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メンタルトレーニングの最先端。 テクノロジーで鍛錬する認知・判断

2017.11.28

SAP×ホッフェンハイムが牽引するサッカー界のITイノベーション

世界のビジネスソフトウェア市場を牽引するSAP社が全面協力するホッフェンハイムは、欧州サッカー界で最もIT化が進んだクラブの一つだ。30歳のブンデスリーガ最年少監督ナーゲルスマンとともに、新興クラブは独自の方法でサッカー界にイノベーションを起こそうとしている。ここでは、欧州のトップレベルでもその重要性が認識されてきている認知・判断といったメンタルな側面を鍛える最先端トレーニングを紹介したい。

 始めに雑音、そうして2回ブザーが鳴る。同時に、四方が上下2段合わせて72に区切られ、電飾された壁のうちの1枠が緑、赤、青の順にライトが光る。人工芝のピッチの中央には人間が1人、“実験台”として立たされていた。彼はブザーが鳴った方向を探してはウロウロし、外から見ても経験不足がわかった。するとボールが時速35kmの速さで飛び出してきて、彼はボールを止められたことを喜ぶ。あとは光っている枠に入れるだけだが、蹴ったボールは枠を外れてしまった――。

 ホッフェンハイムの練習場の脇にあるこの「フットボーナウト」はプロやセミプロ、そして数多くの才能あるアカデミー選手たちがシュートやパスの精度、反応や判断までの速度を鍛えている。彼らは時速70kmのボールを受け、より大きなノイズの中、2秒以内にライトが光った枠の中にボールを入れなければいけない。トレーニングの様子は2台のカメラを通じて録画され、データ素材として保存されている。キックの感覚をつかむため自発的にトップチームの選手もこの施設に足を運ぶという。この日は全体練習がオフにもかかわらず、FWのアンドレイ・クラマリッチやMFのルーカス・ルップが姿を現した。

ナディエム・アミリが「フットボーナウト」にチャレンジした動画

クラブ哲学は「イノベーション」

 ラファエル・ビョルン・ホフナーはホッフェンハイムの「スポーツITイノベーション部門コーディネーター」という役職で働いている。2013年に実用化されたフットボーナウトをはじめとする様々な超現代的なプログラムやマシーンの開発を行い、主にホッフェンハイムが提携するクラブの育成アカデミーに提供を続けている。「彼は常にアイディアを持ち歩いている。彼の仕事はそれが実現可能かを見極めながら、新しいアイディアを追い求める作業です」と社長のペーター・ゲアリッヒは言う。

ラファエル・ビョルン・ホフナー

 ゲアリッヒは人事、イノベーション、スポーツ部門、マーケティング、そして経営の最責任者だ。この49歳のバーデン地方出身の経営者が大学で修めた科目を見れば、実験的クラブでの社長業が最適だということがわかるだろう。彼はハイデルベルク大学でスポーツ科学、スポーツ医学、そして心理学を専攻していたのだから。ゲアリッヒは「私はイノベーションという言葉を使う時、それはこのクラブに根づいている基本哲学だと説明します。つまり、クラブの戦略的な基本原則なのです」と強調する。ホッフェンハイムの施設内にあるものすべてがイノベーションという規範に則って成り立っているのだ。

 このプロジェクトはユニフォームの胸にロゴが掲げられているスポンサーのソフトウェア会社SAPとその創設者ディートマー・ホップとの密接な共同作業によって進められている。「ホップは立ち止まらない進歩という哲学のシンボルです。一つのプラットフォームを基に、先に進むことを恐れないディスカッションとアイディアが求められています」

SAPと心理学者が作った「ヘリックス」

 すでに紹介したフットボーナウトの他に、この理念の下で作り出された新作がSAPの地下室に眠っていたスクリーンを生かした「ヘリックス」である。ホフナーはこのアイディアがふとした言葉から生まれたと教えてくれた。

 「SAP本社でミーティングしている時に、誰かが『そういえば、地下に180度の半円型のスクリーンがあるんだ。君らなら使えるんじゃないか』と言ったんです」

 そこからホッフェンハイムは、SAPとクラブで働くスポーツ心理学者のヤン・マイヤー教授の想像力を生かしてヘリックスを作り上げた。マイヤー教授はGKに必要な集中力や予測能力を高めるためのタブレット端末用トレーニングプログラムを開発した実績があり、「脳トレ」のスペシャリストだ。彼がヘリックスの開発の指揮を執ることになった。

フットボーナウトの後に出てくるのが「ヘリックス」

 ヘリックスはフットボーナウト・ホールの2階に設置されている。目的はサッカー選手の周辺視野を鍛えることだ。初めに指定された4人の選手を見て覚え、ボール型のボタンを押す。すると2チームに分かれていた選手たちは一気に散らばり、数秒後に再びスタートポジションに戻る。その時、あらかじめ指定されていた選手たちを見分けるトレーニングである。視野が広がり、自身の隣にいる選手やサイドに開いている選手を認知できるようになる仕組みだ。このプログラムはレベルの調整が可能で、将来的には360度に拡張されるという。「そうなれば、認知のトレーニングに加えて、数的優位や数的不利な状況もシミュレートできるようになるでしょう」とホフナーは予測する。彼はFIFAシリーズのようなサッカーゲームも、ヘリックスに導入できれば面白いと考えている。

