに悟られることがないよう、普通にチケットを買って一般席に座っていたのである。

 クロップのお眼鏡にかなったレバンドフスキは、ドルトムントとの交渉に臨むことになる。この時のレバンドフスキは、まだまったくドイツ語ができなかった。しかし、ドルトムントの強化部長であるミヒャエル・ツォルクの夫人はポーランド人なのだ。これは大きな助けとなったことであろう。こうして2010年7月1日、ドルトムントとの4年契約にサインした。

 当時のドルトムントには同じポーランド人のウカシュ・ピシュチェクとヤクブ・ブワシェチコフスキがいた。だが、レバンドフスキが一番仲良くなったのはマリオ・ゲッツェだった(後にマルコ・ロイスも加わる)。彼らと親交を深めることで、レバンドフスキのドイツ語はめきめきと上達したのである。

 ドイツでプレーするようになってからは、ミックスゾーンであまり話さなくなった。だが、取材に応じてくれた時には話が終わると肩に手をかけて「これだけで足りる?」と気遣いをみせてくれるなど、心の奥の部分はポーランド時代と変わらないままだ。

[上段左]ドルトムント加入会見での1枚。右からクロップ(現リバプール監督)、同じポーランド出身のピシュチェク、ランゲラク(現名古屋グランパス)、レバンドフスキ、ツォルクSD [下段左]ハットトリックを達成し盟主バイエルンを撃破、国内2冠を達成した11-12のDFBポカール決勝 [上段右]ドルトムント加入後、特に仲が良かったというゲッツェ、ロイスと [下段右]バイエルンでアンナさんの料理をチームに広めるきっかけとなったミュラーとは、ピッチ上でも阿吽の呼吸を見せている

イボナとアンナ

 レバンドフスキの人生の中で、特に大きなウェイトを占めている2人の女性がいる。母のイボナと妻のアンナである。

 レギアに契約を断られた時、「下を向いていてはいけないわ。諦めないで」とレバンドフスキを力づけたイボナは、レバンドフスキが初めてアンナを紹介した時、こう言った。

 「私と同じなのは髪の色だけじゃないみたいね。芯があるし、なんでも自分でやり切ることができる」

 イボナが察した通り、アンナはしっかりしていて、レバンドフスキの輝かしいキャリアは彼女なしでは考えられないと言われるくらい、あらゆる面でうまくサポートしている。

レバンドフスキと妻のアンナ

 一例を挙げよう。料理が大好きで自身もスポーツ選手だったことから、アンナはアスリートの食事の重要性を人一倍理解している。2014年にバイエルンに移籍してから、アンナは試合の日のレバンドフスキに、彼女が考案した「クルキ・モーチ」(英語で言えば“パワーボール”)という、ココナッツ、デーツ(ナツメヤシの果実)、セサミペーストを混ぜて団子状にした軽食を持たせていた。

 すると、試合前にレバンドフスキが必ずこれを食べているのを見たトーマス・ミュラーが「自分も食べたい」と言い出した。瞬く間に選手たちの間で評判となり、以来アンナは他の選手たちの分も作ってレバンドフスキに持たせるようになった。その後、この「クルキ・モーチ」は商品化され、「エナジーバー」という名称でオンラインショップやガソリンスタンドの売店などで売り出されている。アンナにはビジネスの才もあるのだ。

 また、彼女はポーランド代表選手のWAGs(夫人やガールフレンドたち)の中でもリーダー的な存在だ。EURO2016など大きな大会の前に代表チームが集合した時には、彼女たちを集めてエアロビクス教室を行ったりしている。

 ちなみに、2017年5月4日に誕生した2人の第一子は女の子でクララちゃんと名付けられた。彼女もまた、レバンドフスキにとってかけがえのない存在である。

 イボナは今でも体育教師として働いている。ドルトムント時代の2012年5月12日、DFBポカール決勝でバイエルンと対戦する際、ベルリンへ駆けつけたイボナの肩を抱きながら、満面に笑顔を浮かべたクロップはこう口にした。

 「貴女の息子さんはスーパーボーイだけど、こんなに良いお母さんがいたら当然だね」

 この試合、レバンドフスキはハットトリックを達成。ドルトムントは5-2で勝利した。

 「3点目を決めた時のロベルトは、まるでバルソビアでプレーしていた子供の頃のように、本当に幸せそうに見えました」

 イボナは感慨深げに語った。

 また、この試合はレバンドフスキのキャリアにとって非常に重要な試合でもある。大活躍によって自分に確固たる自信を持つようになったからだ。

史上2人目の快挙

 ポーランドでは毎年、新年の始めに、『プシェグロンド・スポルトビ』紙主催で年間最優秀スポーツ選手が表彰される。10人の候補者の中から選出されるが、2017年の最有力候補とされたのはレバンドフスキと、カミル・ストッフだった。ストッフは今年2月に行われた平昌オリンピックのラージヒルで金メダルを獲得したスキージャンプ界の大スターである。

 最終的に、昨年の最優秀スポーツ選手にはストッフが輝き、レバンドフスキは2015年以来自身2度目の受賞を逃した。ただ、これは選出時期が大きく影響している。

 ストッフは12月末から1月始めのジャンプ週間中、オーバースドルフ、ガルミッシュ・パーテンキルヒェン、インスブルック、ビショッフスホーフェンで連続優勝。オリンピックを控える中での大活躍とあって、ポーランド中で大フィーバーとなったからだ。

 もし昨年10月に投票が行われていたなら、選ばれていたのはW杯予選で15ゴールのクリスティアーノ・ロナウドを上回る16ゴールをマークし、W杯欧州予選のレコードを塗り替えたレバンドフスキだったに違いない。

 “ビアウォ・チェルボニ”(ポーランド代表の愛称)は10月5日、欧州予選第9節アルメニア戦にレバンドフスキのハットトリックなどで6-1と快勝。その3日後、モンテネグロに4-2の勝利を収め、本大会への切符を勝ち獲った(レバンドフスキは1ゴール)。2006年以来、3大会ぶりにW杯出場を決めたポーランド代表だが、もしレバンドフスキがいなかったなら、ロシアに行くことは叶わなかったであろう。

大会開幕時点で代表通算95試合に出場し、同国史上最多となる55ゴールをマーク。ポーランドサッカー界の“生ける伝説”と呼んでも過言ではない成績を残している

 3月23日の親善試合で対戦したナイジェリアのゲルノト・ロール監督の言葉を借りれば、「レバンドフスキがいなかったら、ポーランドはずっと貧しい(弱い)」のであり、ブラジル代表を率いるチッチ監督に言わせれば、「もし他国の代表から欲しい選手は誰かと聞かれたら、レバンドフスキ、チアゴ・アルカンタラ、ダビド・シルバと答えるだろう」ということなのだ。

 2000年代前半から中盤にかけて4度スキージャンプのW杯総合王者に輝いたアダム・マリシュや、クロスカントリースキーで2010年のバンクーバー、2014年のソチと2大会連続で五輪の金メダルを手にしたユスチナ・コバルチクら国民的英雄を輩出しているポーランドは伝統的にスキー大国である。実際、年間最優秀スポーツ選手をマリシュは4度、コバルチクは5度も受賞している。

 一方、レバンドフスキは2015年の1度だけ。だが、これはサッカー選手としては1982年のズビグニェフ・ボニエク以来33年ぶりのことであった。そもそも、過去にサッカー選手の受賞者はこの2人しかない。

 ポーランドサッカー界には、1970年代から80年代前半にかけて黄金期を迎えた時期がある。1974年の西ドイツW杯で3位となったチームには主将を務めマンチェスター・シティでプレーしたカジミエシュ・デイナや7試合7得点を決めたグジェゴシュ・ラトーといった名手がいたが、年間最優秀スポーツ選手の栄誉には届かなかった。

 2大会後の1982年スペインW杯で再び3位に。この時チームを牽引したボニエクが、サッカー選手として初めて年間最優秀スポーツ選手を受賞した。ボニエクはこのW杯後にユベントスへ移籍。ミシェル・プラティニとのドリームコンビでその名を知らしめセリエA優勝、チャンピオンズカップ(現CL)制覇を果たし、現在はポーランドサッカー連盟の会長を務めているポーランドサッカー界の顔である。

 レバンドフスキはそのボニエク以降、20年以上英雄不在だったポーランドサッカー界にとうとう現れた新たな英雄なのだ。

Photos: Jerzy Chwałek, Michał Wielgus, Bongarts/Getty Images, Getty Images
Translation: Takako Maruga

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FIFAワールドカップバイエルンポーランド代表ロベルト・レバンドフスキ

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Jerzy Chwałek