 「個人的には、ようやく第一歩を踏み出せたというところです。ここからさらに動きは加速していくでしょう」とゲアリッヒは言い、「センサー技術の導入によって、今後数年にわたってさらなる開発を進めていきたい」と続けた。ホッフェンハイムでは14日に1度、クラブのコーチングスタッフ、スポーツ心理学者、パフォーマンス分析スタッフ、フィジカルコーチ陣、ドクター、そしてフィジオセラピストが集まるミーティングが行われる。ゲアリッヒはその意図をこう説明する。「トップレベルのパフォーマンスが要求される世界では、最後の最後のディテールの部分を追求する必要があります。例えば新たなテクノロジーによって負荷の調整や回復を最適化させる方法を見極めることが求められているのです。私たちは常に新しいアイディアが、実際にピッチ上で有効に活用できるかに関心を注いでいます」

ブンデス最年少監督の意欲

 この斬新なアイディアを実戦で使えるかどうかを判断する際に、監督であるユリアン・ナーゲルスマンの考え方はとりわけ重要な意味を持つ。30歳のブンデスリーガ最年少監督は、自身がデジタル世代に属することもあり、最先端のデジタル技術が提供するツールの活用には自信があるという。一方で、「私が立てる設問は、どうやってこのツールを使うのか、これを活用する時間をいかに見つけるか、そしてそのツールをいかに使えばチームを成功に導くことができるか、ということです」と続ける。彼の判断によればフットボーナウトは「育成年代のトレーニング補助に役立つでしょう。なぜなら、フットボーナウトはゲームの状況からテクニックのトレーニングのための設定を切り出し、多くの回数を繰り返せるように設定されているからです」。すでにプロとして成長している選手にとっては「フットボーナウトよりも実戦に近い設定がなされた、あらゆるゲーム形式のトレーニングの方が役に立つ」と考えている。ヘリックスに関しては「視覚能力や認知技術、視野の拡大に効果があり、GKやCBなどがクロスボールへの対処を向上させることに役立ってくれるでしょう」と評価する。

ユリアン・ナーゲルスマン

ナーゲルスマンにとってイノベーションというテーマは、ビデオ技術とデータ分析により情熱が注がれている。「ビデオやデータを効果的に使うことには意味があります。これらは私たちのプレー哲学に沿った戦術的なツールになり得ますからね。データの用途はフィジカル的なものだけに限りません」。戦術的なデータの活用法にも思いをめぐらせる。「できることなら、試合中に手元に送ってもらいたいですね。例えば、3バックから4バックに変えるタイミングを見極める際にそのまま使えるデータがあればいい。今は試合後にデータ分析を行います。負けたにもかかわらず、対戦相手よりも優れたスタッツを記録していることがありますよね。しかし、負けてしまった後でその数字は私に何をもたらしてくれるのでしょうか?」

魔法の道具箱ではなく、改善のツール

 ホッフェンハイムの研究プロジェクトに関与するナーゲルスマン、ゲアリッヒ、ホフナーをはじめとするすべてのスタッフは、イノベーションによる発展への参与にアイデンティティを見出している。「すでに行われていることを繰り返すだけでは、先へは進めませんからね」とナーゲルスマンは言う。しかし、彼は「イノベーションが目的化してはいけません。目的はあくまでチームがより良くプレーできるようになることです」と警告することを忘れない。ドローンを上空に飛ばしてトレーニングを観察することも、「選手間の幅や深さの距離を正確に把握するためです」と説明する。

 魔法の道具箱ではなく、改善のためのツールを作っていることは、すべてのスタッフにとって自明のことだ。ツーツェンハオゼンにあるSAP本社では変化し続ける状況に対応するために対戦相手よりも10分の1秒速く動く――適切な瞬間に10分の1秒単位でより速やかな判断を下すこと――を追求し続けているのだ。
「サッカー選手にも他の人々と同じように調子の良い日もあれば、悪い日もあります。そんな時、最先端のイノベーションは何の役にも立ちません」とナーゲルスマンは言う。イノベーションは「現在」ではなく、「未来」のためにある。「フットボーナウトもヘリックスも、我われが残留争いの真っただ中にいた頃、すでに存在していました」とゲアリッヒは付け加える。今季ホッフェンハイムの発展はイノベーションの先進性だけでなく、順位表でも確認できるようになった。新興クラブの戦略は常に前進し続ける。

Cooperation: Deutsche Fußball Liga GmbH
Translation: Tatsuro Suzuki
Photos: Bongarts/Getty Images

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ITSAPシステムトレーニングホッフェンハイム

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ローラント ツォルン

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